 |
 |
浅田次郎
(あさだ・じろう)
1951年東京都生まれ。さまざまな職業を経て、95年『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、97年『鉄道員』で直木賞、2000年『壬生義士伝』(上・下)で柴田錬三郎賞、06年『お腹召しませ』で中央公論文芸賞を受賞。主な著書に『中原の虹』(一・二)、『蒼穹の昴』全4巻、『あやしうらめしあなかなし』、『僕は人生についてこんなふうに考えている』、『椿山課長の七日間』、『憑神』、『珍妃の井戸』
などがある。 |
|
 |
『月下の恋人』
光文社
 |
 |
『特別版 地下鉄(メトロ)に乗って』
徳間書店
 |
 |
『お腹召しませ』
中央公論新社
 |
 |
『中原の虹』第1巻
講談社
 |
 |
『中原の虹』第2巻
講談社
 |
|
 |
石川 この度の新刊『月下の恋人』は、親子や男女の情愛を描いた作品から、不条理な物語、都会的な短編まで、バラエティに富んだ十一編を収めた短編集です。
浅田 僕は今まで、短編小説は五十枚を基準に書いてきました。今回は一回につき三十枚の短編集を編むという目論見がありました。
石川 原稿の枚数で、内容に変化は生まれてくるのでしょうか。
浅田 今は長編でも短編でも、全体的に小説が長くなっています。でも、昔の短編小説は、三十枚もしくはそれ以下の枚数で成立していました。この『月下の恋人』は、統一テーマとして「昔の小説の味わい」を意識しながら書きました。三十枚で起承転結を図ろうとすると、小噺っぽくなってしまいます。読者の方は結末をポンと投げ出されたようで奇異に感じたり、書き飛ばした印象を持たれるかもしれません。しかし、それぞれの幕切れの余韻には、短編小説本来が持つ味わいがあるはずです。
石川 巻頭の作品「情夜」は、全てを失い、行き詰まった克平にお金が届き、その理由を握る女性・えり子の声が玄関から聞こえてきたところで物語は終わります。大胆で鮮烈な結末です。
浅田 ストーリーとしてのオチは無いけれど、短編小説らしいオチではないかと思います。
石川 その後の物語を想像すると、この先克平はえり子とささやかな暮らしを営むだろうと読み取れますが…。
浅田 そう読む人もいるだろうけど、別の読み方をする人もいるでしょうね。あの女は幻だ、と。何もかも失った男が自分自身に言い聞かせた、再生のための幻であると。さぁ、どっちなんでしょうね(笑)。その辺を読者の方に想像してもらうのが、短編小説の面白さではないでしょうか。
石川 続く「告白」という短編は、浅田文学の真骨頂とも言える作品です。血のつながらない娘と父親が、ある雪の日に和解してゆく物語です。
浅田 僕は俗にお涙作家と言われるけれど、読者を泣かせようという意識はありません。しかし、泣くという事実は、感動したことの表われだと思ってます。それには漫然と書いていては駄目です。小説としてのしっかりとした構築力とテーマ性を持っていなければ、読者を感動させることはできません。「告白」という小説は、友と友の友情、男と女の愛情、親と子の愛情という違う形の愛情が、ある雪の日に奇跡的に合一した瞬間に、どういうストーリーが生まれるかと考えてつくりました。だから、小説として精密にできているはずです。
石川 さて、「適当なアルバイト」という作品はまた違う味わいで、アメリカ映画のバディ物のように、「僕」と「保」がお化け屋敷でアルバイトをするユーモア小説です。
浅田 お化け屋敷って、短編小説の舞台としてはいろんなドラマがつくれそうだよね。この作品は、お化け屋敷という虚構の世界の中に重大な現実が潜んでいて、二人はそれに触れてしまったという話です。それで〈あの夏、僕は少し大人になった〉と終わる。登場人物の保はいい奴なんだけど、彼といると本当に悪いことばかりが重なるんですね。保みたいな奴、まわりに一人ぐらいはいるでしょ(笑)。
石川 以上の三作は〈多摩西部〉〈多摩川〉が舞台になり、〈多摩弁〉という言葉も登場し、東京下町の職人言葉とは違うぞんざいな言葉遣いが作品の魅力にもなっています。
浅田 うちは母方は奥多摩で父方が下町でね。東京の西と東に住んでいたわけで、僕は純粋な東京人なんです。江戸っ子と言う言葉はあるけど、東京にも土俗性はありますからね。僕は土俗的な東京人ですよ。東京の多摩地区は書きやすいし、僕の小説には東京のご当地小説が多いですね。
