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『虹の彼方』の小池 真理子さん
インタビュアー 石川 淳志(映画監督)

小池真理子(こいけ・まりこ)
1952年東京都生まれ。78年にエッセイ集『知的悪女のすすめ』で作家デビュー。その後、心理サスペンスや恋愛小説の書き手として、89年『妻の女友達』で日本推理作家協会賞、96年に『恋』で直木賞、98年には『欲望』で島清恋愛文学賞を受賞。主な著書に『青山娼館』、『虚無のオペラ』、『ノスタルジア』、『闇夜の国から二人で舟を出す』、『夜の寝覚め』、『狂王の庭』、『愛するということ』などがある。




『虹の彼方』
毎日新聞社



『青山娼館』
角川書店



『闇夜の国から二人で舟を出す』
新潮社



『虚無のオペラ』
文春文庫

石川 小池さんの最新作『虹の彼方』は、女優・高木志摩子と彼女が座長を務める舞台の原作者・奥平正臣が出会い、織り成す、激しい恋の行方を描いた長編小説です。この作品は、毎日新聞に連載されていた作品ですね。
小池 『恋』で直木賞を受賞してから、執筆依頼をたくさんいただくようになりましたが、新聞の連載だけはお断りしてきました。けれども、親しくしていた毎日新聞の学芸部の方から「どうしても」と請われてお引き受けしました。初めての新聞連載で緊張感のある執筆になりましたが、余計な気負いをしないように努めました。
石川 志摩子と正臣、この二人にはそれぞれ家庭があります。この恋愛小説の発想のモチーフは何だったのでしょうか。
小池 まずキーワードとして浮かんだのが「逃避行」という言葉でした。背景などは特に浮かんではいませんでしたが、「現在いる場所から逃げていく」ことをポジティブな形として描こうと考えました。今までの私の作品は、思うようにならない恋愛の不条理感を「諦め」としてとらえていたものが多く、その分、耽美性や幻想的な描写、または生きていくうえでの美意識などを前面に押し出してきました。今回は、現実の状況に主人公たちをどっぷりとつからせながら、なおも不条理感に喘いで、葛藤しながらも諦めずに突き進んでいく人間の姿を描きました。その意味では、私が今まで手がけてきた作品とは異なったものになったと思います。
石川 二人は不倫関係にあるわけですが、お互いが真剣に愛を貫いていて、純愛小説として志摩子と正臣の時間を共有することができました。
小池 家庭外の恋に対する収拾のつけ方というのは、もとの鞘に収まるのが一般的です。それ以外は心中するか、配偶者とも恋人とも別れてひとり身になるという選択肢もあるわけですが、人間の高潔さで立ち向かうことによって、別の解決法を勝ち取ることができるのではないかと思うんです。今回の作品では、そういう思いを盛り込んで書いてみました。
石川 序章では、スポーツ紙や女性週刊誌から《ダブル不倫》や《姦通》という言葉を抜き出し、また老作家の寄稿も抜粋し、ワイドショー番組の《恋の果ての逃避行》という言葉までをも用い二人の行為を浮かび上がらせています。しかし具体的な謎は残したままです。
小池 先に物語の全容を提示するのは、『恋』でも使った手法です。今回も逃避行にいたるまでの謎を提示することで、読者を惹きつけるねらいがありました。でも、作品全体としては文学的なたくらみはほとんどなく、発想が湧き出るままに書きました。 
石川 正臣は作家という設定です。なぜ作家という職業を選ばれたのでしょうか。
小池 彼を小説家にした理由のひとつに、複雑な心の動きを言葉で表現できる人間をつくりたかったという考えがありました。それから、彼の幼少期にふれたのは必要不可欠なことでした。母親との接触が少なかったために不全感や喪失感をいまだに引きずっていて、彼は闇を抱えたまま生きています。何度も自問自答をくり返すなど、抽象的な苦悩をするタイプですが、志摩子と出会うことで、心も体も開いていくようになるわけです。
石川 志摩子の職業は女優です。二人とも虚構が身近にある存在で、そのことが二人の恋を熱く燃え上がらせる要因になったと感じました。
小池 作家である正臣の視点は、私の視点でもあるわけです。私の中に両性具有のように男の視点と女の視点があり、それを駆使しながら正臣を描きました。対する志摩子は、女優という職業上、頭ではなく肉体を使って表現するようにしました。作家や女優だと職業柄、虚構の世界が身近にありますから、出会った相手とより深く溶けあうことができるのだと思います。
石川 二人は九月に出会い、その年のクリスマス・イブに初めて体を交わしますが、このシーンは言葉を選んで、たいへん丁寧に描かれています。
