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『赤めだか』の立川 談春さん
インタビュアー青木 千恵(ライター)

立川談春(たてかわ ・だんしゅん)
1966年東京都生まれ。1984年立川談志に入門、前座名立川談春を名乗る。1988年二つ目昇進、1997年全6回の「真打トライアル」を国立演芸場で開き、同年真打昇進。2006年独演会「談春七夜」、2007年独演会「黒談春」「白談春」、2008年「談志・談春親子会 in 歌舞伎座〜en-taxiの夕べ〜」等精力的に活動。落語立川流所属、出囃子は「鞍馬」。季刊文芸誌『en-taxi』(扶桑社)にて前座時代のエピソードを描いたエッセイ「談春のセイシュン」を連載。2008年同連載をまとめた初エッセイ『赤めだか』(扶桑社)で第24回講談社エッセイ賞受賞。


『赤めだか』
扶桑社


―― 『赤めだか』は、立川談春さんが落語家前座時代を綴った青春記です。この破天荒なエッセイを書くことになったいきさつを教えてください。
立川 文芸評論家の福田和也さんに、文章を書いて欲しいと言われました。寿司をご馳走になっちゃって、じゃあ一回書きますよって。「面白い」と言われて、自分でも書いているってことが面白くなって、「en―taxi」という雑誌で連載することになった。間近で談志師匠や談四楼師匠が、集中して時間をかけて書く姿を見ていましたので、書くって大変だ、生半可なことじゃできないと不安に思っていたのが、「あなたはできます。私が請け合います」って、福田さんにいい文句で口説かれたんですよ。
―― 昭和五十九年三月に入門して、「二十二歳までに二つ目になる」と目標を決め、昭和六十三年、誓いを叶えるまでが主に書かれています。
立川 何を書こうかと考えた時、みんな立川談志には興味があるだろうと。十七で入門するまでを書いたら、まず依頼された原稿用紙三十枚になったってことです。その後連載という形になって、どこかで止めないと終わらねえから、二つ目でとりあえず終わりにしようと。福田さんは延々と続けてくれって言いましたが、嫌だって(笑)。人さまにひけらかして、「へえ、面白い人生だね」と言ってくれる人もいるかもしれませんが、まだそこまでじゃないですね、僕は。書いている暇があったら、落語をしている方がいいって話です。そうしたら編集の人が、本にしますよと。
―― 連載時「談春のセイシュン」というタイトルでしたが、単行本のタイトルが『赤めだか』になったのはなぜですか。
立川 「談志」とか、「修業」「師弟」といった文言を一切入れたくなかったんです。編集者は入れたがるんですが、僕は、福田さんや目黒考二さんが褒めてくれてるんだから、引っかかる人には引っかかる、そこに賭けりゃいいと。あんたんとこ(扶桑社)は『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』が売れたんだから少々冒険したっていいだろう、俺は本が出なくても困らねえんだ、初版なんか三百部だっていいよって言いました(笑)。みんなでタイトルを考えているうちに、”赤めだか”って良くない? って意見が出て、いいねえ、それにしようと。でも編集が納得しないからね、「しょうがない、いいよ、俺も鬼じゃないからね、タイトル案三つ出すから、好きなのを選べ。一番、赤めだか、二番、かたつむり、三番、ふんづまり」って言ったら(笑)、涙ぐんで「赤めだかでいいですっ!」って。でも、これは当たったと思います。タイトルが『赤めだか』じゃなければ、たぶん講談社エッセイ賞を取れていなかったですよ。「談志と私」じゃ、ああ、弟子の本か、で終わりでしょ。
―― 一門の濃密な人間関係、落語家の私生活がこんなに面白いのかと驚きました。ハワイ旅行に行き、談志師匠がトリコロール柄の海パンにグンゼの長袖の下着とももひき、地下足袋とチューリップハットでビーチを歩いたとか。
立川 俺も驚いたよ。生まれて初めて行ったハワイでね。やっぱり、凄い人なんですよね、立川談志という人は。「俺は立川談志なんだ」というプライドに命を賭けて毎日を送っているってことでしょうね。だから簡単に言うと、なんでウェットスーツなんか着なきゃいけないんだということですよ。何でこんなものに何万円も払うんだと。カレーにチーズケーキを入れるエピソードだって、チーズケーキは卵とチーズと小麦粉だから、煮込めばいいとろみが出て、まずくなるわけがねえという話で、常識にとらわれない。簡単に納得しないんでしょうね。それをすると生きづらくなるんだけれども、安易に手を打たないことに、命賭けているんですよね。それは全部「実技」で、世間が「変人」と言ったとしても、舞台に出た時には十五、十六のガキでも分かる、圧倒される超一流の芸をするわけですから。とにかく落語家として凄きゃあ、あとはもう何でもいいんでしょう。確かに変だけれど、僕は是としなければいけないと思う。
―― そのほかのエピソードも面白い。どう選んでいったんですか。立川 そうですね。締め切りの一週間後くらいから書き始めて、校了日の午後くらいに書き終えるわけです。エピソードなんて選んでいる暇がないわけです。目の前の三十枚の原稿用紙を埋めるのが第一義で、終わると持っていかれて添削する暇もなく雑誌に載ることの繰り返し。そんなことをしているうちに「これでいいんだ」という自信は出てきましたけれどね。だって、一回だけ書けばよかったのが、もっと書いてくれと言われるのは、まあ悪くはないんだろうと。
―― 文体にリズム感のよさを感じました。〈落語を語るのに必要なのはリズムとメロディだ。それが基本だ〉と、談志師匠が言うエピソードがありましたね。
