中島京子(なかじま・きょうこ) 1964年東京都生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。出版社勤務を経て、96年にインターンシップ・プログラムスで渡米。97年に帰国し、フリーライターとなる。2003年、『FUTON』(講談社文庫)で小説家デビューし、第25回野間文芸新人賞候補となる。06年『イトウの恋』(講談社文庫)、07年『均ちゃんの失踪』(講談社文庫)、08年『冠・婚・葬・祭』(筑摩書房)が全て吉川英治文学新人賞候補となるなど、高い評価を受ける。2010年『小さいおうち』(文藝春秋)で第143回直木賞を受賞。他著に『ハブテトルハブテトラン』(ポプラ社)、『エ/ン/ジ/ン』(角川書店発行/角川グループパブリッシング発売)、『女中譚』(朝日新聞出版)などがある。
── 直木賞受賞おめでとうございます。 中島 ありがとうございます。たくさんの方からお祝いの言葉をいただいて、これは大事なのだという感じがひしひしと押し寄せてきています。デビューが遅かったので、書かなくてはいけないと、できるだけ仕事をする勢いで走ってきました。受賞を機に、少し落ち着いて考える時間が持てるようになれたら嬉しいです。 ── 昭和十年代、東京のあるサラリーマン家庭の物語を、住み込みで家事をする「女中」の視点で描いている。 中島 女中さんが語り手の小説は、古今東西いろいろあって好きだったので、いつか女中小説を書きたいと思っていました。家族の中に入り込むが家族ではない立ち位置が面白いし、家の中のことが第一で、外の動きに対して批判的、分析的な視点を持たない女中さんは、読み手にとってクセの強い語り手と言えます。核家族の家庭に女中さんが一人という形態は大正の終わり頃にでき、モダンな都市文化が頂点を迎えつつ、背後で戦争が起こっている時代が、昭和十年頃に訪れます。女中小説を書くのに最適でしたし、現代史において凄まじくいろんなことが起きた時代を書いてみたい気持ちもありました。 ── 選考委員の林真理子さんが、「史料の読み込みが滑らかで素晴らしく、戦前の中産階級の家庭を生き生きと、実に軽やかに描いている」と、選評されました。 中島 古い雑誌を読んだり、史料を調べるのはもともと好きで、今回も楽しみながら行いました。一番参考にしたのは、当時の新聞の縮刷版や婦人雑誌です。後から振り返るようにして書かれたものは、空気が伝わってこないし、バイアスがかかっているから、できるだけ当時の史料にあたりました。自分が生きている時代と地続きの近現代史は面白い。史料を調べながら、今ある似たものと繋げたりして、アンテナと想像力が働きます。 ── バージニア・リー・バートンの絵本『ちいさいおうち』(石井桃子の邦訳は一九五四年に刊行)との繋がりは? 中島 バートンの絵本は子供のときから大好きでした。内側の世界が静かな日常であるのに対し、外では劇的な変化が起きているイメージが、そもそもこの作品を書く初めにありました。この小説は、家がもうひとつの主人公なんですね。昭和モダンを象徴するような赤い三角屋根の家が一軒、昭和十年に建てられて、家自体は変わらずそこにあるけれども、終戦を迎える二十年まで、たかだか十年の間に驚くほど周りが変わってしまう。 ── 中島さんは、親戚の方々から、戦争中の話を聞いていたとか。 中島 戦争中、空襲を避けてみんなで一緒に住んだことがあったそうで、親戚が集まると当時の話題でもの凄く盛り上がって、話に入れないんです(笑)。戦時中を風靡したステープル・ファイバー(ス・フ)は悲しいほど水に弱くて、洗うと伸びちゃうのよとか、貴金属の供出がいやだったとか。当時、不満を口にしたか分かりませんが、女性の心理として、大事にしていた宝石類を手放すのは辛かったでしょうね。普通の人の普通の感覚がふっと伝わってくることがありました。 ── 主人公のタキさんが住み込む平井家は、旦那様と時子奥様と恭一ぼっちゃんの三人家族です。美しい奥様が魅力的です。 中島 時子奥様は、「貴金属の供出がいやだった」と、明治生まれの私の祖母が言ったひと言から生まれた人物です。