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阿川 佐和子
(あがわ・さわこ)
1953年東京都生まれ。慶應義塾大学卒業。報道番組のキャスターを経て渡米、1年間アメリカで暮らす。帰国後、エッセイスト、インタビュアー、司会者として活躍。99年『ああ言えばこう食う』(檀ふみ共著)で講談社エッセイ賞、2000年には『ウメ子』で坪田譲治文学賞を受賞した。主な著書に『空耳アワワ』、『恋する音楽小説』、『オドオドの頃を過ぎても』等がある。 |
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『スープ・オペラ』
新潮社
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『空耳アワワ』
中央公論新社
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『恋する音楽小説』
講談社文庫
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『ピーコとサワコ』
文藝春秋
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石川 阿川さんの長編小説『スープ・オペラ』は、叔母の「トバちゃん」と一軒家に暮らしていた三十五歳の「島田ルイ」がトバちゃんの駆け落ちで一人になったところに、「トニーさん」と「林康介」という二人の男が転がり込んできて始まる、三人の奇妙な共同生活を描いた物語です。この『スープ・オペラ』は「小説新潮」に連載されていた作品ですね。
阿川 はい。最初は編集部から恋愛小説の連載を依頼されたんです。でも、世にいう恋愛小説のような洒落た作品を私が書けるのかしら、といった不安がありました。今までエッセイはずい分書いてきましたが小説は少なくて、小説家としてはまだまだ駆け出しです。最初からフィクションだとわかっているものを、読者が共感や納得できるような面白い作品に仕上げるためには、相当な技術がいるんだろうな、と思うと自信がなくて。
石川 しかし、この『スープ・オペラ』は大変優雅な小説です。
阿川 ホントにィ〜。今、売れている小説って、衝撃的な内容のものが多いでしょう。それぞれの作品は素晴らしいと思うんですけど、そういう刺激のある作品にしか読者が興味を持たない時代になってしまったのかと。その点、私自身の人生を振り返ってみると、背負っているものは何もないし、生や死について深く考えたこともなくて、何となく恵まれた中でこの歳まできてしまって。だから、刺激的な事件や激しい内容の作品を書くなんてことできないんです。やっぱり、実体験とか自分の消化期間を通したものでないと文章に説得力が出てきませんからね。だから私としては、普通の体温、三六度四分くらいの温度で物語を進めていって、読者に面白いと感じてもらうことができないものか、などと考えながら『スープ・オペラ』をスタートさせてみたんです。
石川 それは、人の温かさが感じられる小説を書くということでしょうか。
阿川 まあ、ごく普通のね。五年くらい前に、この人は結婚対象とか恋愛対象ではないけれど、自分にとってとても大切な男性で、このまま互いに爺さん婆さんになっても、ニコニコと笑って会える関係でいられたら幸せだろうな、とフッと思ったことがあるんです。そして、そんな気持ちが成立するような生活空間や人間関係をフィクションの中でつくれないかなと思ったんです。そもそも、普通のOLだって、サラリーマンだって、私だって、毎日の生活の中にそれぞれ楽しいことがあったり、不満や悩みを抱えていたりはするけど、天地がひっくり返るほどの事件を経験することはほとんどないですもんね。
石川 『スープ・オペラ』の始まりは鮮烈ですね。まず、「骨」という言葉から入ります。
阿川 殺人事件かと思った?(笑)
石川 さいえいえ(笑)。その最初のセンテンスですが《骨と骨のすき間から、大きな泡が》と始まります。白い「骨」、透明な「泡」から、動物園の「ゴリラ」やゴリラが投げつける「土」にまでイメージが飛躍したのち、また骨に戻ってきます。実はその骨というのは、鍋で煮込まれている鶏ガラであることが判明して物語が始まるわけですが、イメージの連鎖の鮮やかさに読者は一気に物語世界へと引き込まれていきます。
阿川 そういうふうに読んでいただけるのは嬉しいです。でもね、本当のことを言うと、実は何にも考えていなかったの(笑)。何も書くことが思いつかなくて、お腹がすいたので、鶏ガラでスープを取り始めて、まあ、スープのシーンから始めてみようと思って、でも、「鶏ガラスープを煮込んでいます」と書いたらつまらないでしょ。《骨と骨のすき間から》と書いてあったら読者は驚くかと思って、そう書き出してみただけでして。その次に出てくる動物園のゴリラは書いているうちにふと思い出したんです。昔、テレビの取材中に本当にゴリラの威嚇にあったことを(笑)。
