トップWeb版新刊ニューストップ
『ムーヴド』の谷村志穂さん
インタビュアー青木 千恵(ライター)

谷村志穂(たにむら・しほ)
1962年、北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部で動物生態学を専攻。91年、処女小説『アクアリウムの鯨』を発表。2003年、『海猫』で第十回島清恋愛文学賞を受賞。近著に『余命』『静寂の子』『黒髪』『雪になる』『みにくいあひる』などがある





『ムーヴド』
実業之日本社



『黒髪』
講談社



『みにくいあひる』
文藝春秋



『雪になる』
新潮社

―― 『ムーヴド MOVED』は、夫が愛人のもとに走り五年間の結婚生活にピリオドをうった三十歳のOL・小門佐緒里が、拾った子猫を育てたり、組合活動に参加したり、日常の様々なことをきっかけとして変わっていく話です。二〇〇四年十一月号から〇八年一月号にかけて「月刊ジェイ・ノベル」に四回掲載された長編ですが、まず、この物語を書くことになった端緒を教えてください。
谷村 この小説の前後に、『海猫』『黒髪』という時代や場所の設定に手間取る長編を書いていたので、逆にものすごく身近な、誰にでも起こりえるような日常の出来事によって一人の人間が変わっていく話を書こうと思いました。夫に去られた佐緒里が秋に引っ越しをして、それから一年四ヵ月間の話ですが、少しずつ佐緒里が変わっていく様子を、それぞれの出来事を丁寧に拾って書いたため、思った以上に執筆に時間がかかりました。
―― 慰謝料二百五十万円を元手に、千駄ヶ谷にある家賃十五万円の一LDKで一人暮らしを始めた佐緒里は、庭先に迷い込んだ子猫を拾います。放っておけずに世話をすると、子猫は先天性の白内障で、目の見えない猫でした。
谷村 順風満帆とまでは言わないまでも、破綻のない人生を歩んでいると思っていた主人公に、・椿事・を与えてみようと思いました。人生には玉突き事故のようにハプニングが続けて起こることがあります。離婚を言い渡され、引っ越した部屋の庭先に子猫が捨てられていて、しかも目が見えない猫だったと、冒頭から突然の出来事が佐緒里を見舞います。出来事に対し、何が自分に起きているのか、佐緒里はすぐに認識できません。佐緒里は結婚していた時も一人で食事を作り、一人で食べていたし、〈離婚したって何も変わらない〉と思っているのですが、徐々に重苦しい気持ちが募っていきます。話を聞いてもらえる相手も作らずにやってきた自分の寂しさに初めて気づき、子猫の世話に夢中になるんですね。
―― 佐緒里は、引っ越し業「小門運送」を営む父親に〈華がない〉と言われるほど、ぼうっとした人物です。電気部品メーカー子会社の人事部で働く一般職のOLですが、一週間休んでも部の仕事は滞らず、戦力になっているわけではない。子猫が縁で、女性社員として唯一労働組合の執行部に所属し、バリバリ活動している総合職の河田恵と親しくなります。
谷村 組合活動をしている編集者の話を聞いて、とても興味を惹かれました。労働組合って女の人もいるの? 活動によって何が変わるの? どんなことを要求して回答は? と興味本位で尋ねたら、ものすごく熱心に教えてくれて、その熱っぽさに驚きました。私はずっと、会社という枠組みを自分と関係ない場所だと思っていましたが、国でも、マンションでも、友達同士でも、どこででもいろいろな人間が一緒に過ごしていて、会社もその一つなんですね。人間が織りなす世界として面白いと思うようになり、労働争議の話題や派遣社員についてのレポートなどを調べてみました。その様な中で、組合活動をする女性社員の人物像が、一話目で登場してきました。
―― 深夜遅くまで会社に居残って働く恵は、ヒヨドリのようなぼさぼさ髪で、化粧もせずマニキュアもつけていない。それなのに妙に色気がある人物です。
谷村 女性を見ていると、今は本当に極端な時代だなと思います。髪先はゆる巻きで、爪の先まで手入れして、全身フル装備の人がいれば、身繕いは二の次三の次なのに、内面に燃えるものがあってきれいに見える人がいる。後者の女性たちの強さ、弱さ、美しさを書いてみたいと思いました。佐緒里は一見弱そうですが、しぶとい強さを持っています。佐緒里と恵はタイプは対照的ですが、〈このままでいいのだろうか〉とそれぞれに思っているんです。
―― 突然会社を解雇された受付嬢が、「会社にいいように使われていた」と憤って労組の恵に相談します。その姿を見て、人事部にいながら事なかれ主義でやってきた佐緒里は、他の人の処遇について初めて考え、踏み込んでいきます。
