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【対談】戦国から江戸時代を強く生きた女性たち
「新刊ニュース 2011年3月号」より抜粋
江戸幕府第二代将軍徳川秀忠の正室となったお江の生涯を描くNHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」が放映中です。戦国から江戸の端境期を強く生きた女性たちの魅力を、時代小説作家の植松三十里氏と、ドラマの時代考証を担当されている歴史学者、小和田哲男氏の対談から読み解きます。
歴史学者 小和田哲男
1944年静岡県生まれ。静岡大学名誉教授。文学博士・歴史学者。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。日本の戦国時代に関する研究の第一人者。執筆、講演活動のほかに、NHK大河ドラマ1996年「秀吉」、2006年「功名が辻」、2009年「天地人」、そして2011年「江〜姫たちの戦国〜」の時代考証を監修。近著に『お江 戦国の姫から徳川の妻へ』(角川学芸出版)、『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社)など。戦国時代に関する著作多数。
作家 植松三十里
静岡県出身。1977年、東京女子大学史学科卒業後、婦人画報社(現アシェット婦人画報社)編集局入社。7年間の在米生活、建築都市デザイン事務局勤務などを経て、フリーランスのライターとなる。2003年『桑港にて』(新人物往来社)で第27回歴史文学賞受賞。09年『群青 日本海軍の礎を築いた男』(文藝春秋)で第28回新田次郎文学賞受賞。同年『彫残二人』(中央公論新社)で第15回中山義秀文学賞受賞。近著に『お江の方と春日局』(NHK出版)、『お江 流浪の姫』(集英社文庫)などがある。
植松三十里さんの作品
『お江の方と春日局』
植松三十里著
NHK出版
『お江 流浪の姫』
植松三十里著
集英社(集英社文庫)
『めのと』
植松三十里著
講談社
小和田哲男さんの作品
『お江 戦国の姫から徳川の妻へ』
小和田哲男著
角川学芸出版/角川グループパブリッシング発売
『戦国三姉妹 茶々・初・江の数奇な生涯』
小和田哲男著
角川学芸出版/角川グループパブリッシング発売(角川選書)
『浅井三姉妹の真実 茶々・初・お江の生きた時代』
小和田哲男編
新人物往来社(新人物文庫)
 

戦国乱世を
強く生きた女性たち


植松 
NHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」が好調だそうですね。小和田先生も時代考証でお忙しいのでは? 

小和田 いやいや、植松さんこそ、『お江の方と春日局』、『お江 流浪の姫』と2冊上梓され、大変面白く拝読しました。最近とみに感じるのですが、この時代の女性のイメージが変わってきました。大河ドラマで言うと、2002年「利家とまつ」で前田利家の妻まつ、2006年「功名が辻」で山内一豊の妻千代が脚光を浴びた。戦に出ていた女性もいたようです。武田氏と北条氏の古戦場である沼津の千本松原の首塚から出てきた約100体の戦死者の人骨のうち、3分の1が女性の骨だとわかったんですよ。

植松  戦国時代の女性は大人しくて、運命に流され、よよと泣いていたイメージがずっとあった(笑)。実像が少しずつわかってきたのかも知れません。戦国時代にだって生き生きとして、男の人に対してはっきりと物を言う女性もいたのではないでしょうか。

小和田 最上義光の妹で、伊達家に嫁ぎ政宗を産んだ義姫は、最上家と伊達家が戦いになったときに、両陣の間に輿を乗り付けて戦いをやめさせています。すごい女性たちもいたんだなと思いますね。

植松 織田信長の妹であるお市も、きっと強い女性だったのでしょう。実家である織田家と、婚家である浅井家との橋渡しという使命感を持って浅井長政に嫁いだ。茶々、初、江の三人の娘を授かるも、長政は信長に攻め込まれ小谷城で死ぬ。しかしお市は母として生き延びる道を選ぶ。強い女性ですね。

