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「厭な小説」の京極 夏彦さん
インタビュアー青木 千恵(ライター)
「新刊ニュース 2009年6月号」より抜粋

京極夏彦(きょうごく・なつひこ)
1963年北海道小樽市生まれ。道立倶知安高校卒業。桑沢デザイン研究所を経て、広告代理店等に勤務の後、制作プロダクションを設立。アートディレクターとして、現在でもデザイン・装丁を手掛ける。妖怪への深い考察と愛を織り込んだ作品を中心に、多彩な作風で多くの読者を魅了する。世界妖怪協会・世界妖怪会議評議員。関東水木会会員。怪談之怪発起人。94年に『姑獲鳥の夏』で小説家デビュー。96年『魍魎の匣』で第49回日本推理作家協会賞長編部門、97年『嗤う伊右衛門』で第25回泉鏡花文学賞、2003年『覘き小平次』で第16回山本周五郎賞を受賞。04年『後巷説百物語』で第130回直木賞を受賞。他に『どすこい。』、『南極〈人〉』、『幽談』など著作多数。このたび新著『厭な小説』(祥伝社)を上梓。


『厭な小説』
京極夏彦著
祥伝社


『姑獲鳥の夏 上・下』
京極夏彦著
講談社


『魍魎の匣 上・中・下』
京極夏彦著
講談社(講談社文庫)


『覘き小平次』
京極夏彦著
角川書店発行/
角川グループパブリッシング発売
(角川文庫)


『後巷説百物語』
京極夏彦著
角川書店発行/
角川グループパブリッシング発売(角川文庫)


『百器徒然袋─風』
京極夏彦著
講談社
(講談社文庫)


『南極〈人〉』
京極夏彦著
集英社


── 『厭な小説』は、会社員、主婦といったごく普通の人々が、さまざまないやな思いをする異色短編集です。まず嫌悪感≠突き詰めて書いた理由を教えて下さい。

京極  世の中には、善悪、正誤、優劣といった、様々な価値判断がありますよね。でも、個人の中では、つきつめれば好き嫌いで決めていたりすることも多いでしょう。駄目なところが好きだとか、間違ってるけど嫌いじゃないとか、そういうことって、実は多い。まさに十人十色で、好きなことは様々なんです。一方で「厭」なことって、そんなに個人差がないようにも思うんですね。嫌いというより「厭」ね。もちろん、人それぞれですから、中には「普通」は「厭」だろうということが好きだという方もいらっしゃるんだけれど、まあ特例というか、少数派ではあったりする。たとえば、「タンスの角に足ぶつけるのが好きだ」という人は、きっと少ないんじゃないかと。いないとは言いませんが。そういう、わりに普遍的な「厭さ」というのを拾えないものかなあと考えたんでしょうね。結果的に日常的な、細かいネタになっていくんですね、普遍的な「厭」って。

── 夫婦の家に、奇怪な子供が現れる「厭な子供」、主婦が、同居する老人に苛立ちを募らせる「厭な老人」、嫌いな同僚に、先祖がぎっしり詰まった仏壇を預けられる「厭な先祖」など七編です。主人公たちがいやな目に遭う物語の中に、現代の誰もが感じる、日常的ないやなことが書かれている。

京極  別に「厭な弁当箱」でも「厭なチューリップ」でも何でもよかったんですけどね。どんなものにも「厭」な状況というのはあるだろうから、例えば「厭な苺大福」だったら、どんな苺大福が「厭」と思われるのか考えればいいわけで。でも、最初が「子供」でしたからね。まあ次は「老人」でいこうかと。だから、一篇一篇はヴァリエーションとして順次考えられていったものなんです。ただ、最初に書いた(一九九九年)段階で、シリーズ構成的なものは決めていたんですね。一作目の冒頭で上司の愚痴を言っている深谷というキャラクターが、傍観者的に全編に関わって様々な「厭」を目撃し、最終作でその上司と一緒に登場して「厭」な目に遭うという、そこは決めていました。あとは中にはさまる「様々な厭」をどうするかということで。

── いやな上司と新幹線に乗って「食事の時でもさ、トイレ入っててもさ、情報収集でしょう」とねちねち言われるあたり、リアリティがありました。良い上司で、惜しまれてリタイアした殿村は、独り暮らしの家で、足の小指をチェストにしこたまぶつけるようないやな目に遭っている。我慢する、良い人ほどいやな目に遭うんですね。

京極  ぶつけ癖ってつくんですよね(笑)。殿村というキャラクターは、実在したらかなり人望のある人物だろうと思いますが、えらいことになってますね。対局にあるのが亀井というキャラクターで、こちらはいたら相当厭な奴でしょう。この亀井が酷い目に遭えば「ざまあみろ」的に読者もすっきりするだろうし、娯楽小説としてはその方が正しいのかもしれませんが、これは「厭」な小説なので。だいたい可哀想な体験をするのは前向きで立派な心がけの、我慢強くて良識ある人々ですね。