石川 次の「風蕭蕭」は、前作に登場した僕と保を狂言まわしにして、カツミというチンピラの姿を描いた作品です。この作品の面白さは大きく二点あると思います。ひとつは司馬遷の「刺客列伝」とヤクザ映画の関係を詳らかにし、それがカツミの物語の骨格になっているというストーリーの三重構造です。もうひとつはカツミの人物造形が読み進めるうちに振幅が広がり、絢爛たる見せ場を用意しているという点です。
浅田 カツミという人物は、僕が好んで書くタイプの男です。書くのも好きだし、実際に彼のような男と付き合うのも好きですね。それから、僕は東映のヤクザ映画で育った世代です。任侠映画の原点は「刺客列伝」なんですね。パターンが同じですから。殴り込みの時に音楽が流れるあのヒロイズムは、「刺客列伝」で楽器を弾いて刺客を送り出す場面そのままです。世界最高の小説は何かと訊かれれば、僕は間違いなく司馬遷の『史記』と答えます。『史記』が持っているストーリーテリングの妙、人物造形の確かさ、これは今書かれたとしても傑作です。
石川 「黒い森」は問題作と言ってもいいかもしれません。作者が仕掛けた謎に、主人公の竹中と同様、読者も翻弄されてしまいます。謎が謎のまま解決しないですね。
浅田 ほとんどの人は謎解きとして読み進めるでしょうね。でもテーマは謎解きではないんです。「謎」なんです(笑)。十年間にわたる海外勤務で、日本に戻ってみると全てが変わっていたという、浦島太郎型の「リップ・ヴァン・ウィンクル伝説」を借りて小説をつくりました。「黒い森」に読者が佇んでほしいと思っています。一種の不条理小説ですね。
石川 表題作の「月下の恋人」は、とある民宿で自殺を決意したカップルが、ある出来事をきっかけに死の淵から引き返します。しかし、その後すぐに彼らは別れてしまいます。
浅田 「月下の恋人」は、実はモデルになった女性がいるんです。僕には似たような経験があって、その経験を少し美化して書きました。この作品を表題にしたのは、売れそうなタイトルだなあと感じたからです(笑)。
石川 この短編集の最後を飾るのは「冬の旅」という作品です。学校の授業で、小説の冒頭を「コッキョウ」と読むのか「クニザカイ」と読むのかで国語教師と対立した「私」が、その国境を実際に越えてみようと、夜汽車で旅に出る物語です。旅の途中で、不思議な男女と乗り合わせます。
浅田 学生の時に、「冬の旅」のような思いを抱いて旅に出たのは事実です。その時に何を考えていたかを思い返しながら書きました。その意味では私小説に近いかもしれません。
石川 他の短編と比べ、まるで作者のつぶやきを聴くかのような親密な作品です。
浅田 列車の中で父と母の幻と巡り会って、一緒に死に向かって行くというのは面白い筋立てですが、軸に「私」を持ってくるほか書きようがなかった。私小説の伝統を活かしながら普遍性を持たせるには、父と母の幻が登場する虚構が必要でした。短編小説が十一作並ぶ中でこの作品で締めくくるのは、こんなことを子どもの頃に考えていた作家が他の短編小説を書きました、というメッセージにもなるでしょうね。
石川 浅田さんは『蒼穹の昴』の後に『鉄道員』を書かれています。今回の『月下の恋人』も『中原の虹』という長編小説を刊行されている中で上梓されました。意識的に長編小説と短編小説を書き分けていらっしゃいますね。
浅田 長編と短編では作家が使う筋肉が違います。マラソンランナーと短距離走者の体つきが違うように、違う職業と言ってもいいくらいです。僕は両方好きで書いています。それは、双方のトレーニング効果があるからです。短編を書き続けているから、引き締まった筋肉で長編を構成していくことができるんです。
石川 浅田さんご自身が『月下の恋人』の中でお好きな作品は何でしょうか。
浅田 連載直後だと「情夜」に愛着があったんですが、ゲラで読み返すと「告白」は完全な小説だと感じました。先日、誤字の確認のために精読したんですが、その時は「冬の旅」が殊更響いてきましたね。読み返すたびに書き手の好みの作品が変わるというのは、成功した短編集だと言えると思います。僕は本を読むのが好きで、自分の本も読み返しています。去年の浅田次郎、一昨年の浅田次郎という別人が書いているような気持ちで読んでいます。でも、過去の浅田次郎が、今と比べて劣っているとは思っていません。だから、これから先も、未来の自分が恥じないような小説を書いていきたいし、同時に過去の自分にも敬意を持ち続けたいですね。それが読者に対する作家の責任だと思っています。
|
|