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瀬戸内寂聴
(せとうち・じゃくちょう)
1922年徳島生まれ。東京女子大学卒業。57年「女子大生・曲愛玲」で新潮社同人雑誌賞受賞。『田村俊子』で田村俊子賞、『夏の終り』で女流文学賞を受賞。73年に得度。その後『花に問え』で谷崎潤一郎賞、『白道』で芸術選奨、『場所』で野間文芸賞など受賞多数。主な作品に『源氏物語』、『孤高の人』、『釈迦』、『かきおき草子』、『花芯』、『藤壺』、『手毬』、『草筏』などがある。 |
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『秘花』
新潮社
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『源氏物語』
巻一〜巻六
講談社文庫
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『真夜中の独りごと』
新潮文庫
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『大切なひとへ 生きることば』
光文社
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―― 『秘花』は、七十二歳で佐渡へ流された世阿弥が、その後の歳月をどう生きたのかを描いた長篇小説です。世阿弥を書こうと思われたのはなぜですか。
瀬戸内 以前、お能の台本を頼まれて勉強をしたら、とても面白かったの。世阿弥は当時としては大変な長命で、体が強靭な人でした。そして、何より意志の強い人だったと思います。私は実在した人を書く場合、その人がいた場所に行かなければならないと考えていて、佐渡を四度ほど訪ねました。その土地でしか感じられない、大地の記憶というものがあるんですね。そして佐渡の人たちの開放的な気質に触れることで、世阿弥の晩年は、決して惨めなものではなかったと感じました。世阿弥が死ぬ二年前、彼を流刑にした将軍・足利義教が殺されますが、世阿弥はあえて都に戻らなかったと私は考えていて、そういう人生を送った世阿弥の晩年を小説にしたいと思いました。
―― 取材前は、世阿弥の晩年は悲惨だったと思われていたのですか。
瀬戸内 そうですね。でも、まわりが海で身を投げれば死ねるのに八十一歳まで生きたのは、何か生きる楽しみがあったからではないかと考えています。娘婿の禅竹からの送金もあって、悲惨な生活はしていなかったと思います。私は今八十五歳で、奇跡的に年を取らない≠ニ思われているようですが、耳が遠くなったり、白内障を手術したり、ちゃんと年を取っておりまして(笑)、世阿弥もさぞ不自由だったろうと想像できます。小説の中 で〈氷柱が白く見える。(略)世の中の風景に紗がかかったように見える〉と世阿弥が言う場面は、私の経験から類推して書きました。しかし、耳や目が不自由でも、考えることはできます。ものを書く人間は、老いてなお道があり、やはりものを書き続けたのだろうと思います。
―― 小説は序と四章で構成され、四章は沙江という女性の独白になっています。佐渡で世阿弥の世話をした女性という、架空の人物の視点で語ることで、世阿弥の姿がより身近に、立体的になっています。
瀬戸内 当初から、最終章は世阿弥とは違う人物に語らせようと考えていました。この小説はすべて一人称の独白で書かれていて、語り手ごとに差を出すことで、世阿弥の物語を読者にすっとわかってもらえるようにしました。架空の人物が語る場面の方が、想像で進められる分書きやすいので、沙江が語る最終章はすらすらと書けました。ところがこの四章で、「泣きました」「沙江は私です」と言う方が多くいらっしゃる。意識してはいませんでしたが、沙江が味わった心の痛みを、それぞれみなさん抱えているのだなと感じました。
―― 冒頭の序の章で、頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎という化物、鵺に襲われるご自身の姿が短く書かれています。
瀬戸内 世阿弥を書こうと考えたとき、鵺という化物が出てきたから、私はこの小説を書けると思いました。世阿弥には「鵺」という有名な作品があるんですね。最初の構想では、小説を書く八十代の私と世阿弥を交互に書く、今までにないスタイルでやってみようとしましたが、うまくいかなくて、私のことは省いて世阿弥だけに絞りました。小説というのは、どんな人物を書いても自分を書くことになります。私はいろいろな人の伝記を書きましたが、歴史にそって行動を追いかけても、その行動をするときの心理はわかりません。だから自分だったらこうする、こう思う、という考えのもとで小説を書くわけで、結局は自分を書くことになります。今回の『秘花』は、世阿弥と格闘してようやく書くことができた小説です。でも、資料を丹念に調べて一生懸命書いても、評価は人が決めることですから、自分では良い作品かどうかはわからないものです。