── グリンピースが嫌いな彼のために、ハヤシライスに乗せるグリンピースの量を少しずつ増量していく「厭な彼女」も、妙にリアリティがありました。進退きわまった主人公が、「厭だ」とこぼして話が閉じていく。

京極  男性読者からの反応はかなりありました(笑)。全編、「厭だ」で始まり「厭だ」で終わるんですけど、最終ページはラスト二、三行だけ。これは装丁家の方のアイディアです。「厭だ、だけ次ページにこぼれると、厭な感じですね」という。

── 主人公と一緒に、読者も「厭だ」と思ってしまいますが、いやなことばかり書いた小説が、面白いのはなぜでしょうか。

京極  面白さもいろいろですからね。小説って、所詮「他人ごと」です。それが読むことで「自分ごと」になるでしょ。まあ、どの作品の「厭」も実際にはあり得ない「厭」ですよ。でも、電車の中吊り広告が半分読めないとか、洗濯のやり直しがめんどくさいとか、腐った刺し身食べちゃったとか、そういうつまらない「厭」はごく普通にあるわけです。現実は、そういう細かい「厭」ばっかりなんですけど、小説ではそれが積み重なってあり得ない「厭」になるわけで、そうなるともう絵空事なんですね。まあ、そうした現実の「厭」を絵空事に化けさせてやろうというか。ただ、その絵空事の方に力点を置いちゃうと、SFやらホラーやらに近付いてしまうから、そこは気を付けたつもりなんですが。その辺は書き出した頃から自覚的ではあって、モダンホラーとか怪談とか、そういう括りからはハズレていきたいなあと思って書いていたように思います。「怖い」じゃなくて、あくまで「厭」にしたかった。成功しているかどうかはわかりませんけど。最初の作品からは十年経ってるわけですが、今読み返しても「厭」でした(笑)。ま、「厭」なことはたくさんあるんですけど、現実にこんな小説みたいなことは起きないし、そういう意味では世の中捨てたものじゃないと(笑)。

── それにしても、小指をぶつけたり、納戸の棚の上から帽子箱が落ちてきて額に当たるような小さなことが娯楽小説になるとは、普通、思わないわけですが。

京極  そういう日常的な些事も、純文学では扱える素材ではあるわけでしょう。まあ、エンターテインメントだと、殺人だのなんだの派手なことがよく起きるし、恋愛にしたってドラマチックだったりファンタスティックだったりするわけで、「そういうもんだ」的な了解もあるのかもしれませんけど、僕個人としては純文学とエンターテインメントの差があんまりわからない。というか、同じでしょう。なら、いいんじゃないかなあと。

── デビューから十五年が過ぎましたが、小説作りで何か変化はありますか。

京極  まったく変わりませんね。小説は上手くなるものじゃないですよ。書くたびに戸惑うし困るし、常に同じですね。小手先のテクニックなんかは、小説の面白みとは関係ないです。わざと下手に書かないと通じないこともあるし、その都度最適な手法を考えていくしかないから、作品と向かい合うときはいつだって初心者で、毎回デビュー作ですよ。プロの小説家とアマチュアの差は、「完」という字が書けるかどうかだと思います。雑誌に掲載できる形に整えて「完」、単行本にして「完」と書けるかどうか。書き終われば作者の手を離れて読者のものになるわけで、終わりが書けるか書けないかが実は大きいんです。僕の場合は、テレビドラマでいうといつも第一話であり、同時に最終回のつもりで書きます。いつだって次はない。タイトルに巻数もつけません。常に書き出しは初心者、書き終わりはこれで引退のつもりです。ただこの『厭な小説』で引退となると、書き終え感が「あー、厭だった」になるから(笑)、ちょっとイヤかも。

── 今年、最終話を書き下ろして、一編目から十年経って本になったんですね。

京極   でも十年かかって書き継いだということではなくて、最初の三編は一年くらいの間に書き、最後の三本も一年かかっていませんから、中抜けなんですが。開いた感じはないですね。ただ、その間に社会情勢のほうが大きく変わってしまいましたね。まあ景気が悪い「厭」な時代にこそ「厭」なものを読んだほうが明るくなるような気もしますし(笑)。人間、馬齢を重ねるほど楽しいことも厭なことも多くなるから、若い人はこの本で「厭」の予習をしていただければと(笑)。
 今年からは雑誌掲載中心のスタイルに変えてみました。作品が単行本にまとまるのは来年以降になるでしょう。並行して、書き下ろしを徐々に進めていければと思っています。

(四月十五日、京極夏彦さんのご自宅にて収録)

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