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「喋々喃々」の小川 糸さん
インタビュアー青木 千恵(ライター)
「新刊ニュース 2009年3月号」より抜粋

小川糸(おがわ・いと)
1973年生まれ。大学在学中は古代日本文学専攻。作詞家・春嵐として、2004年から音楽制作チームFairlifeに参加、アルバム2作品発表。2007年ポエム絵本『ちょうちょ』(講談社)を発表。2008年1月に小説デビュー作『食堂かたつむり』(ポプラ社)を発表。同書が25万部を超えるベストセラーとなる。趣味は体が喜ぶ野菜料理と、環境に負担をかけない心地よい暮らし方の追及。
このたび新著『喋々喃々』(ポプラ社)を上梓。


『喋々喃々』
小川 糸著
ポプラ社


『食堂かたつむり』
小川 糸著
ポプラ社


『ちょうちょ』
小川 糸作/コイヌマユキ絵
講談社

── 『喋々喃々』は、東京・谷中に「ひめまつ屋」を開き、アンティークのきものを売って暮らす横山栞の恋愛物語です。東京の下町を舞台にした理由を教えてください。

小川 谷中界隈には、たまに友達と遊びに行ったりしていて、穏やかな空気が流れる雰囲気のいいところだなと思っていました。細い路地に植木鉢がたくさん置いてあったり、通りがかる人のことも考えているようで、いたわり合ってのどかに暮らす人たちがいる印象がありました。二作目は恋愛を書きたい、と設定を考えていく中で、主人公のお店に合う場所はどこかな、下町の谷中あたりがいいかなと、舞台にしました。

一月七日、「ひめまつ屋」の一年の仕事始めの日に、木ノ下春一郎が初釜用のきものを探しに訪れて、二人は出会います。それから十二月まで、お花見、花火、お月見など、月々の光景や催しを交えながら、物語が進んでいく構成にしたのはなぜですか。

小川 連載した「asta*」が月一回の発行だったので、それに合わせて(笑)。季節ごとに咲いている花や行事も、物語と同時進行で書き込める設定にしました。以前、「喋々喃々」という言葉が男女が親しげにしている様子を表すと知って、響きとしてもすてきだし、このタイトルで物語を書きたいなと何年も前からぼんやりと思っていました。いい年をした大人の男女が、純粋に人を好きになったらどういう感じになるのかが、書いてみたかったところです。

春一郎には妻子がいて、いわゆる不倫の恋です。〈仲よくしてしまっていいのだろうか〉と迷いながらも、恋に落ちていきますね。

小川 「不倫」というと穏やかでないイメージがありますが、定型のイメージからはずれた恋もあると思うし、そこを書きたいと思いました。栞も春一郎も、誰かを傷つけてまで幸せになろうとしない、「不倫」から一番遠いタイプで、それでも人を好きになってしまうことはあるし、頭で思う通りにできないことは多い。じれったく感じられるような進み方でも、恋愛も生き方も、いろいろな近づき方とか進み方があっていいんじゃないかと思って書きました。

栞は和服を着て、パソコンは持っておらず、メールの送り方も知らない。『食堂かたつむり』の主人公と同様、少し浮世離れしているようですが。

小川 彼女たちは自分のできる範囲で人と接し、人を幸せにしようと考えているから、世間からまったく乖離しているとは私は思っていません。凄くたくさんお金が入る仕事ではなくても、衣食住だけは満たして、周りの人を幸せにしながら自分の幸せも感じていける生き方をしている。見過ごしてしまいそうなものをゆっくり拾っていくような物語にしたくて、栞には和服を着てもらいました。車で移動するより歩くほうがいろいろ見つけられるし、きものだと一歩一歩がさらに小さい分、その一歩の意味が大きいんじゃないかなと。

春一郎は多忙なビジネスマンで、栞と会う前年、ストレスで体を壊しています。

小川 男性に限らず女性もですけれど、パソコンや携帯電話があるおかげでどこに行っても仕事がついてきて、容量以上に仕事をしてしまっている、一人にかかる負荷が大きい時代だと思います。この小説を書くときに「江戸しぐさ」に関する本を読みましたが、江戸しぐさの「互助と共生」の精神は、今の時代こそ広がってほしい。心を失くすのはよくないと、江戸っ子たちは「忙しい」と言わないようにしていました。時間の流れが物凄く速くなっている時代なので、私くらいはゆっくりしたものを書こうと思ったんです。