それ以外に祖母との関連はなく、私とも違うタイプですけれども、おしゃれが大好きでたまらない女の子って可愛らしいですよね。そんな可愛い、おしゃれが大好きな女の人が、戦争が激しくなるにつれて、襷をかけてチラシを配り、好きじゃないもんぺを着る。祖母のひと言から立ち上がり、動き出したキャラクターを追いかけて書くのは、面白い作業でした。 ── 奥様は、夫が重役を務める玩具会社の若い社員、板倉正治と親しくなる。親密さに気づいたタキさんは非常に心配する。 中島 私は、いつ何を書いていても、一行書いては、でも本当のところはどうなの?と思うんです。本当はどうなのか、先がどうなるか分からなくて進むのは、書くのでも、読むのでも面白いところですから。作者であっても、がちがちに話を決めてしまったり、全て分かってしまいたくないところがあります。奥様と板倉さんの間に何があったのか、坂の上で何を話したのか、ふたりとも死んでしまって、誰にも分からない。特にこの作品の場合は、語り手のタキさんから見えることしか書けませんから、タキさんの回想を通して、読者にいろんなことを思い浮かべてもらえるように書きました。 ── ディテールが詳細で、ブリキ製の玩具は郷愁を誘います。 中島 ゼンマイで動く宙返り飛行機や、クッキングする豚のコックさんとか、とても精巧なんです。日露戦争後に製造し始めて、カラフルで可愛い、仕掛けが精巧と人気を博し、昭和十年の頃には世界中に輸出されて喜ばれますが、戦争で物資が少なくなり、十三年に国内向けのブリキ玩具は製造禁止になる。新設した大工場をまもなく閉鎖するなど、かわいそうな運命をたどった、時代を象徴するものを入れました。お父さんが玩具会社の人だったら、当時の子供たちが遊んでいる様子も書けますし。 ── 戦前・戦中について、今書いておかないと、と思われたそうですね。 中島 私の子供時代には、まだ賑やかに語られていた戦争の話が、ふと気がつくと遠のいて、もっと遠くなるのかなと思ったとき、自分なりに知っていることをベースに、知らないことを調べて整理しておきたい気持ちになりました。今だったら、当時を生きた方に読んでもらえるし、今こういう形で書かなかったら、将来的には違う書き方をするでしょうから。今書くならこの題材、という感覚は、どの作品でもありますが、特にこの作品に関しては強かったですね。今日一緒にいる人と、明日一緒にいられるか分からない、「死」に対する感覚を、私自身が日常的に持つようになったこととも繋がりがあると思います。 ── 出版社を退職して渡米し、帰国後、作家に。編集者から物書きに転じたのは。 中島 小説が書きたかったんです。ノンフィクションよりも、想像力を働かせる方が好きだからじゃないかなと思います。中学の頃から、こっそり書いたりしてはいました。「やりたいならやりなさい」と人の進路を制御しないアメリカの文化に触れて、気持ちが定まり、帰国してデビュー作を書きました。 ── デビュー作『FUTON』から今回の作品まで、作風がそれぞれに違いますね。 中島 まず、職人的な技術を蓄えたくて、いろいろな書き方に取り組んでおこうと思いました。また、小説はテーマだけで成立するものではないんです。そのテーマをどう語るか、かたちにするかが重要で、テーマと書き方を単純に組み合わせて成り立つものでもないですね。考えていく中で、書き方、別のテーマさえ浮かび上がってきますから、毎回、同じパターンで書くのは、むしろおかしいことなんです。この作品も、第一稿は、タキさんの語りではありませんでした。書き方が決まるまでは、かなり時間がかかります。 ── 今後の執筆予定を教えてください。 中島 テーマも、手法も、まだやっていないことが星の数ほどあるので(笑)、一つ一つやっていこうと考えています。具体的に何を書くかは、担当の編集者にも話さないようにしています。うまく言えなかったら、その通りのつまらないものしかできない気がして、書けなくなる。つまらなそうなあらすじなのに、読んでみたら凄く面白かったりするのが小説です。書いてみないと分かりませんから、とにかく頑張って書いていきます。