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『新リア王』上・下の高村 薫さん
インタビュアー 大島一洋(編集者)

高村 薫(たかむら・かおる)
1953年大阪府生まれ。国際基督教大学卒業。外資系商社勤務を経て、90年『黄金を抱いて翔べ』で日本推理サスペンス大賞を受賞。『リヴィエラを撃て』で日本推理作家協会賞、『マークスの山』で直木賞、『レディ・ジョーカー』上・下で毎日出版文化賞を受賞。従来のミステリーの枠組みを超えた骨太で斬新、重厚な作品を生み続けている。主な著書に『晴子情歌』上・下、『半眼訥訥』、『地を這う虫』、『神の火』上・下、『照柿』等がある。




『新リア王』上
新潮社



『晴子情歌』上
新潮社



『マークスの山』上
講談社文庫



『レディ・ジョーカー』上
毎日新聞社

大島 高村さんのご新著『新リア王』は『晴子情歌』の第二部という設定になっています。これは『晴子情歌』の構想ができた時点で、すでに決まっていたことなのでしょうか。
高村 いいえ、決めてはいませんでした。私はミステリーや警察ものを書き続けてきましたが、それらの作品の執筆をいったんやめようと考えたときに、果たして作家として新しい道を進むことができるのかどうか、自分自身に対する疑問を抱いていたんです。ですから、まずは『晴子情歌』という作品が書けるか試みてから、その先のことは考えようと思っていました。結局五年かかりましたけど、無事に『晴子情歌』を書き上げることができましたので、『新リア王』の執筆を始めたわけです。
大島 『晴子情歌』では母から息子への手紙という構成でしたが、『新リア王』では父と息子との対話という構成になっています。父は老政治家の福澤榮で、息子は榮と晴子の間にできた彰之で禅僧です。榮には正妻との間に優という政治家の長男がいますが、この長男との政争に敗れて、雪の中、青森にある彰之の草庵を訪ねます。それから三日間、榮と彰之の対話が始まります。
高村 父は政治家で息子は僧侶という設定なので、三人称で書いてしまうと、政治はノンフィクションに、僧侶については宗教書みたいになってしまう危険性がありました。小説になりにくい関係をいかに小説に仕立て上げるかを考えたときに、「私」という一人称の主語が必要だと思いました。ですから、榮、彰之のどちらにも「私」という言葉を使わせる対話形式になったわけです。「私」という主語にすると、隠したいところは隠せるし、曖昧にしたいところは曖昧にできる。そういう濃淡が作品の中につけられるんです。
大島 シェイクスピアの『リア王』はどの時点で意識されたのですか。
高村 シェイクスピアになぞらえるつもりはなかったんですけど、この小説の構想を考える前からタイトルは浮かんでいました。主人公が七五歳の老政治家というところからタイトルはきているんですけど、ほとんど直感的なものですね。これぐらいの年齢になると権力の移譲という問題が起きるわけですが、政治家なので一般の職業のようにはいかないと思うんです。場合によっては世代交代の闘い、息子が父親を追い落とすということもあり得ます。
大島 小説の中では、それを描かれたわけですね。
高村 そうです。ただ、そういう物語の中でも榮の一番の苦悩というのは、自分が退場したあとの未来が見えない、ということになると思います。人は必ず歳をとって、いずれは交代しなければなりません。そのときに未来が見えていれば、自分の歩んできた道が正しかったかどうかを確認することができるわけです。これは、去る者にとってとても大事なことではないかと思います。
大島 さて、父子の対話ですが、埴谷雄高の『死霊』やカント、ヘーゲル、ニーチェから村上春樹、村上龍、浅田彰、中沢新一などが出てきて、哲学問答のようにも感じられました。
高村 『新リア王』は八〇年代を描いた小説で、対話している当人たちにはかなりの教養があるわけですから、同時代に読んでいたと思われる作品や作家などを取り上げてみました。榮と彰之のそれぞれに大きな影響を与えていたであろう哲学者や作家の話というのは、親子の対話の中に出てくるのは当然のことと思います。
大島 難しい仏教用語が出てきますが、かなり勉強されたのではありませんか。