石川 主人公のルイはどのようなイメージで人物設定をされたのですか。
阿川 私の時代は二五歳から三〇歳というのが乙女の悩みの年頃だったんです。これから人生はどうなるんだろうとか、結婚が遠のいていくけどこのままお婆さんになってしまうのかしらとかね。昔は「結婚」というのが女性の重要なエポックでしたけど、今の時代、少し年齢が上がってるでしょ。モラトリアムな悩みを感じるのは三五歳ぐらいだろうと思って、主人公の年齢を設定しました。小説の舞台も私自身が東京で生まれ育ったので、同様に東京ということにしました。
石川 トニーさんや康介はどのようなイメージで描かれたのですか。
阿川 実はトニーさんにはモデルがいます。似たような生き方というかバックグラウンドを持っている方を知っていましたので、小説の中でも使わせてもらいました。康介に関しては、自分の性格を重ねているところがありますね。優柔不断だったり、すぐ人にあわせてしまったり、自分が駄目だと思う部分を隠したいがために調子に乗ってしまうところとかね、セックスレスじゃないけど(笑)。
石川 親子ほども歳の離れたトニーさんと康介の会話はとても楽しくて、読みながらつい笑みがこぼれてしまいます。
阿川 私には二歳年上の兄がいて、年齢が近かったこともあって子供の頃はいつもくっついて遊んでいたんです。兄と友達の関係を見ているととてもうらやましくて、私も男の子だったら良かったのになと思っていました。そういう男同士の関係に憧れていたものですから、小説の中でルイから見たトニーと康介の関係というのは、無意識のうちに影響を受けているかもしれません。私の中に「男」の部分があるのかもね(笑)。
石川 還暦目前で駆け落ちをするトバちゃんというキャラクターも秀逸です。
阿川 トバちゃんに関しては三人に三様にモデルを連想されました。檀ふみさんには「田嶋陽子さんでしょ」と言われました(笑)。違いますけどね(笑)。でも小説のキャラクターから実在する人物を連想してもらえるというのは、イメージしやすいということですから嬉しいですね。
石川 肉屋の主人やルイが勤める大学の先生など、その他の登場人物たちもユーモラスです。特に小説家の「井上」は、読み進めていくとその印象の深さが際立つ人物です。
阿川 『ウメ子』からスタートしていくつか小説を書いてきましたが、私は本当に嫌なヤツというのが書けないんです。それは私が善人だからとかいうことではなくて、そこまできちんと人間観察ができていないからだと思います。今回の小説では、誰が見たって嫌なヤツというのを書こうとしたんですけど、書き切ることはできませんでした。どんなに嫌なヤツでも少しぐらいはいい所があるだろうと考えてしまって、結局「井上」はそういう人物設定になってしまいました。
石川 この『スープ・オペラ』はある年の春から翌年のクリスマス前までを描いています。作品の魅力のひとつとして、東京の四季の情景描写がとても瑞々しく描かれていますね。
阿川 原稿を執筆しているときに、窓の外に見える景色と物語の内容とを重ねて描いていきました。銀杏が綺麗なときには銀杏のことを書いたり、梅が咲いているときに梅のことを書いたりね。そうやって書いていけば、小説に出てくる細かなものまできちんと描くことができるのではないかと思ったんです。
石川 物語の後半に「チェコ事件」という言葉が登場しますね。ほのぼのとした物語の中に、突然、悲劇的な現代史の話が登場して読んでてドキッとしました。
阿川 小説を書き始める前から井上の妻を外国人にすることは決めていて、どこの国の女性にするか悩んだ結果、東欧の女性にしました。東欧では唯一ユーゴスラビアに行ったことがあって、ザグレブの町では街の中にある公園の寒々とした風景が印象に残っています。ベンチに座る老人、枯葉の落ちてゆく様、夕日などですね。戦争の現場にも取材で行きましたけど、あの戦争は民族戦争なのか宗教戦争なのか経済格差による戦争なのか、結局はわかりませんでした。そういう、過去の体験、そしてその時に受けた衝撃というものを小説の中に盛り込んでみると、やはりチェコ事件について触れざるを得なくなって。でも、作中でチェコ事件のことを語る井上と年代をあわせるのが大変で、かなり苦労もしました。
石川 今後の作品のご予定を教えてください。
阿川 次の連載はすでに決まっています。でも、この『スープ・オペラ』が全然売れなかったら小説はやめてしまうかもしれませんね(笑)。
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