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『まぼろし健康道場』『往生日和』の倉本四郎さん
インタビュアー 鈴木健次(大正大学教授)

倉本四郎(くらもと・しろう)
作家、書評家。1943年神戸市生まれ。天草育ち。新聞社・雑誌社を経て、76年から「週刊ポスト」誌の3ページ書評を手がける。また近年は小説も執筆する。評論『出現する書物』『恋する画廊』『怪物の王国』『鬼の宇宙誌』『妖怪の肖像』、小説に『海の火』『介護レッスン』、童話『もじゃもじゃ天使ポパ』等の著書がある。




『まぼろし健康道場』
平凡社



『往生日和』
講談社



『介護レッスン』
マガジンハウス



『鬼の宇宙誌』
平凡社



『妖怪の肖像』
平凡社

鈴木 きょうは、少し気が重かったんです、ここへ来るのが。
倉本 何でですか。
鈴木 だって、倉本さんは書評のプロで、百戦錬磨のインタビュアーでいらっしゃる。その倉本さんの著書について倉本さん自身にインタビューするのは、つらい役目です。
倉本 いやいや、僕は取り上げてもらうだけでうれしいです。何でもお答えします。
鈴木 では、ずるいんですが、もし倉本さんが倉本さんに『往生日和』や『まぼろし健康道場』についてインタビューするとしたら、キーワードは何になさいます?(笑)
倉本 これはすごい(笑)。うーん、「笑い」ですかね。『介護レッスン』も『往生日和』も今度の『まぼろし健康道場』も、読んだ人はずいぶんおかしがっている。僕自身、辛いことを辛いと書くのは嫌なんです。深刻劇はもうたくさん、他の人はともかく、自分で書くことはないと思っています。一年前に癌になった。そうすると、みんなもう倉本は死ぬと思っている。ともかく深刻なわけです。友達なんか心配して電話かけてくるんですけど、こっちは今までのぞいたことがない世界をのぞけるチャンスだ、どうせ苦しむのなら、その新しいステージを楽しもうと決めてケラケラしていると、不真面目だと気分を害するのもいるんですよ。全く死の恐怖がないかというと、そうではない。まして再発というようなことになるとどうなるかわかりませんが、今は恐怖は希薄なんです。新しい事態を楽しもうとする自分と、少し怖がっている自分がいる。どっちが書くに値するかというと、おもしろがっている自分だと思うんです。
鈴木 怖がる自分を書いているのは、たくさんありますものね。
倉本 怖い、苦しいばっかりです。でも、嘘ですね。癌患者がすべて、常に死の恐怖に脅えて生きているかというと、そうじゃない。
鈴木 倉本さんの本では、奥さんが魅力的に書かれていますね。義兄や義父の看護に献身し、辛いことははっきり辛いと言うけれども、事態を泰然と、時にはユーモアもまじえて受けとめる。奥さんがああじゃなければ、「笑い」をキーワードに作品は成立しないでしょう。
倉本 成立しないでしょうね。笑いというのは観客があって生じるものですからね。病人も観客が要るんですよ。観客なしでは、病人なんかやってられない。助かるのは、僕が新しいステージを楽しもうと思っていると、彼女も、庭続きに住んでいる妹夫婦も観客にまわってくれる。あいつがわあわあ笑おうというんだから、こっちも盛り上げてやろうじゃないか、みたいなところがあるんです。それで深刻劇も笑劇になる。観客が盛りあがれば、役者も演技に熱が入る(笑)。『介護レッスン』では、脳血栓で倒れた兄貴が演者で僕が観客だったわけです。それが今度は逆転した。僕は観客も演者も両方とも経験したことになるんですけどね。
鈴木 普通なら笑いどころではないですよ。やりきれない状況です。作品でもやりきれないと書いてあるけど、ボヘミアンみたいな義弟とか、いつも病人に温かく接する奥さんとか、くたびれているときでもまめに奥さんのお尻をさわったりして親愛の情を示す旦那さんとか、そういうところで救われて読める。倉本さんの書かれるものには、よく奥さんのお尻をさわったりする親愛感あふれたエロティシズムが出てきますね。これが実に軽妙でうまい。長年週刊誌で仕事されたことがトレーニングになっているんじゃないかと思いました。
倉本 その読みは非常に正確です。週刊誌の場合、ポルノまがいの記述をしなければならないことがある。若い頃はそれに抵抗があった。しかし、できないのも癪でしょ。どうやって自分なりのポルノを書けるか考えますよ。でも、それが逆におもしろくてね、僕はわりかし楽しんでいたんです。一度、ここをこうすれば通用するんだということがわかると、それが自分の手札になる。次にはそれをどう使って、真面目面をひっぺがす武器にできるかといったおもしろさも出てきますからね。
鈴木 エロスだけで奥さんのお尻を足の指でつねったりしてるわけじゃない(笑)。
倉本 そうです、そうです。根っから好色ってこともありますけど(笑)。