自分の足元を見つめて、心を大事にして他者と共生する。そんな生き方がいいと思い始めたのはいつ頃からですか。

小川 十年くらい前でしょうか。家の近くの商店街に、自分の力で自分なりのお店を作って生きている人たちがいて、そんな地に足のついた生き方をしている人に共感します。みんなが欲望のままに生きたら、みんなが生きていけなくなる。どこで満足するか、自分はこれで十分です、というところを知って生きていかなくちゃと思いますね。

── 平穏に暮らしたくても、なかなか難しい。『食堂かたつむり』では失恋して声を失った主人公は母親とそりが合わず、この作品でも、栞が高校生のときに両親が離婚、栞も、辛いときを支えてくれた恋人の雪道君と、小さなプライドから別れてしまった……。

小川 栞の父親は、北陸の山奥で自給自足の生活を始めますが、すべて自分で作るなど無理で、人は一人では生きていけない。かと言って自分以外の人と接触すれば、思い通りに行かないものです。誰かを傷つけてしまう一方で、誰かを幸せにすることもできて、プラスマイナスの連続で一生は成り立っていく。一見平和そうな人でも、抱えているものや易々と言えない過去があるのが普通。お店を開いて、外からはのんびりマイペースで羨ましく見えていても、栞の人生は波瀾万丈だと思います。

── 冒頭、栞が七草粥を炊いている場面が出てきます。前作と同様、お菓子やポテトサラダ、蕗の煮浸し、あなご寿司、鳥鍋、モツ刺しなど、おいしそうな食べ物がたくさん出てきます。

小川 同じ食べ物でも、好きな人と食べるのと、嫌いな人と食べるのとでは全然味が違う。好きな人と同じものを共有しながら、少しずつ、少しずつ仲良くなっていく物語なので、食べ物などのなるべく身近なものを意識して登場させました。栞と春一郎が行くならここ、栞が江戸っ子老人のイッセイさんと行くならここかなと、楽しみながら選びました。何を食べるかはとても大事だと思います。私の場合、今はストレス解消というか、書くのに疲れると料理をして、癒されています。

── ラストは決めていましたか。

小川 ぼんやりとしたイメージはありましたが、終わり方はとても難しいなと思っていました。人と人とのつき合いはそう簡単に終われるものでも、劇的に変化するものでもない気がして、自分なりの自然な形でラストを書いたつもりです。連載でしたから、淡々と物語を重ねていき、主人公の気持ちの繊細さを壊さないように表現することに気を遣いました。日本画の描き方と一緒だと思うんですけれども、書くことのイメージが固まったら、毎月一息に書いていました。どんな会話をしているか、二人の後をずっとつけて耳を澄ませる感じで、最初は遠かった後姿が、だんだん近くなっていきました。

── 小説を発表する前、音楽制作チーム「Fairlife(フェアライフ)」に参加して、作詞家もされています。

小川 十年くらい前から小説を書きたいと思っていたのですが、途中で寄り道しました。作詞と小説は全く別の世界ですが、「聴いて(読んで)よかった」と思ってもらえるようにしたいと、それだけを考えているのは一緒です。主人公がひたすらお料理を作る話、料理を通して世界と結びつく話を書きたいと思ったのが、『食堂かたつむり』のきっかけでした。”人と人をつなぐ”意味から、糸というペンネームにしました。”流れる川”の小川と組み合わせると画数が少ないし(笑)、便利だなと思って。

── 『食堂かたつむり』は二十五万部を超えるベストセラーになると予想していましたか。

小川 全然してないです(笑)。初版の四千部が大量に余ったらどうしようと思っていました。ミュージシャンならライブで聴いてくれている人を目で確かめられますが、二十五万という圧倒的な数の読者像は、なかなか想像がつかないですね。ただ、賞を受けたわけでもない、新人の小説がベストセラーになったことは、同じように小説を書いている新人にとって希望になるかもしれないと、その点でよかったと思います。

── 最後に好きな作家と次作について教えてください。

小川 向田邦子さんが好きです。次作は、『喋々喃々』で「ゆっくり」をやり切った感じなので(笑)、スピード感がある物語を今年の後半を目指して発表する予定です。私はゆっくりな方ですが、ネットで調べ物をして、取材にもどんどん出かけますし(笑)、仕事人間の一面もあります。一作一作、そのとき目の前にある作品を書き上げていこうと考えています。

(一月二十一日 東京都・新宿区のポプラ社にて収録)

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