―― 世阿弥は容姿と天分に恵まれ、足利義満や二条良基ら権力者に寵愛されます。しかし義満が死ぬと人気が陰り、長男が殺され、その生涯は華やかな時期においても苦悩の連続です。
瀬戸内 私は、世阿弥を普通の人としてみていません。世阿弥は芸術家の模範だと思います。情熱を最後まで持続させ、自省して自分をよく知ろうとしている。ただ世阿弥ほどの天才でも、時間の流れと運命の勢いには逆らえず、一座の人気の低落を食い止めることができませんでした。父の観阿弥は、一座の人気をいかに保つかに苦心し、行く先々の観客に合わせて芸風を変えたりしましたが、世阿弥にはそれが難しかったのではないでしょうか。
―― それにしても、世阿弥はたくさんの恋をしています。艶かしい場面も多くありますね。
瀬戸内 芸術はエロスなんです。エロスがない芸術は、私には魅力がありません。エロスのある芸術をつくるには、作り手のエロスが枯れてしまったらダメなんです。この小説が書けたということは、私はまだ枯れていないようです(笑)。
―― 人より美しく生まれた世阿弥の恋は、足利義満の寵愛を受けた若い頃から、苦しんでいる沙江を慈しみ見守る晩年へと、変遷していきます。
瀬戸内 当時、権力者にはお稚児さんがいて、男色は当たり前で、今のように特別視されるものではなかったようです。恋は、わかってほしいというよりも、わかってあげたいと思う相手がいることが大切です。でも、人間はしょせん孤独なもので、お互いが理解しあっている楽しい時間は、一瞬ではないでしょうか。恋愛はした瞬間から苦しいもので、失恋するとがっくりして、それこそ体がへこんでしまいますが、徐々に平らになっていきます。それが生命力なんです。
―― 後世の私たちには、世阿弥の仕事のみが残されています。
瀬戸内 世阿弥は天才ですから、舞台も非常に良いものだったと思いますが、舞台がどうであったかは言い伝えだけで何も残っていません。しかし、世阿弥が書いた台本は繰り返し演じられていて、我々は劇作家としての彼の力を今の時代でも目の当たりにできます。〈命には終りあり。能には果てあるべからず〉と世阿弥は『花鏡』に記していますが、書くということはすごく得なことだと思いました。
―― 瀬戸内さんは、ご自分が書かれたものが後世に残ればとお考えですか。
瀬戸内 作家は、誰だって永久に残したいと思って書いています。けれど、残らない。私も自分の作品が後世に残るとは思っていませんが、伝記をいくつか書いていますから、今後田村俊子や岡本かの子を書く人は、私が書いたものを通ることになるでしょうね。それと現代語訳をした『源氏物語』は、次の時代にあった訳ができるまでは、当分残るのではないかと思います。
―― 以前、テレビで『釈迦』を執筆されている姿をみたら、深夜、机にのめりこむようにして書いていらっしゃいました。小説の中で世阿弥も、〈詞章を案じている時は、深夜ひとりで机に向い誰の援けも借りられないまことに孤独な仕事だ。そのひりひりするような孤独が、言い表わせない快感をもたらしてくれる〉と語っていて、瀬戸内さんと重なっている気がしました。
瀬戸内 今度の小説でもそうでした。一月から三月にかけ、終わりまでの二百枚を書いていたときは、担当編集者がつきっきりで、夜遅くまで必死になって書いていました。でも、私はふーっと寝てしまう(笑)。そんなことを繰り返しながら、『秘花』が完成したのは徹夜した朝の五時で、意識は朦朧としていました。でも、できたときは、本当に嬉しかった。そのときの嬉しさがあるから、また書くんですね。『釈迦』を書き上げたときは一人で踊って喜びましたが、今回は編集者と手を取り合って泣きました。
―― 書き終わって、現在の心境はいかがですか。
瀬戸内 もう空っぽです(笑)。大きなものを書くと、自分の生命力を全部出しきってしまって、凸凹という字の凹のようになってしまいます。自分の体がくぼんでしまうんです。そのへこんでいるところが少しずつ埋まってきて、平らになったらまた書きたくなる。ありがたいことに、私の場合、書き終わるとそれまで遠慮していた編集者が押し寄せてくるので、休んでいる暇がありません。やっぱり、小説家は書き続けることが大事です。スランプが続いて投げ出したらそこで終わり。誰も褒めてくれなくて、心細く思いながらも粘って書いている人が、あるとき壁をぶち破って良いものを書くのだと思います。
―― これからの執筆予定を教えてください。
瀬戸内 小説の中で題だけを書いた新作能「秘花」が頭の中にあるので、忘れないうちに活字にしようと考えています。そのほか、もやもやとしているものがあります。今は体がへこんだ状態ですが、生きていたら書くと思います。私は八十五歳としての自覚が持てないものですから、いくつまで生きるか自分でもわからないんです(笑)。
(5月16日 東京・千代田区のパレスホテルにて収録) |
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