編集者に押し切られた『紅梅』の依頼
松田 『文學界』の新聞広告を見て『紅梅』を書かれたことを知り、いろんな意味で驚きました。年齢の事を言うと失礼ですが、八十を過ぎて書き下ろしで長編小説を発表された。それも一挙掲載ですよ。
津村 書く気なんて全然無かったんですよ。吉村が亡くなった後は、死の直前まで書いて推敲をしていた作品や、金庫に未発表の原稿もあって、編集者が本にしたいとおっしゃる。そのゲラが出て来ると私が確認しなければいけない。女房が作家ですからね。「彼はきっとここを気にするだろうな」と思いながら推敲をしました。
松田 私もエッセイ集『回り灯籠』と句集『炎天』をまとめさせてもらいました。
津村 『炎天』はメンバーだけの私家版をいい本にしていただいて有難うございました。私も句会のことを書き添えたりして。そういう吉村関係の仕事が次々とあって三年経った頃、二人でお世話になった講談社の編集の方たちが五人でここに来られて「吉村さんのお仕事はもういいでしょう。ご自分の仕事をして下さい」って。それでこの度川端康成文学賞を頂いた「異郷」を始めとした短編を書いて『遍路みち』にまとめました。
松田 その頃書かれた小説は全て吉村さんの死に関わるものでしたね。
津村 それまで『群像』に書いたものがあったので、吉村の死後のことを三篇。やはりそれ以外は書けなかったですね。
松田 『遍路みち』で、ある程度区切りがついたと思ったのですが、なぜこの時期に『紅梅』をお書きになったのでしょうか。
津村 本当は、物を書くのはもうおしまいにして、人と関わりなく暮らしていけたらいいなと思っていた。そうしたら「異郷」の編集者が「肝心な事をお書きになってない」って言うんですよ。吉村の発病から、亡くなるまでの事を書いて欲しいと。だから「それは書けません。絶対書きません」って。
松田 それまでの作品は吉村さんが亡くなられた後の話だった。吉村さんの死そのものを書くには、追体験しなければならない。
津村 辛い事をまた初めから全部思い出さなければならないわけでしょう。「全く書く気はありません」とお断りしたんです。ところがある日の午後、その方が家まで来て、今松田さんがお座りになっている所に座って、そのまま三時になっても四時になっても動かないんですよ。お茶出したり、コーヒー出したりしてたんですけれど、とうとう夕飯の時間になっちゃったんです。
松田 迷惑な話ですね(笑)。
津村 行きつけの飲み屋にでもお連れして飲まなくちゃならないかと(笑)。でも「うん」と言うまでこの方は帰らないな…と。困っちゃって「ちょっと考えてみます」って、とにかくお帰り願ったの。こちらは一時逃れのつもりで言ったのに、後日電話が来て「掲載号を決めました。何日が締切です」と言う。弱った事になったなと。
松田 自伝的小説『瑠璃色の石』に、作家の習性としてどんなに辛くても、依頼され締切が来ると書かなきゃいけないという業がある、とお書きになってます。
津村 悲しい性ですね。作家って、編集者に一旦言った事は守らないわけにはいかないんですよ。
松田 若い作家の方たちに聞かせたいな(笑)
”大それたことをした”と驚いた表紙
松田 二百四十枚という長編を、どのようにお書きになっていったんですか。
津村 一度には書けないから三つに区切って、第一期は発病の前から、第二期は舌癌の治療が主になっていて、第三期は膵臓癌から最期まで。
松田 冒頭に井の頭公園の弁財天が出て来ますね。吉村さんがお亡くなりになる前の正月、私もそこへ初詣に行ってお二人をお見掛けしました。その時に、もしかして癌ではないかなと思っていたんですが──。
津村 本人はひた隠しに隠していて、最初は息子や娘にも言うなって。そんな事出来るわけないでしょう。
松田 随分先に予定されていた筑摩書房関連の講演を肺炎という理由でキャンセルなさったと聞いて、吉村さんらしくないなという気がしたんです。エッセイ集についても、少し枚数が足りないので連載を延ばすお約束だったのですが、ある時「書く事が無くなったから、他のところに書いたものを足して本にすればいい」と。弱気な事を仰るのは珍しいなと思っていた。
津村 吉村の場合、既に引き受けたものを断るのはあり得ない事。ものすごく几帳面な人ですからね。でもお断りしなければならない状況になっても、親しい人にさえ本当の理由を絶対言わなかった。たった一人の兄にも。
松田 病気は自分が立ち向かうものであって、他人の力を借りるものではないという、覚悟のようなものが感じられますね。それにしてもあれだけ病気に神経質に構えていたのに、皮肉にも舌癌が発覚した。
