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奥田英朗(おくだ・ひでお)
1959年岐阜県生まれ。雑誌編集者、プランナー、コピーライターを経て、97年『ウランバーナの森』で作家デビュー。2002年『邪魔』で大藪春彦賞、2004年『空中ブランコ』で直木賞を受賞。主な著書に『真夜中のマーチ』、『町長選挙』、『イン・ザ・プール』、『ガール』、『マドンナ』、『港町食堂』、『ララピポ』、『サウスバウンド』、『野球の国』、『東京物語』などがある。 |
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『家日和』
集英社
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『真夜中のマーチ』
集英社文庫
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『町長選挙』
文藝春秋
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『ガール』
講談社
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―― 『家日和』は、主婦や失業した会社員など「家にいる人」を主人公にした六編を収めた短編集です。今回「家」をテーマにしたのはなぜですか。
奥田 最初に書いたのが「グレープフルーツ・モンスター」という作品で、直木賞を受賞した月(二〇〇四年七月)が締切で、とにかく何か書かなくてはと、家で内職をする主婦の話を書きました。『マドンナ』、『ガール』とオフィスを舞台にした小説を書いていたので、もっとも事件が起きにくい、家にいる人たちを主役にして物語を書こうと考えました。僕自身がほとんど家にいる人間で、家ではドラマティックなことは起こりませんが、それなりにいろいろあるし、さまざまなことを考えています。今回はそんなドラマになりにくい人を主人公に、物語をつくろうと思いました。
―― 以前の「新刊ニュース」のインタビューでは、「普通の人間を等身大で描いているのが僕の小説だ」とおっしゃっています。
奥田 毎日、テレビや週刊誌から一方的に「問題」を突きつけられ、脅されているのに、普通の人って発言権が与えられていないでしょう。マスコミが持ち出してくる話は、別に知らなくてもいいことが大部分ですが、普通の人は受けるばかりで「違う」「必要ない」と意見する場が与えられていません。そんな人たちを少しでも解放して、楽にしてあげたい、勇気づけたいという気持ちがあります。僕は普通の人を書くのが好きなんですね。たぶん、この普通の人たちの中に、自分という人間が表れていると思います。
―― 今回の登場人物は三十代、四十代で、さまざまな問題を抱えている年代だと思います。奥田さんは、シリアス、ユーモアなど多彩なジャンルの小説を書いていますが、プレッシャーを受けている人を描いている点では、共通しているように感じます。
奥田 三十代、四十代は多忙だし、二十代のようなドラマティックなことはなく、五十代、六十代のような達観もなく、若さと達観がブレンドした中途半端な年代なんです。宛名入力の内職をしている主婦や、会社の倒産で失業した会社員など、『家日和』に出てくる人がおかれている状況は、社会問題的に書こうと思えば深刻な小説になるのかもしれませんが、「深刻なことほど微笑をもって」が僕のテーマなので、暴き立てたりはしませんでした。人の生き方について言い当てたって、相手が救われるわけでもありませんし。僕の小説は、普通の人を描いても立ち入ったりはしないで、肝心なところは放っておくようにしています。
―― 「サニーデイ」の四十二歳の主婦はネットオークションにはまり、「家においでよ」の三十八歳の営業マンは、妻が出て行って部屋がガランとしたから、カーテンやカーペットを手始めに、部屋づくりにはまります。オークションや買物の楽しさが具体的に描かれているので、彼らがはまってしまう理由がよくわかります。
奥田 ほとんど自分の経験から書いています。オークションって、無事に終了するとホッとするんです(笑)。サイトを眺めていると、脈絡なくさまざまなものを出品している人がいて、この人は購入相手から、「非常に良い」という評価を得たくてやっているんじゃないか、などと考えたりします。僕の場合、何を思ってこういうことをしているんだろうと考えたときに、小説を書きたくなるんです。そして人間の感情がエスカレートしていくところなどは、書いていて本当に面白い。過去にも、僕自身がプール通いに夢中になった経験から『イン・ザ・プール』を書きましたが、ちょっと我を失いかけた人が面白いんです。ガンダムのプラモデルにはまり、冷静な自分が「お前ちょっとヘンだぞ」と自分に言い聞かせるけれど、またつい買って増えてしまう(笑)、そんな感じですね。
―― わかっちゃいるけどやめられない≠サんな人は多いですね。
奥田 それは、衣食が足りてしまっているからでしょうね。現代人の一番の悩みは、時間とお金があることです。特に女性の場合は、昔だったら「結婚して子どもを生む」という人生を歩むのが一般的でしたが、今はいろいろな生き方を突きつけられ、常に選択を迫られています。だから自分探し≠するのだと思います。