小和田 小谷落城後、織田家に帰るものの今度は信長が本能寺の変で死に、又も保護者を失ったお市は重臣の柴田勝家と再婚する。これは、信長の三男の信孝がお市を説得したのだと考えています。信孝は相続争いで羽柴秀吉と敵対していましたから、勝家を味方につけたかった。 
 

植松 勝家は織田家の先代からの重臣でしたから、お市の幼少時から知っているでしょうし、大事にしたでしょうね。

小和田 植松さんの著書の中でこの再婚を「領地配分とセット」と捉えている視点が非常に面白かった。

植松 小説家の勝手な推測なんですけれど、信長がお市をすぐに再婚させなかったのは、それだけ彼女と三人の娘たちを大事にしたのではないかと。信長亡き後、お市と三姉妹を誰が貰い受けるかは、大きな問題。城を一つ貰うのと同じようなイメージで考えました。

小和田 確かにそうですね。信長はまだ若いお市をいずれは誰かと再婚させようと思っていた。

植松 長政は信長と敵対して死んだのですから、その菩提を弔うために出家することも許されなかったでしょうし。お市も再婚は覚悟していたと思いますね。

小和田 小谷落城のときは三姉妹もまだ幼く、お市は生き延びる道を選んだ。けれども、今度は再婚した勝家が秀吉に攻め滅ぼされる。その時お市は娘たちを逃がして北の庄に残り、勝家と一緒に命を落とす。私にはそれはなぜ、という疑問が残る。結婚わずか半年ぐらいですよね。

植松 お市にとって勝家が、一緒に死んでもいいと思える人物だったのではないかと考えています。豪傑で色気のある、戦国武将らしい武将だったと思います。

小和田 なるほど。この時お市が生き延びれば、今度は秀吉の側室にさせられる可能性もあったわけですからね。

植松 命が惜しくて3度も夫を替えた≠ニ世間に言われてしまう。それは嫌だと思い、自ら死を選んだのではないでしょうか。

小和田 かねがね疑問に思っているのが、三姉妹の長女、茶々が秀吉の側室になった理由です。後に秀頼を産んで淀君≠ニして知られる茶々ですが、通説として、自分が天下人である秀吉の側室になれば、浅井家の菩提を弔うことができると考えた、と言われています。しかし植松さんの著書の、二人の妹を守るためという視点が面白い。

植松 私自身が三姉妹の一番下ですが、一番上の姉はやはりしっかり者。父の長政、伯父の信長に続き、母のお市も亡くなった後、茶々は長姉として、妹たちをきちんと嫁がせたいと考えていたのではないでしょうか。

小和田 豊臣家を滅ぼすために側室になったという解釈もありますけれど、それはないと思いますね。

植松 恨みは持っていたようですが、当時は敵方のものになることはいくらでもあった話。戦国時代に苦しかったのは女性だけではない、戦い続けなければならない男の人にとっても厳しい時代でした。三姉妹の次女の初や秀吉の妻おねは、大坂の陣の時に豊臣と徳川の間の使者として和平交渉を担っています。男たちの戦いの最中で平和を願い、強い意志を持って行動した女性を象徴していますね。


信長ブランド≠ニして結婚を繰り返したお江

小和田 茶々が秀吉の側室となる前に、三女のお江は佐治一成に嫁がされる。植松さんは結婚の背景を、あまりにも直接的な言い方をするお江を、秀吉が厄介払いしたと描いていたのが面白かったですね。

植松 お市の死からお江の結婚まであまりに早いんです。一成は15歳だったので、当時16歳の初が嫁いでも良かったと思いますが、13歳のお江が嫁がされた。だからお江が秀吉の気に入らないことを言い、さっさと追い出そうと思われたのでは、と。

小和田 宮本義己氏の『誰も知らなかった江』(毎日コミュニケーションズ)で、お江が佐治家に嫁いだのは、信長の次男、信雄の命令ではと言われていましてね。

植松 佐治一成の母は信長の妹であるお犬の方、つまり一成も信長の甥です。信長が妹を嫁がせるだけの名門である佐治家ですから、信雄の意志も確かにあったかもしれないですね。