谷村 憤る受付嬢を見て、〈あなたたちだって一時期は、その「いいように」に、甘えていたんでしょう?〉と、佐緒里は思います。〈会社に勤めてお給料をもらう生活でもしていなければ、たぶん家にいるだけ。だからOLをしているんだ〉と、佐緒里は自分のことも省みています。しかし、予期せぬ出来事に対して言葉に出して抗議する受付嬢の姿に驚き、どこか眩しく感じてしまうんですね。
―― そんな佐緒里に、元夫から連絡があり、密会してしまいます。
谷村 愛人だった女性とすでに再婚した元夫と会うなんて、とんでもないという人がいるかもしれません。でも私はやはり、人間同士の関わりは温かいものだと思います。酷い目に遭ったけれど、まだどこか馴染みがある。容易に断ち切れない、割り切れないことが増えていくのが日常だと思うので、佐緒里が元夫を部屋に入れ、〈そうしないとずっと引きずるような気がした〉というシーンは、私には必然でした。佐緒里はぼんやりしてタイムラグがあり、少しずつずれている人なんですね。私自身も、いつも少し経ってから起きたことを理解したり、母や夫や友達が言ってくれたひと言の意味に気づいたりします。そんな人間同士のやり取りを愛おしんで、織り込んでいこうと思いました。秋の引っ越しに始まり、春の引っ越しに終わる小説ですが、その間の短い日常の中で、「ムーヴド」という言葉通りにその人はどんどん動いて、どんどん変わっています。
―― 佐緒里の実家は代々木の引っ越し業で、恵の実家は川越のお花屋さんです。それぞれの実家でも、ドラマがあります。
谷村 最近、個人商店が次々と閉店していて、近所の商店街で〈長年ご愛顧をいただきましたが―〉の貼り紙を見ては、想像をかき立てられていました。私は季節の花を買うのが好きで、気に入っているお花屋さんに娘を連れてよく行きますが、後を継いだ息子さんとお母さんがしょっちゅう店先で喧嘩をしているんです(笑)。商売をする人の顔が客からは見えない時代ですから、なくなりつつある貴重な光景を書き残しておきたいと思いました。
―― 佐緒里の父親が脳出血で倒れてしまい、「小門運送」を継ぐことになった弟の隆介は、夢の実現のためしばしの休暇をとり海外へ出かけます。それぞれが、未来を模索しているんですね。
谷村 大企業も零細企業も、つないでいくのは人間ですね。今回、登場人物が会社と実家の両方を行ったり来たりして、同じ人間が会社ではこうなる、実家ではこうなると、違う表情を見せたのは、書きながら面白いなと思いました。
―― 昭和の長い時空を舞台に女たちの激しい恋愛を描いた『海猫』では、漁師の家の人間模様が描かれていました。『海猫』のような大掛かりな設定の作品と、小さな日常を拾った今回の作品とで、描く際に何か違いはありますか。
谷村 私の中では同じです。生まれてこの世から姿を消すまでの間に、人間はいろいろなことに出会います。小説を書くことは、一人の人間の心が起こす、何らかの奇跡を書くことだと思います。『海猫』や『黒髪』では激しい恋愛を通して人生が変化していきますが、この小説では、子猫を拾って育てる、そんな小さなことでも人間が変わることを書きました。意地っ張りで頑なな一人の大人が、ほんの些細なことで変わっていくのは面白いと思います。憎しみや嫉妬で変わる人もいるかもしれませんが、私はずっと、愚直なまでに何かを好きになって変わる人を書いてきました。この小説の場合、佐緒里は愚直なまでに猫を好きになって大切にし、失意の底からはい上がっていきます。
―― 一九九〇年刊の『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーになり、ノンフィクションの書き手としての印象が強烈でした。
谷村 厳密に言えば、九一年刊行の処女小説『アクアリウムの鯨』が最初の本になる予定でした。ライターとして雑誌に書いたものをまとめた『結婚しないかもしれない症候群』が先に出版され、評価していただいたのは、物書きとして幸運でもあり、厄介でもある出発点でした。
―― 今後の執筆予定を教えてください。
谷村 全三巻で刊行予定の、幼い年齢の読者向けの『シートン動物記』を書いています。シートンの著作から何編かを選び、彼だったら幼い子にどう語りかけただろうと考え、取り組んでいます。

(5月20日 東京都・中央区の実業之日本社にて収録)

Page Top  Web版新刊ニューストップ

Copyright©2000 TOHAN CORPORATION