トップWeb版新刊ニューストップ
「錦繍」の宮本輝さん
インタビュアー 青木 千恵(ライター)
「新刊ニュース 2009年11月号」より抜粋

宮本輝(みやもと・てる)
1947年兵庫県神戸市生まれ。追手門学院大学文学部卒業。コピーライターとして会社員生活を送った後、77年「泥の河」で太宰治賞を受賞して作家デビュー。78年「螢川」で芥川賞、87年『優駿』で吉川英治文学賞、2004年『約束の冬』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。この度『錦繍』が英国人演出家ジョン・ケアードにより再舞台化される。
〈主な著書〉
『螢川・泥の河』『道頓堀川』『錦繍』『流転の海』『ドナウの旅人』(新潮社)『星々の悲しみ』『青が散る』(文藝春秋)『森のなかの海』(光文社)『骸骨ビルの庭』(講談社)ほか多数。


『錦繍 改版』
宮本 輝著
新潮社(新潮文庫)
定価460円

『骸骨ビルの庭 上・下』
宮本 輝著
講談社
定価各1,575円

『花の回廊』
流転の海 第五部
宮本 輝著
新潮社
定価2,100円

『流転の海 改版』
流転の海 第一部
宮本 輝著

定価620円

『螢川・泥の河 改版』
宮本 輝著
新潮社(新潮文庫)
定価380円

『道頓堀川』
宮本 輝著
新潮社(新潮文庫)
定価420円

『星々の悲しみ』
宮本 輝著
文藝春秋
(文春文庫)
定価520円
『青が散る上・下』
宮本 輝著
文藝春秋(文春文庫)
定価各490円
『ドナウの旅人 上・下』
宮本 輝著
新潮社(新潮文庫)
定価(上)620円
(下)660円
『夢見通りの人々』
宮本 輝著
新潮社(新潮文庫)
定価460円
『優駿 上・下』
宮本 輝著
新潮社(新潮文庫)
定価(上)540円
(下)580円
『花の降る午後』
宮本 輝著
講談社(講談社文庫)
定価770円
『ここに地終わり海始まる上・下』
宮本 輝著
講談社(講談社文庫)
定価770円
『私たちが好きだったこと 改版』
宮本 輝著
新潮社(新潮文庫)
定価580円
『森のなかの海 上・下』
宮本 輝著
光文社(光文社文庫)
定価各680円
『約束の冬 上・下』
宮本 輝著
文藝春秋(文春文庫)
定価(上)650円
(下)600円

── 『錦繍』は一九八二年に発表され、単行本、文庫本で約百二十五万部が発行されている大ロングセラー小説です。「レ・ミゼラブル」「ベガーズ・オペラ」などの演出で知られる英国人演出家、ジョン・ケアード氏によって二〇〇七年に舞台化されて大好評を博し、この秋、再演されることになりました。

宮本 三十三歳のときに書いた小説です。およそ三十年前。若かったですねえ。出だしの五、六行を書いて筆がパタッと止まり、約一年近く一行も先が書けなかった。手紙というのはその都度書く人の精神状態が違いますから、最初の五、六行のリズムを崩さずに、手紙を書く主人公の精神状態の転調を書けるか不安にかられました。あるとき「失敗作になろうがどうしようが、前に進むしかない」と開き直って、三百三十枚の作品を完成させました。やればできるんだと、『錦繍』を書いたことは大きな自信になりました。

── かつて夫婦だった有馬靖明と勝沼亜紀が交わす十四通の書簡で成り立つ、書簡体小説です。無理心中事件のために、愛し合いながら離婚した靖明と亜紀は、十年後、紅葉の蔵王で偶然再会し、手紙を交わし始める。

宮本 ほんのちょっとの浮気がとんでもないことになる。人間はふと失敗し、奈落の底に落ち込むことがある。そこからどう立ち直っていくかを書きたいと思いました。書簡体小説はラクロの『危険な関係』、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』などありますが、特に惹かれたのがドストエフスキーの『貧しき人々』で、高校生のときに読みました。芥川賞を受けた翌年、さあこれからというときに肺結核で入院して多くのものを切々と感じ、家内に『貧しき人々』を持ってきてもらい、手紙のやり取りで成立する小説を書こうと。電話が普及して、手紙はすでに古風なものになっていましたが、この二人は手紙でなくては思いを伝えられないし、それだけ内実の伴った手紙を書かなくちゃいけないと思いました。今読み返すと怖いもの知らずというか、若かったからこそ書けた作品です。

── 舞台化されてどう思われましたか。

宮本 おととし初めて舞台化されたとき、僕自身が泣かされた(笑)。三十三、四で書いた話が、六十歳になって、イギリス人の演出家によって舞台化された、その感慨も含めての涙でしたけれどね。僕の作品はいろいろ映像化されて、『錦繍』に対しても様々なオファーがありましたが、シナリオ段階でどうにもこうにもまとまらなくなり、うまくいかない。『錦繍』は映像化できない小説なんだと思っていたら、突然、舞台化の話が来て、演出家はイギリス人だという。われわれ日本人と違う、思いもかけない演出をなさるかもしれないとお会いすると、この小説くらいロジックを拒否しているものはないのに、細部のディテールまで非常に論理的に読み解いておられました。どう舞台にするのか、僕自身が見てみたいと、舞台化が実現しました。結果、泣かされてしまって(笑)、いややなあ、作者が泣いているなんて沽券に関わると、恥ずかしかった。おととしは初演で「糊しろ」がたくさん残ったと思うんです。その部分をケアードさんがどう広げられるか、また一観客として、再演を楽しみたいと思っていますね。