小和田 しかし秀吉の命令によってお江は一成と離縁させられる。二番目の夫、豊臣秀勝とは死別。三番目に嫁いだのが徳川秀忠、家康の息子で第二代将軍となる人です。秀忠は多くの史料から、大人しく頼りない感じを受けますが、家康はあえて二代目に据えた。

植松 家康が切り開いた道を秀忠がならし、二人で江戸幕府を立ち上げたというイメージです。秀忠のように少し控えめな方が家康とはうまくいき、政権を確立できたのだと思います。秀忠の兄である結城秀康を跡継ぎにという声もあったようですが、この人は家康と同じタイプですから、父子でぶつかっていたかもしれません。

小和田 その視点は面白い。控えめだが確実にできる人間の秀忠を、お江というしっかり者の妻が支えた。

植松 きっと家康がお江を気に入って嫁にしたのではないかと。お江は秀忠より6歳年上でしたが、あえて正室に迎えたということはそれだけ魅力のある女性であったと思います。家康は幼い頃に織田家の人質として信長の側にいて、その後も信長に忠誠を尽くした。お江が信長の姪ということも、正室に迎えた一因だと思いますね。

小和田 単に秀吉に押し付けられた結婚ではなくて、家康の方も望んでいた。

植松 信長の姪が産んだ子どもが、秀忠の次の将軍になるわけです。信長ブランドとも言うべき要素はあったと思います。


実は似ているお江とお福


小和田 秀忠とお江の間には二人の息子が産まれた。後の第三代将軍家光となる長男、竹千代の乳母が、後に春日局となるお福です。竹千代が病弱で内気な性格なのに対し、弟の国松は元気で利発。秀忠とお江は国松を可愛がり、世継ぎにしたいと考えた。

植松 戦国的な跡取りとして考えれば、国松の方が世継ぎとして相応しいですね。

小和田 ところが家康は「世継ぎは年長順にする」と宣言し、竹千代を指名した。

植松 お福が駿府城の家康のところまで「竹千代様をお世継ぎに」と直訴しに行ったというエピソードが有名です。

小和田 時代が落ち着いて世の中が安定したときに家督争いの内紛が起きれば、幕府の崩壊につながる。それを警戒して年長順と決めてしまおうと考えていたときに、お福からの直訴もあり、江戸城に乗り込み世継ぎの指名を行ったのではないかと。最近の研究では、竹千代が冷遇されているので、家康が自分で引き取り養子にしようと考えていたらしい、という資料も見つかっています。

植松 小和田先生も春日局の本を書かれていますが、先生の中でお福という女性はどういう存在ですか?

小和田 自分が育てた竹千代を世継ぎにと、一生懸命に行動したすごい女性ですよね。斎藤利三の娘という彼女自身の血も興味深い。

植松 利三は明智光秀の重臣で、夫が小早川秀秋の重臣。父も夫も裏切り者の家臣という運命を背負っている。お江も苦労人ですが、お福も自分の力で這い上がってきたバイタリティを感じます。乳母になるために離婚して、幼い我が子を置いて家を出たわけですから。

小和田 竹千代の乳母は公募されていたという話がありますが、私はやはり、家康がお福の父なり夫のことを知っていて、そういう女性ならと肝いりで選んだと思っています。

植松 家康自身の幼名を与えた男の子の乳母ですからね。乳母の影響は、本当に大きいですし。

小和田 ただお乳をあげる存在ではなくて、乳母によって人格が形成されますからね。通説では、お江とお福は仲が悪かったと言われていますが、ぶつかる要素はあっても、そんなに仲が悪かったとは思わない。

植松 二人とも似たような人ですよね。意志がはっきりして、行動的で。

小和田 お福の二人の息子は、兄が竹千代の、弟が国松の小姓となる。植松さんの本を読むまで、弟が国松についていたということに気付いていませんでした。お福は竹千代、国松両方に賭けていたのかもしれません。そう考えると、したたかな女性かも。