鈴木 それが生活の潤滑油になり、作品の潤滑油にもなっているんですね。高度なテクニックですよ、あれは。
倉本 それともう一つ、セックスに関していうなら、僕はほとんど偏見がないんです。育った環境が環境だし。
鈴木 天草でしょう。天草の漁師を見て育った。僕が勤めを始めた昭和三十年代の前半、九十九里浜あたりでも漁師は真っ裸ですよ。何にも身につけないで平気で網を引いたりしていたものです。そういうおおらかさを倉本さんにも感じました。
倉本 天草は、僕にとってすごく大きいんですよ。自分の文章の素姓みたいなことを考えると、最終的に天草にゆきついてしまう。先輩の作家にも指摘されたんですが、天草の色彩だし、天草の響きで組織された言葉なんですね。
鈴木 でもね、天草で育てばみんな軽妙なエロチズムをたたえた文章が書けるわけではない。実にうまい文章です。『介護レッスン』を読むと、お兄さんも文学をやってらしたそうですから、血筋もあるし、生来の才能でしょうが、やっぱり仕事を通して鍛えられた巧さも感じます。
倉本 週刊誌の仕事をやるなんて、思ってもいませんでしたね。食えないときに、友達から週刊誌は金になるからと言われて、二十二になっていたかな、行ったら全然違う世界なんですよ。その場でデータを渡されて、これをまとめてみなさいと言う。僕はその前に若者向けの雑誌の編集をやってましたから、原稿書きには慣れていたんですけどね、週刊誌のように、言ってみれば消費される文章というのを書いたことはなかったから大変でした。周りでベテラン連中がワーッと書いているタコ部屋みたいなところで、四ページの記事を何時間かかかって書いて渡したら、これじゃだめだと言うんですよ。ああ、やっぱり俺には週刊誌なんかやれないと思ったんですけど、偶然その日、その雑誌の見開きのコラムのライターが急病で来れないという連絡が入って、急遽それをやることになった。ちょうど編集をしていた雑誌の中に風刺コラムを書いていましてね、どうせ、だめだろうけど、その調子で書いたんです。そうしたら大喜びされちゃった、これは商品になるって。そのまま載っかっちゃって、それからですよ、週刊誌は。
鈴木 小説を書き始めたのは、お兄さんの果たせなかった夢を、代わって実現しようというような気持ちもありました?
倉本 それはないんです。そんな殊勝な男じゃない(笑)。僕は、兄貴は小説の天才だとずっと思っていたわけですけど、いま考えると、彼は決定的に小説について錯誤していたようです。百パーセント自分で世界をつくる、つくった世界を支配しなければならないと考えていた。小説はつくろうとするとだめなんですよ。小説自体が生き物なわけだから、むしろ、なぞるぐらいの気持ちでいたほうがいい。フィクションというものは、現実のモデルとどこが違うのというぐらいのほうがおもしろいということを、兄貴はついに発見しなかったんですね。これはまあ、性分みたいなところもあるんでしょうけど、僕は、すごく辛いことも、前から見ていると確かに深刻な状況だと見えるけれど、後ろから見たらどうかなと考える。一生懸命に女を口説いている男の背中に回ってみたら、「バカモノ」と貼り紙してあったとか(笑)。フィクションも、それだと思うんです。スタンスをAからBに移すだけ。何かあるものを素材にして架空の情景をつくり上げることではなくて、前からしか見ていなかった事柄や光景を、後ろから見ちゃう、それでフィクションになりうるんだという気がしますね。僕は『介護レッスン』のときにその呼吸みたいなものをつかんだところがあって、それが『往生日和』、『まぼろし健康道場』まで続いている感じがしています。それは、書いている当人にとっては、すごくおもしろいことなんですよ。羽仁進さんがもう十五、六年前に『ビデオ自由自在』を書いたときに、僕は非常に感心したんです。近代的な自我がふだんに鏡を眺めるようになったときに生まれたとすれば、ビデオが出現して後ろまで撮る時代になったとき、近代的な自我はどうなったんだろうというんです。そのことは、だれも言っていないですよね。相変わらず「私」探しが大ブームでしょう。後ろも全部あっけらかんになってるのに、相変わらずアイデンティティみたいなものにしがみついている。変じゃないかと思うんです。昔は、鬼にもなれば蛇にもなるみたいなことを言われていて、人間の我なんというものは、どうにでも変幻するものだった。それが近代になって、自我の確立を人間としての自立、理想だと考えはじめたときに、きわめて不自由なことになったともいえるわけですから。