―― 「妻と玄米御飯」に登場する四十二歳の小説家の妻はロハスにはまり、小説家は妻につき合ってヨガに行きます。「アルダバッタパドマパシュチマッターナアサーナ」という名のヨガのポーズをとったり、スマイルメソッドで座禅をしながら笑顔をつくったりする場面などは、今思い出しても笑ってしまいます。奥田さんの笑いのツボはどこにあるのでしょうか。
奥田 自分で言うのもなんですけれど、文章センスとしか言いようがないです(笑)。ごく自然に書いているだけで、ここで笑わせようというねらいはありません。ギャグで笑うのは子どもだけで、大人をクスリとさせるには、思い当たる節を書くことだと思います。「あ、俺もそうだ」というあるある♀エですね。僕は一語一語を吟味し、ユーモアの部分に関しては、最短距離の言葉を探すようにしています。笑いはワンセンテンスで伝えないとダメで、ユーモラスな場面を数行にわたって書いても笑ってはもらえません。
―― 「妻と玄米御飯」では、主人公の小説家が短編のアイデアが浮かばずに困っている場面があります。奥田さんもそういうことがあるのですか。
奥田 しょっちゅうです(笑)。スラスラ書けた作品は、デビュー作だけですね。僕は真面目に考えないというか、ほとんどのことは笑いごとで済むという考えで書いています。それほど悪いことでもないのに誰かが「悪い」と言うと、みんなで非難して過剰に反応する、そういう型通りの発想や展開を僕は嫌います。真実は往々にして笑っちゃうようなところにあるものなんです。
―― 「ここが青山」という作品は特にそうですね。会社が倒産して家にいる男が、特に不安もなく、失業後の生活を楽しく過ごしているのに、公園にいる老人に『逆境に打ち勝つ50の名言』という本を渡されたり、周囲から気をつかわれたりと、まわりの人が見る自分と本当の自分の間にズレが生じていて、そのズレの中にユーモアがあります。そのような思わず笑ってしまう小説を書くことにおいて、特に難しいと感じるのはどんなところでしょう。
奥田 毎回、結論を出さずにどう終わらせるかを考えるのが一番難しいです。「妻と玄米御飯」は、ロハス・ブームに対して「なんだ、こんなものに浮かれやがって」という反発から書き始めましたが、「じゃあ、それを書く自分はいったい何様だ」とも考えてしまいます。だから、大上段に構えてブームを裁いたりはせず、違和感の表明だけにとどめるようにしています。僕の小説は、そういう大上段に構えないところも特徴と言えますね。真面目にやっている人たちがおかしくて、ついおちょくりたくなりますが、ただおちょくるだけでは芸がないし、不遜だし、自分にそんな資格があるわけでもないので、腰が引けながらおちょくっているんです(笑)。
―― 例えば、どんな人をおちょくりたくなりますか(笑)。
奥田 その気になって舞い上がっていたり、のぼせ上がっていたり、自己懐疑がない人ですね(笑)。でも僕の周囲にはいないので、テレビを見ていて「こいつ、おかしいな」と思う人がいると、俎上に上がります。ただ、僕の小説は「全員の言い分を聞く」ことも決めごとになっているんです。どんないやな奴でもその人なりの言い分があり、一方的に裁くのは卑怯だと思うので、その人の意見も考慮するようにしています。僕は長編も短編もプロットを立てないので、この人たちはどうなるんだろう、と考えながら書いていき、全員についての物語を主人公の滑稽さでもって引き受けるようにしています。
―― 『家日和』の人たちは、つらい状況を、何かに夢中になることで回避しているように感じます。登場人物にモデルはいるのでしょうか。
奥田 全部想像です。僕はイッセー尾形さんの一人芝居が好きなんですが、イッセー尾形さんは人間観察をしないそうです。同じように僕も、取材や観察などはしません。人間は、観察してわかるものではないんです。その人の立場で、その人に成り代わって考えることが重要なんです。
―― 奥田さんは「自分らしく」とか「あるがまま」などの言葉は、好きではなさそうですね。
奥田 好きじゃないです、恥ずかしくて(笑)。結局、なるべく自分を小さく考えるというか、自分になんか誰も関心を持たないよと自覚したときに、初めて小説が書けるのだと思います。「引っ込んでいろ」と自分に言えるかどうかは、小説家にとって大切なことです。みんな自己陶酔に陥りやすいですからね。小説が十万部売れた後にエッセイを出して一万部も売れないと、そこでふと我に返り、また謙虚になるわけです(笑)。小説を書こうと考える人間は、どこか自意識過剰なところがあり、それをどうコントロールしておさえつけるか。暴れ馬みたいな自意識を手なずけて、いろいろな人を書くところに醍醐味があるんです。
―― 今後の執筆予定を教えてください。
奥田 今年はこの一冊だけで、来年はミステリーのカテゴリーに入る長編を二冊出す予定です。この『家日和』を読んでくださった方が、少しでも楽な気持ちになってくれたら嬉しいですね。
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