植松 後に家光と国松あらため忠長の確執に、自分の息子たちが巻き込まれたことをどう思っていたのか、興味深いですね。

戦国・江戸の端境を表す駿府への旅≠ニ大奥

植松 『お江の方と春日局』では、お福が家康に直訴したとき、彼女自身が駿府城まで行ったという通説に従って書いたのですが、どうなんでしょうか。

小和田 お伊勢参りを口実にして江戸城を抜け出し、駿府まで旅をしたというのは、あまりにも有名な話です。私も駿府まで行ったのではと思っています。

植松 当時の女性は輿や籠に乗ってまめに旅をしていますよね。お江も江戸と京都を行き来していますし。

小和田 そう、意外と外へ出ているんですよ。女性の旅行が難しくなったのは大坂の陣の後に箱根の関が出来て、入鉄砲と出女が厳しく制限されるようになってから。大名の奥方は江戸から出られなくなった。

植松 この頃に大奥の制度も出来上がりましたね。

小和田 戦国時代の「長宗我部元親百箇条」でもすでに表≠ニ奥≠ニいう空間の認識がある。要するに夫以外の男性と妻が性的な関係を持ち、夫以外との子どもが生まれることを極度に警戒し、男性禁制の場所を作った。大坂城にも「御奥」という場所があったそうです。それを徹底させたのが江戸城の大奥、制度化したのがお江とお福だったと言われています。

植松 茶々の産んだ鶴松、秀頼が秀吉の子ではない、という噂がずっと流れていました。お江には、自分の産んだ子には疑いを持たれない空間を作りたいという思いがあったかもしれない。それをお福が引き継いで制度化した。戦国を乗り越え、江戸の女性たちにようやく安定した生活が出来たということですね。

小和田 私は天正18年(1590年)の秀吉の小田原攻めで日本全国の戦国大名が一人もいなくなり、本当の意味での戦国時代は終わったと思っている。そこから関ヶ原の戦い、大坂の陣までの間は、戦国の終息期と捉えています。お江はその端境期を生きるわけです。

植松 戦国時代の姫と、江戸時代の奥方という、まったく異なった時代の狭間にいたわけですが、劇的な変化があったわけではない。時代の変遷に合った人生を送っていますね。

小和田 戦国大名家の姫で、これだけ歴史に名前を残している人はいない。やはり信長の姪に生まれたというのがすごかった。お江はよく嫉妬深い人物として描かれますが、三度の結婚、二度の離婚という修羅場を潜り抜けて、女性として強くなっただけなのではと思います。

植松 お江が何度も結婚したことが、悪いイメージに繋がったんだと思うんですよ。戦国・江戸期は女性が何度も結婚することは間々あること。けれど、明治時代に入ってからは「貞女は二夫にまみえず」なんて言葉が美徳とされた時代があった。その価値観からしたら、三度も結婚したお江は、あまりいい解釈をされなかったのではないでしょうか。

小和田 確かに明治は家父長制が厳しくて、女の人は一歩下がって後ろを歩くと言うね。むしろ戦国の女性たちというのは、夫が社長であれば妻は副社長で、共同経営のような側面があった。当時は女の人の役割が大きかったんですよ。

植松 江戸時代の大名家のお墓を見ると、お殿様と正室は同じ大きさのお墓が並んでいます。明治時代の高官のお墓を見ると、その人ひとりの墓がど〜んとあって、先祖代々のお墓に奥様が入っているという形がほとんどです。

小和田 それは象徴的です。一昨年の大河ドラマ「天地人」の直江兼続とお船、「功名が辻」の山内一豊と千代のお墓も同じ大きさですよ。女の人を大事にしていたと、お墓でわかります。

植松 お江のような女性の生き方を「かっこいい」と言える時代になったと感じます。現代の感覚で言うと三度結婚することもありますし、離婚、再婚を経て幸せになる人も大勢います。お江の人生を受け入れられる土壌が、現代だからこそあるんですね。

(一月十七日、東京都渋谷区にて収録)

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