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小林 信彦(こばやし・のぶひこ)
1932年東京都生まれ。早稲田大学文学部卒業。59年「ヒッチコック・マガジン」の編集長となり主に映画評などの執筆を行う一方で、テレビ構成作家としても活躍。その後、本格的に作家に転身。『日本の喜劇人』で芸術選奨新人賞を受賞。多くの作品が映画化・テレビドラマ化されている。主な著書に『袋小路の休日』、『夢の砦』、『唐獅子株式会社』、『昭和の東京、平成の東京』、『本音を申せば』等がある。 |
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『東京少年』
新潮社
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『本音を申せば』
文藝春秋
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『昭和の東京、平成の東京』
ちくま文庫
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『テレビの黄金時代』
文春文庫
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石川 この度の長編小説『東京少年』は、小林さんにとっては一九九七年の『結婚恐怖』以来の小説になります。
小林 そうですね。ただ、この作品の前半は大学生の時から書いていたんです。その頃は超不況で就職できるかどうかわかりませんでしたから、高校の英語教師でもしながら小説を書き続けようと考えていました。当時は三つくらい書きたいテーマがありまして、今回の作品はその中の最初の物語になります。
石川 では、五十年をかけてようやく結実したわけですね。
小林 実はこの小説の刊行にはきっかけがあります。四年前にアメリカのアフガニスタン侵攻をテレビで見ていたんです。そうしたら、アメリカ兵がヘリコプターから乗り出して地上に向けて機銃掃射をするシーンが映されたんです。その時にあぁ、アメリカはまた同じことをやっている≠ニ感じました。僕の子供時代にも似たような経験があったんです。東京大空襲のはるか前に、パール・ハーバーの復讐で小さな爆撃が東京にきて子供が殺されたんです。アメリカ兵は面白がって子供を狙って撃つんですよ。僕はアメリカ軍の占領下で育ちましたからアメリカの音楽とか映画は好きなんですが、アフガニスタン空爆のニュースを見て、そういう記憶が甦ってきました。その時に感じた違和感のようなものが、今回の小説を執筆するきっかけになっています。
石川 アメリカのアフガニスタン侵攻が、自らの戦争体験を改めて書き綴るきっかけになったわけですね。
小林 僕は満州事変の翌年に生まれましたが、十二歳までずっと戦争が続いていたんです。敗戦の時には、〈日本は絶対に正しいと教えられていたのに負けるとはどういうことだ〉という疑問を感じましたし、同時に教師に対しても間違った教育についての説明をしてもらいたかった。その頃の、世の中の混乱、自分の中の混乱というものを小説として書きとめたいと考えたんです。それから、僕の戦争体験の中では切っても切れない疎開というものについてもきちんと書いておこうと思っていました。疎開には縁故疎開と集団疎開があるのですが、僕はその両方を経験していましたから
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石川 小林さんには集団疎開を題材にした『冬の神話』という作品があります。
小林 『冬の神話』を執筆した時はあまり相手にしてもらえず、ほとんど無視されていたんです。というのも『冬の神話』が書き上がったのは昭和四十年頃で東京オリンピックのころ、「戦争」という記憶を大衆が忘れたがっていたんですね。僕は必然性があって作品を書いたわけですが、世の中からみたら戦争が終わって二十年、やっと忘れかけた時に戦時中の証拠みたいなものを出されても、と困惑したんじゃないでしょうか。ある文芸誌の編集者に「小学生がナイフで教師をさすような事件でもあれば掲載してもいい」とハッキリ言われたことを覚えています。でも、そんなこと戦争中には絶対ありえません。ナイフなんて手に入りにくい時代でしたから。
石川 この『東京少年』は、東京の両国で和菓子屋を営む家に生まれた国民学校(小学校)六年生の《ぼく》が、昭和十九年に集団疎開で東京を離れることを余儀なくされ、戦後、ついに東京へ帰還するまでの物語です。これは自伝的小説と考えてよいのでしょうか。