津村 彼は裏切られたと思うんですよ。若い頃に大病をしたし、弟を肺癌で亡くしていますから、毎年誕生日前後に詳しく検査をしていたのに。舌癌の検査なんてします? 背後からいきなり抜き打ちに遭ったように感じたんじゃないでしょうか。
松田 舌癌のじわじわと迫ってくる治療は、読んでいて辛かった。吉村さんも相当参っていたのではないかなという気がします。
津村 舌癌は手術すると舌の形態と機能が損なわれるんです。あの人は取材をして人と話をしなければ小説を書けないから、手術をしたら作家生命が終わり。ですから放射線を出す針を病巣に入れる治療方法にしたんですが、つらかったですね。病院のことを書く部分は、薬や治療方法を医学的に間違って書いたら大変だと思って、医学大百科を読んだり、診ていただいたお医者様にゲラを読んでいただいたり。
松田 舌癌の治療中に膵臓癌が見つかる。膵臓癌というのは、普通に暮らしていても痛くも痒くもないから気づかないわけですね。
津村 通っていた病院にたまたまPETという新しい検査機器が入ったので調べてもらったら、膵臓の真ん中が蛍みたいに光ってたんですよ。それで癌があるって分かった。
松田 途中で印象的だったのが、手術をする時にタイツを履いたシーン。
津村 バレリーナみたいにふざけているところね。
松田 お酒飲んだときに、こういうひょうきんな一面を拝見したことがあります。たしかに、癇性で怒りっぽい所もあったけれども、愛嬌のあるサービス精神もある方だった。
津村 治療のシーンだけでは、読者の方も息が詰まっちゃいますから。
松田 吉村さんの最期は、その場に立ち会っている感じがひしひしと伝わっ
て来ました。それまでは堪えていたけれど、あの場面では涙が出て来ました。吉村さんらしい最期だと思ったし、津村さんが最後に吉村さんに叫んだ一言も──。
津村 バカな事を言っているでしょう。
松田 いや、いいなあと思いましたね。
津村 そうでしょうか。普通は「私も後を追ってすぐ逝くわ」なんて、そういうことを言うのでしょうけど、吉村は「なんていう女房だろう」と思ったんじゃないかしら。
松田 あの言葉を言ってもらって、幸せだったんじゃないかな。書き上げた時はどんなお気持ちでしたか
津村 締切ギリギリになってしまい、夜中の十二時に会社で待機していた担当者に、推敲した最後の一枚をファックスで送ったんです。「全部頂きました」って返事が来て、もうじたばたしてもしょうがない、活字になってしまうから腹を括るしかないと思った。でも掲載誌が届いた時、白地の表紙に大きく津村節子 紅梅≠ニ書いてあるのを見てぎょっとしました。こんな大それた事をしちゃっていいのかしら、と思ってとても心配になったんです
松田 とても完成度の高い、力強くて優しい小説だと思います。周辺の事や感情など書く事は沢山出て来たかと思いますが、それらを削ぎ落としていて、無駄な表現が無い。本当に大事な所だけを書いている。自分らしい死を迎えた吉村さんと家族の素晴らしい物語です。
津村 松田さんにそう言って頂けるととても嬉しい。
作家との交流
松田 吉村さんは医学の知識も豊富で、自分が癌になっているのに、他人の癌の治療の心配もしてあげているわけですよね。
津村 以前から仲の良かった大河内昭爾さんから、ご自分の癌の手術をする病院はどこがいいかと相談を受けていました。大河内さんは「明日入院することになった」と吉村の入院前日に報告にいらしたんですが、その時も吉村は自分の癌や入院の事を一言も言わなかった。大河内さんは「何で言わなかった、水臭い」って今でもこぼすんですよ。
松田 大河内さんとは丹羽文雄先生の『文学者』でご一緒されていたんですね。他に親しくしていた作家さんにも言っていなかったんですか。
津村 元々作家同士のお付き合いはあまり無かったんですが、誰にも言っていませんね。城山三郎さんとは雑誌の対談がきっかけで時々会って飲んでいて、奥様が亡くなられた時には「とても愛してらしたから、どんなに落ち込んでいるだろう」って大層心配をしていました。三浦朱門さんとも、お互い夫婦で物書きだから、お話が合うんですよ。物書く女ってどうしようもないって(笑)。私も三浦さんの奥様の曽野綾子さんや杉本苑子さんたちとは、女物書き同士でよく旅行をしました。
松田 吉村さんは、津村さんが旅行に行くことには何も言わなかったんですか。
津村 私が出かけるのはあまり嬉しくなかったようですが、国内は仕方ない。でも海外となると、女房の身に何かあったら大変だと脅えて、ものすごく機嫌が悪くなる。そうすると曽野さんが「ピンクヘルメットを被って昭をやっつけよう」なんて言うんです。