立川 そうそう、普段ひっかかりのない言葉で、耳に訴えかけて勝負しているから、目と耳と頭で読んでくれるものでリズム感が出ないわけがない。書くための勉強は何一つしていませんが、一人で座ったまま喋る落語は、省くところや、観客の想像力に頼るところがある。こっちを向くと人物が変わるとか、四百年かけてルールが凄く洗練されていて、二次元でしょ、文章と共通するものがあるんじゃないですか。歴史を紐解いても、文学に落語が与えた影響はとてつもないですよね。この本を読んで面白いと思ったら、落語を聞くといいんじゃないですかね。僕のじゃなくてもいいから、落語は聞いて欲しいですね。
―― 前座全員で築地の魚河岸に働きに出されたそうですね。修業するうちにだんだん世界が広がって、高田文夫さんら、個性的な人たちと遭遇していく。
立川 落語家の弟子になって魚河岸に行きました、は事実だからね(笑)。行ってみたら全くマイナスじゃない。魚河岸の人は親切なんだけれど、仲間になるまでつっけんどんだし、人の親切を受けるのにどんな資格が必要なのか、こっちも教えてもらいました。出会う人が全て超一流の人だったというのは、談志の弟子だった恩恵ですね。しかもその超一流の人が、談志が好きだという親近感で、年は違っても同じ目線で話してくれるわけでしょう。心の底からありがたいと思う。僕らは、入門して本名を捨て、家元からもらった名前をつける。芸だけを教わることはできないのかって言うと、それはできないんですね。落語家になりたくて名前も捨てたような人間の揺らぎを増幅させるのは、人間関係の中の情なんです。こいつじゃしょうがねえとか、こいつにはもう一回チャンスやろうとかね。正しい落語なんてないんですから。観客の好き嫌いに一生を捧げていくわけだから、自分がやりたいと思ったことが人に愛されるかどうかで右往左往するしかないんです。
―― 一門には優秀な兄弟弟子がいて、悔しい思いをしていたら、突然談志師匠から嫉妬について教えられるエピソードもありますね。風邪で稽古を断ったら、師匠が激怒して、辞めようかと悩んで、兄弟子たちに支えられたり。
立川 人間て、何で嫉妬するんだ、どうすりゃ嫉妬しないんだと、コントロールできない感情について解決法まで師匠を筆頭にいろんな人が全て教えてくれる。ただ、嫉妬している自分が恥ずかしいなんて自意識はない。嫉妬する理由だけ分かって、あとは「業の肯定」。ここで納得しているから、根本はちっとも改まらない(笑)。まず、落語は人間を語る商売だと教わるんです。人間を語る商売をするやつが、人間に興味を持たなくてどうするんだと。お前はこのシナリオで何を言いたい、どこを演出したいんだと、語る対象を、縦、横、斜め、裏表、見るように教わる。今、自分で弟子を持つようになって感じるのは、相手の進歩に合わせて無理なことを教えなかったのが、立川談志という人の大きさであり、凄さだということ。理解できる状態になるまで、決して背伸びさせない、先を急がない。凄く我慢をして教えてくれていたわけですよ。俺が命懸けで惚れた落語にこんなガキが惚れて、落語家になろうとしているんだ、俺も育ててもらったから、俺も育ててやろうと。それは師匠自身の体験によるものだと思う。俺も生意気だけれど、師匠の十代の方がもっと生意気だったんじゃないの?(笑)
―― 最終章の柳家小さん師匠をめぐる人々の葛藤はスリリングです。
立川 よくできているでしょ、この本(笑)。そこには、芸という絶対的な共通の価値観があって、やっぱり素晴らしいんですよ。四十、五十の人間を、この人の弟子になってよかったなって思わせられる芸をね、六十、七十でできる世界は、あんまりないですよね。師匠選びも芸のうちって言いますが、その意味で言ったら僕はどんぴしゃです。十五、六で「この人」と思って、十七で入った結果がこの本まで書いて、賞までもらったんですから。
―― 一筋に芸に打ち込んできた談春さんのような生き方がある反面、新入社員の離職率が高くなり、「三年で辞める若者」と言われていますが、辞めるな、と言いたいですか。
立川 ない。全くない。だって、辞めても困らない状況があるんだし。たしかに今の若い子を見ていてどうしてこう、闘争心がないんだろうと思うけど、追い求める俺たちが正しくて、後へ続けとは言いづらい。俺たちが親の世代になって、その子供たちが勤め続けることがいやだって言うんでしょ。絶対に突然変異じゃないから何か自分達の世代にも原因がある。いろいろ連綿と続いて、どうにもならなくなった時に、きっと罰は当たるのよ。子供からお小遣いもらえなくて、コーヒーも飲みにいけないねってお年寄りに俺たちがなるんでしょ。「僕、二十二から二十五までは働いたんだけどな、もうあれっきり働かなかったよ、お父さん」と言われて、「うん、じゃあ、お父さんも、コーヒーは我慢する」って(笑)、そういうお年寄りになるんでしょうね。
―― 最後に、これからの執筆予定はいかがでしょうか。
立川 初めて文章を書いた、褒められた、うろたえた(笑)。そしてここまで来ると、褒められることに慣れてしまった。でも、次が怖い。ものを書くのは「偶然」が続く世界じゃない、そこを突き詰めてもまだ書きたいのかというと、答えは三ヵ月、半年では出せない。書いて、叱られて、ガクッとなるでしょう。そうなった時にどうするんだという話ですよね。僕、趣味はマイナス思考なんで(笑)。でも精一杯のお土産で言えば、意外と半年くらいで、もういっぺん褒められたいから書こうかな、なんてね、思うせこさは十二分にございます。

(九月十日、東京・新宿区にて収録)

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