鈴木 そういう意味でも、『往生日和』の冒頭は象徴的ですね。あれは父親の一種の臨死体験で、臨終の自分に息子が取りすがって泣いているのを自分で天井から見おろしている。ろくすっぽ口もきいてくれなかった息子も案外優しいんだ、と父親は思ったりして、三途の川から引き返してしまう。深刻な場面ですけれど、息子は何ともばつが悪いですよね。死んだと思って泣いていた自分の姿を見せつけられるようなものです。父親の最後の一週間、本人と看取る家族がそれぞれの心境を吐露するというめずらしい小説ですが、みんなが緊急事態に引きずり回されていながら、同時にある距離をもって死んでいく自分、父、義父を見守っている。
倉本 全くおっしゃるとおりなんで、あの小説は、天井に浮かんでいる父親が出てきたときに、すべてが決まりましたね。「浮かんでいる父」というタイトルを考えたくらい。
鈴木 家族の人間関係がべたべたしていなくて、しかも温かい。それが救いです。
倉本 いままでの文学は、苦しみとか痛み偏重であったような気がします。喜びとか楽しみとか、そういうものはなかなかテーマに据えなかった。だから非常によくできた、感じのいい奥さん像をつくり上げますとね、ここまでやる聖女みたいな女がいるわけないじゃないか、という批評になる。人間くさくない、リアリティーに欠けるというわけです。僕はでも、小説なんだ、聖女がいていいじゃないか、それがどうした、と思う。小説世界というのは逆さまの世界ですからね。父は死に、兄は脳血栓で麻痺し、本人は癌になるという状況下で、人間がこんな能天気でおれるものか、世の中そんなものじゃないって、じゃあ、どんなもんなんだよ(笑)。
鈴木 日本の私小説の伝統からいえば、幸福な家庭からはいい文学は生まれず、不幸な経験をして初めて文学が書けるというのがいわば定説になっていましたね。
倉本 のたうち回っていないと人間じゃないみたいなね。冗談じゃない、のたうち回っても、のたうち回っている自分を楽しむ自分がいる。それに、のたうち回るのと無縁の才能の持ち主だっているでしょ。
鈴木 『介護レッスン』でも、兄のリハビリが思うようにいかなくて、本人もイライラするし、周りもイライラする。そうすると、あなたが悪いんじゃないよ、それが人生というものらしいよ、と考える。意気込んで介護してみたけれども、壊れた体はどうにもならない。でも、それが現実であり、そこに人生の味もあるんだと受け止める。そういうことを随所に書かれていますね。人間、死ぬべきか、生きるべきかなんて、そんなことはわかるはずないんだ、わからないからグダグダ生きているけれど、生きるというのは結局そういうことじゃないか。深刻じゃないことはないんですよね。
倉本 深刻なんです。でも、ちょこっと笑っちゃえば見えてくることがあるよ、ということです。
鈴木 『まぼろし健康道場』も、にんにく、腰湯、クロレラ、健康器具、活元運動、バイアグラと、普通の人間じゃ考えられないくらいいろいろな健康法にのめり込んでいるけれども、「まぼろし」とあるのが意味深長で、やはり何処かでそういう自分を引いて見ている。そこがおもしろいし、笑っちゃうところですね。しかし、根底に人間の体に対する倉本さんの真摯な関心が感じられます。
倉本 それは強いですね。若いときに翻訳小説ばっかり読んだりしていたときは、観念をどれだけ活発にするかが人間になる道だと思っていたわけですけど(笑)。
鈴木 『介護レッスン』で、人間、九〇%は言葉で構成されていると思っていたけれど、九〇%は体だと思うようになった、と書かれている。
倉本 体にくっついてみると、いろんなおかしいことが見えてくるんです。僕はいま、癌のために食養生をやっていて、コーヒーは飲んじゃいけないんです。いけないんだけれども、仲良くなったコーヒー屋のおやじさんがいて、そこの店では飲むんですよ。飲むときに、「これから毒を飲みます」と言ってるわけ(笑)。僕が毒を飲むよって体に言うと、細胞が、おお、毒が来るぞと構える。不意打ちよりも、いいんじゃないか(笑)。そこらが『まぼろし健康道場』を書かせた要因で、からだを見ていると、何か不思議なことがたくさんあるんですね。そういういろんな不思議なことが驚きとして見えてくると、これはなかなか捨てたもんじゃない。不可思議な体をもって動いている人間の滑稽さ、そこのところが『まぼろし健康道場』を書いたいちばんのモチーフです。
鈴木 『まぼろし健康道場』の最後はご自分の癌の話ですが、いろいろな健康法の体験記を連載されていた最中に癌になったというのは、滑稽と言っては失礼ですが、皮肉ですね。
倉本 ほんと滑稽ですね。手術しませんでしたが、癌は消えました。いま残党とやりあっているところです。
鈴木 兄上を書いた『介護レッスン』、父上を書いた『往生日和』、そして今度はご自分の闘病記と、癌に負けずに三部作を完成してください。
倉本 そのつもりで、いま準備中です。書いたらまた笑ってください(笑)。
(1月16日 神奈川県葉山町の自宅にて取材)

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