── 『錦繍』は〈生と死〉が大きなテーマですが、宮本さんの作品に、生と死、業の要素が込められるのはなぜでしょうか。

宮本 僕は子供の頃から身体が弱く、「この子は二十歳まで生きられるかわかりませんなあ」とお医者さんが親に話すのを聞き、僕は二十歳まで生きられへんのか、死んだらどうなるんやと親に聞いては叱られました。二十五、六歳で今度は重症のパニック障害にかかりました。発作のときの恐怖は激越なもので、その中で小説を書こうと思った人間ですから、どうしても死というのが僕につきまとっていたんですね。とりわけ若い時分の作品には生と死のことが生で出ていますが、四十半ば、五十歳になるくらいから距離がとれ始めた。五十歳以前と以後で、作品が変わったと思います。もう少し直接的じゃない、生と死への向き合い方ができるようになってきました。

── 確かに、六月に刊行された長編小説『骸骨ビルの庭』には、どこかユーモアがあります。阿部轍正と茂木泰造という二人の青年が、大阪・十三のビルで戦争孤児たちを育てた物語で、一九九四年、阿部のいない骸骨ビルの庭は、死者である阿部と生きている人々の心情が混在している舞台のようです。

宮本 舞台劇ならではの術のようなものがある。世阿弥の複式夢幻能というのは、不思議な術を使っています。亡霊が登場して生者と対峙する場に、シテが入る。シテが生の世界、死の世界を媒介し、その混在を見ているのは今生きている私たち観客で、合わせ鏡のように生者と死者が重なりあい、どちらが生者でどちらが死者かわからなくなってくる。それが複式夢幻能の凄さです。『骸骨ビルの庭』は、小説そのものを複式夢幻能の様式とするもくろみがありました。

── 孤児たちは性格が違い、同じ境遇に育っても、明暗が分かれていく。

宮本 孤児たちにはよき先生がいたんですよ。それは阿部や茂木であり、近所のおじさん、おばさんたちだった。周りの大人にどう恵まれるかは、その子の運の問題と言えます。僕には、父親の商売の失敗と病気が大きかった。それと僕は、中学ぐらいから大人の読む小説にはまりましてね。宮本くん、小説好きでよく読んでいるらしいなと、本を貸してくれる人が周りにいました。上林暁の『野』を渡されて、なんやこの小説は(笑)。すぐ返さないかんし、一生懸命読んでいるうちにその世界に入っていく。石坂洋次郎の『陽のあたる坂道』、松本清張の『点と線』、幅広いジャンルに触れました。トルストイが好きな人から『アンナ・カレーニナ』を教わったり、『レ・ミゼラブル』おたくという人がいて(笑)、新潮文庫の全五冊を貸してくれるんです。僕らが子供の頃、巷には、いい大学を出たインテリが足下にも及ばない、読み巧者や人生の達人がたくさんいました。長屋にハトロン紙できれいに包んだ『鏡花全集』がおいてあり、そういうのを貸してくれたら、大事に読まんとね。そうやって『高野聖』を読んだりするうち、小説って凄いものだと思うようになりました。親父も、歌舞伎、能、寄席、映画に連れて行ってくれました。

── 社会は大きく変わりましたが、小説を書く姿勢に変化はありますか。

宮本 あまりないですね。僕もまだ六十二歳で、これからどう変わっていくか。今は僕も、親しい人へのちょっとしたやりとりはメールが楽ですよ。手紙ははがきでも「前略〜」と肩が張る。でも若い人のメールを見ると、なんでここに顔文字がつくのか、全然わからん、暗号みたい(笑)。テレビ番組では「え〜」と言う言葉さえスーパーですべて説明したり、想像力の欠如が起きていると思います。家庭の環境に応じて、精神的レベルの高い子、低い子の差がはっきり出てくる、本当の格差社会になっていくのではないでしょうか。子供の頃、これが純文学、大衆文学と僕に言う人はいなくて、本はただ面白いものでした。小説はエンターテインメントで、人によって娯楽は千差万別です。『錦繍』について、ある読者から、ある程度の年齢にならないと、この小説の本当の意味がわからないだろうという手紙をもらいました。二十歳のときに読んでわからなかったが、結婚して四十になって読み返したら少しわかるようになった。六十歳になったら、また違った読み方ができるだろうと。ただ、今の日本では、小説をより深く読める年齢にさしかかった人が、子供にお金がかかるなど、自分のためにお金が使えない思いをしている。そんな中で、僕の単行本を買ってくださる読者がいるのは、本当にありがたいことです。

(九月十四日、兵庫県伊丹市のご自宅にて収録)

Page Top  Web版新刊ニューストップ

Copyright©2000 TOHAN CORPORATION