高村 確かに勉強もしましたけど、実は私の母は大きなお寺の娘だったんです。私自身も子どもの頃から本堂を遊び場にしていたものですから、門前の小僧というやつで多少の知識はありました。もし、作品を読まれた方で、理解するのが難しい部分があるようでしたら、読み飛ばしていただいてもかまわないと思っています。
大島 青森を舞台にしようと思われたのはいつ頃ですか。
高村 『レディ・ジョーカー』を書き始める前の九三年に、たまたま青森を旅して七里長浜を見たんです。その風景に圧倒されて、いつか小説に書きたいと思っていました。
大島 登場する福澤一族にはモデルがあるのですか。
高村
 特定のモデルはありません。青森には江戸時代から三百年以上続いているという旧家がいくつもあるんです。彼等は地元の名士でありお金持ちですから、当然のように政治家を目指すわけです。そういう風潮を参考にはしました。
大島 高村さんは以前、「家族小説は書かない」とエッセイに書いていらっしゃいましたが、今回の作品は大家族小説のようにも感じられます。
高村 物書きになりたての頃に、生涯書かないと考えていたテーマというのがいくつかあって、それは「政治」「宗教」「子ども」「お金」だったんです。でも、作家として修行を積んできた結果、絶対に書けないと諦めていたものが書けるようになってきました。そういう考えのもとに執筆したのが『晴子情歌』と『新リア王』なんです。ただ、九五年に起きた阪神・淡路大震災というものが、私が書く作品に変化を与えていったことも事実としてあります。
大島 ところで、「アキユキ」という名前と、王としての父親ということで、中上健次さんの小説を連想してしまいました。
高村 それは私の頭の中にはありませんでした。中上さんの作品に登場する「秋幸」のような、身体で行動できる人間というものを私は書けないんです。もし書けたとしても、言葉が通じないような気がします。そういう点では『新リア王』とは全然違う世界ですね。中上さんの小説の登場人物は、路地というか郷土に縛られていることが多くありますが、私の書く人間は、みんな郷土を出て放浪してしまうんです。放浪するということは、身体性が薄いんだと思います。そこが中上さんの作品とは大きく異なっています。
大島 『晴子情歌』が刊行されたとき、一部の書評で「高村薫は純文学作家になった」と書かれていましたね。
高村 私は純文学作家にはなれないですね。今回の作品でも政治とか宗教とか、純文学になじまない素材をあえて取り上げていますから、そのへんは自覚しています。かといって、これがエンターテインメントかと言われると、ちょっと違う気もしています。
大島 自分の書きたいものを書くということでしょうか。
高村 そうですね。政治家をつくりたいと思ったら、なんとかしてつくりあげて小説の形にする。それは純文学の手法ではありません。
大島 前作の『晴子情歌』、そしてこの度の『新リア王』は、従来の高村さんの作品とは一線を画しており、その作風の違いに戸惑われる読者も多くいるように思うのですが。
高村 それに関しては、私は確信犯と言えるでしょう。一回しかない人生で、自分のやりたいことをやらないなんてつまらないですからね。私の感覚では、デビュー当時のままミステリーを書き続けていたら、すでに作家生命は終わっていたように思います。絶えず時代にあわせて変化、あるいは進化していくことが、作家として生き残れる唯一の方法ではないでしょうか。私は九〇年にデビューしましたが、九三、四年頃に、この先、時代は大きく変わっていくだろう、という予感があって、何年かかけて自分を変化させていったんです。その結果として生まれたのが『晴子情歌』であり、『新リア王』なんです。
大島 第三部では『マークスの山』や『レディ・ジョーカー』等に登場した刑事・合田雄一郎が帰ってくるそうですね。
高村 第三部は二〇〇二年の設定で東京が舞台です。今度は彰之と彼の息子・秋道の二人を中心にした物語になります。ただ、父は僧侶で息子はチンピラあがりの新人類ですから、父子といえども人間同士として向きあうには無理がありますので、その間に合田が入ってくるわけです。秋道の行動原理を観察して、彰之に翻訳する役目を合田が務めることになるだろうと、そう考えています。
大島 刊行はいつ頃を予定されていますか。
高村 なんとか、二年か二年半くらいで出したいとは思っています。

(10月26日 東京・新宿区の新潮社にて収録)

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