小林 そうですね。ただ、物語をコンパクトにするために実際の体験から切り捨てた場面や人物というのはもちろんあります。今回は最初から少年の惑いを中心にした小説にするつもりでしたから、削った出来事はかなり多くあって、そういう意味においてはフィクションといえるかもしれません。ただ物語の軸になっている出来事はほぼ本当のことです。
石川 第T部は《ぼく》が埼玉県の入間に集団疎開をします。子供たちを受け入れるお寺に辿り着いたその夜、四年生たちが《「山が動いてきたあ!」》と騒ぎます。文中でも《山が、大きく、黒々と、近づいていた。》と書かれています。これは東京を離れ疎開先へとやってきた恐怖感を表現しているように感じました。
小林 かなりの想像力を使って書いていますが、当時の僕にはそのように感じたんですね。集団で東京を離れて疎開先へとやってきているわけですから、そこでの出来事や感じたことなどはきちんと書き綴りたいと思っていました。単純にあった出来事を書くだけでは面白くありませんから。
石川 《ぼく》たちはここで出口の見えない辛い日々を送ることになるわけですが、《子供であるがゆえに、人間は限りなく狡猾になり得る》という文章は、とても厳しい言葉です。
小林 これは昔に限ったことではなく、現在にもいえることではないでしょうか。現実に大人より子供の方がずるいところがたくさんありますからね(笑)。小説で描いた、飢餓、密告、人間不信などは全部実体験があります。疎開先にいた四、五十人の子供たちのほとんどが六年生で、もうすぐ中学生という時期でしたから、より狡猾だったんじゃないかと思います。
石川 《上野動物園の園長になるつもりだったぼく》は、教師に将来の希望をきかれて《「小説を書くつもりです」》と答えます。
小林 これは本当のことです。僕はものすごく体が弱かったので、軍人にはなれないと思っていました。作家を目指そうと考えたのは五年生か六年生の頃でしたね。当時から絵入りの小説なども書いていました。今にして思うと、僕の子供の頃というのは、「ひきこもり」に近かったかもしれません(笑)。
石川 集団疎開の行き詰まる状況から一転して、第U部では親戚のいる新潟県の新井町に一家揃って疎開します。そこで出会った《曽我》という同級生との友情に、読んでて心が温かくなりました。
小林 それを書くのが今回は楽しみでした。彼には実在のモデルがいます。彼は地元の子供なので小説の中では方言を使っていますが、この方言というのが実は便利なんですよ。会話が終わった後にと彼は言った≠ニいう表現を使わなくてすみますし、《ぼく》が標準語で曽我が方言で話すので、誰の台詞なのかが読んでる人にすぐわかる。今まで雪国での生活を書いたことがなかったので、書いてて本当に楽しかったです。
石川 敗戦をむかえてからは、東京に帰るのを拒む《失業した父》と《ぼく》との葛藤がクローズアップされていきます。それと同時に、母が東京・青山にいる祖母へ出した手紙の下書きが効果的に挿入されています。
小林 第U部では、東京へ帰るのを阻む様々な障害をいかにして乗り越えて帰郷するのか、という物語になっています。冒険小説であれば疎開先から脱走したりするのかもしれませんが、現実を知っている人間からすればそんなことを書くわけにはいきません。だいたい汽車の切符を買うことすら当時は大変だったんですよ。
石川 東京へ帰れるのか帰れないのか、最後までハラハラしました。
小林 サスペンスなんでしょうか。《ぼく》は東京へ帰りたくて仕方がないのに、子供の知恵だけではそれは不可能ですから母親が活躍するんです。前半は書いてて辛いところもありましたが、後半はわりあい伸び伸びと書くことができました。それと、戦後の風景というのは、闇市があって「リンゴの唄」が流れている、というような六十年かけて作られてきたチャチなイメージがありますでしょ。僕はそれをできるだけ壊したいと思っていました。
石川 細かく構成を考えてから書かれたのですか。
小林 今回は、書くエピソードを初めに決めておいて、それを書きながら、つなぎの部分を書き進めていきました。
石川 『東京少年』を読んで、この小説を支える核の部分には「大いなる喪失感」のようなものを感じました。
小林 僕が生まれた両国はカフェやビリヤード、洋食屋などがあって多くの人が遊びに来る街だったんです。便利な街でしたから、生活のほとんどがその近辺ですんでしまうんです。僕も映画を観に行ったりする以外は街を出たことがありませんでした。でも、その両国の街は東京大空襲で喪失してしまいましたしね。
石川 次回作まで、またしばらく待たなければなりませんか
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小林 書く内容はもう全部できていますから、後は書くだけですね。楽しみにしていて下さい。
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