松田 懐かしのウーマン・リブですね(笑)。
津村 曽野さんの言葉を伝えたら、理解の無い夫だと反省したみたいで、黙りましたけれど。三浦さんはすごく寛容な亭主の鑑だと女流作家仲間で評判なの。それを言うと「三浦さんは三浦さん、俺は俺」なんて言うんですよ。
夫婦で歩んだ作家人生
松田 八木義徳さんが「夫婦で物書くっていうのは地獄だな」って仰ったとか。
津村 よく「食事やお酒飲みながら小説の話をするのか」と聞かれますけどね、子供や孫たちのことや、時の話題や、普通の夫婦の会話ですよ。でもこれが仕事になると違いまして、吉村の書斎を別棟で建てるまでは、隣同士の部屋で書いていたんです。二人とも、締切が切羽詰まって来て、相手が難渋していると心配だし、好調だとこっちは焦るし、隣で書いているお互いの緊張感が伝わって来て精神衛生上悪い。もっとも吉村は後年長篇など早く書き上げて金庫に蔵っていて、私は尚焦る。
松田 吉村さんの著作と言えば『三陸海岸大津波』が震災以降すごく売れている。過去の巨大な災害を、歴史的な資料をきちんと調べて、一般読者が分かるように書いた唯一の本なんですね。さすがだなと思います。
津村 今回の震災の津波を未曾有の大津波≠ニ言う方もいますけれど、明治以来今回で四度目で、大津波の記録があるんです。吉村はよく「すぐ海岸近くに家が出来てしまう」と嘆いていました。利便性を考えると、漁師の人が山の上から通って来るわけに行かないんでしょうけれどね。自分の夫の作品の事を言うのは恥ずかしいけれども、押し寄せて来る津波の描写は、単なる記録と違ってものすごく迫力があるんです。今注目していただいていますが、もっと前に警告として読んでいれば。
松田 太宰治賞を受賞した『星への旅』は、津波で大きな被害を受けた岩手県の田野畑村が舞台ですね。
津村 田野畑に「鵜ノ巣断崖」という眼が眩むような断崖があって、そこを舞台に書いたのが『星への旅』。昭和四十年に私が芥川賞を受賞した後、吉村は創作に専念しようと、勤めていた兄の会社から一年間限定で休暇をもらい、何を書こうかと悶々と考えていました。そんな時、友人の郷土自慢をきっかけに、吉村は田野畑へ気晴らしに旅行に行った。鵜ノ巣断崖に立ってイメージが沸き『星への旅』を書いた。田野畑に行かなければ太宰賞は貰えなかったんです。結局その一年の間に太宰賞を貰った『星への旅』と『戦艦武蔵』を書き、作家として書いていけるようになった。田野畑の断崖の上にただ一つだけ、あの人の文学碑があります。他の場所に作るのは拒否していましたけれど、田野畑の村長さんの頼みは断れませんでした。
松田 八十歳を過ぎて長編小説を書いていられるのは、ずっとご夫婦で書いて来られたからじゃないですか。お二人の出会いは大学の文芸部でしたね。
津村 そうですね。私は全国に何百も同人雑誌があるのに、身近にこんな作品を書く人がいたらやっていけないと自信喪失したくらい。
松田 結婚されてプロの作家になられてからは、お互いの作品をほとんど読まなかったと伺いましたが。
津村 私は『星への旅』と『戦艦武蔵』は読みました。『戦艦武蔵』は、吉村が「私は人間を書くのが小説だと思っています」と言って何度も断ったんです。結局書いたけれど、心配で心配で読まないわけにはいかなかった。吉村の方は「お前は私小説を書くから、俺が読むと思うと筆が鈍るだろう。絶対読まないから安心して書け」と言っていましたね。
松田 本当にどの作品も読んでなかったんでしょうかね。
津村 一作だけ『群像』六十周年記念号に書いた「木の下闇」は読んでいます。吉村にも依頼は来ていたのですが、もう体力も気力もなく、私の心配ばかりして「お前何を書くんだ」「もう書き出したか」「どこまでいったか」ってね。家に編集者が住み込んでいるような感じになっちゃった。
松田 最後まで原稿の心配をするあたりは、文芸部委員長と女子学生として出会った頃の関係が変わらずに続いていますね。
津村 あまり言うから「半分しか出来ていないけれど読んで」と渡したら、「うん」って読んで「そうだな、ここまではいいけど終わりが大事だぞ」と言ったんです。
松田 『紅梅』で吉村さんの死を追体験されて、辛い事もあったと思います。でもお書きになって良かったのではないかと思いますね。
津村 今になってみればね。書いている時、担当者には悪いけれども、よっぽど「もう私書けない」と言おうと思ったんです。だけど発表月号まで決まっているので、やっぱり書かないわけにはいかない。『紅梅』を書いて、気持ちの整理は出来たんです。作家というものは、因果な職業ですねえ。
(七月十二日、津村節子さんのご自宅にて収録)