小池 これまでも性愛の描写を避けることはしませんでしたが、今回はいつにもまして体当たりで書こうと思っていたので、非常に苦労しました。小説は言葉で男女の交合を表現するわけですから、ひとつ間違えば凡庸な性描写になってしまいます。その時の二人が感じた快楽の度合いをはじめ、皮膚感覚、視覚、嗅覚など五感で感じたものをひとつひとつ言葉にしながら、男の視点、女の視点の違いを書き分けていきました。また、「セックス」や「エクスタシー」などといった、直接的な言葉は避けて、別の表現をするために枚数をさくこともしました。
石川 志摩子を取り巻く人物たち、とりわけ映画監督の堂本と夫の滋男はいずれも死の匂いを感じさせます。結末に向けて父性的な包容力を持ったこの二人と別れることで、志摩子の通過儀礼的な物語の側面もあると感じました。
小池 おっしゃる通りです。志摩子は四八歳で正臣が四三歳ですから、それぞれがたどってきた過去に蔦のように絡まる出来事というのは、当然あって然るべきです。容易に捨てることのできない世俗的な背景は、きちんと書き込みたかったんです。その上で、恋をする二人の行方を描き切ることで、作品のテーマが浮かび上がってきたのではないかと思っています。
石川 ついに二人の恋は女性誌にスクープされ、一大スキャンダルに発展し、逃避行を決意します。逃避行先に上海を選ばれたのはなぜでしょうか。
小池 アジアの熱気と騒音にまみれた場所を設定したかったので、上海はぴったりの街でした。実際に取材に行くと、瓦礫の山の近くに高層ビルが建っていたりして、滅んでいくものとこれから生み出されるものが同居している街だと思いました。志摩子と正臣にとっては、破滅も再生も予感させる街だったのではないでしょうか。
石川 二一日間の逃避行ののち、二人は日本に戻る決断をします。
小池 二人が戻る時の心理描写は難しかったです。理屈っぽくなると嘘になってしまう危険性がありますからね。人は理屈ではなく、自分の中で突き動かされていく情動みたいなものでしか、人生の決断はできないと思うんです。ですから、動物園に行ったり、観覧車に乗ったりするうちに、お互いが自然に「帰ろう」という気持ちになるようにストーリーを綴っていきました。
石川 帰国後、志摩子は軽井沢の別荘にこもります。夫との別れの場面で、滋男は《ものごとに徹底して狂うことができるというのは、一種の美徳だ》とつぶやきます。
小池 現代人は狂うことを恐れていますよね。狂い切ってしまう自分を想像しただけで、あまりの恐ろしさにたじろいでしまいます。『虹の彼方』は何かにパッションを傾けて狂っていくことを肯定した作品ですので、滋男の台詞は象徴的な言葉なのかもしれません。
石川 付き人の加代子を《若い娘が吐きかけてくる甘ったるい息の匂い》と描写しています。若い人間の持つ無防備な美を匂いで表現されていて驚きました。
小池 私は人から「嗅覚で書いてますね」とよく言われるんです。情景描写でも匂いをよく書きますしね。雨の匂いだけでなく、雪にも匂いがあるんですよ。軽井沢で暮らすようになって、嗅覚が研ぎ澄まされたのではないかと思っています。
石川 最終ページでは、《雨あがりの弾けるような夏の光の中》という一文があります。この長編小説を新鮮な気持ちで読み終えるためのエッセンスになっていると感じました。
小池 最後の場面では去っていく者とこちらにやってくる者の、二台の車がすれ違います。これは終わりと始まりが一瞬にしてすれ違うエンディング風景です。その瞬間に読者が希望を見出だせるような、光そのものが鮮烈な印象となって読後感に残るような終わり方ができればいいなと思っていました。
石川 小池さんはエッセイ集『闇夜の国から二人で舟を出す』で《或る時から私は「私」を描こう、描かなければならない、と強く思った》と書いています。
小池 読者に言いたいことを伝えるためには、何かしらの構造というものが必要になります。その構造にはめ込んでなお、そこからこぼれ落ちるものもすくい、全てをよりあわせた作品が人の心に届くのだと考えています。物語をつくり込んでいく作業は、作者が生み出した人形を操る感覚に近いものがあります。でも、今の私は、私自身の内部を通過したものしか書きたくないという思いが強くあります。その思いを、作品の中に盛り込みながら描くことで、読者の心に残る作品を届けていきたいと思っているんですね。

(5月11日 東京・広尾にて収録)

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