【シリーズ対談】松田哲夫の著者の魅力にズームアップ!
『七夜物語』川上弘美著(朝日新聞出版)
「新刊ニュース 2012年7月号」より抜粋
川上弘美さんの新刊『七夜物語』は、朝日新聞に連載されていた著者初のファンタジー小説です。川上さんが「書く筋肉がついた今だから書けた物語」と語る長編小説の魅力を探ります。また、川上さん、松田哲夫さんが、それぞれ編集を手掛けているアンソロジーのお話もうかがいます。
作家 川上弘美 |
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編集者 松田哲夫 |
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一番書きたかった物語
松田 『七夜物語』は上下巻で1000ページ近くというファンタジーの大作です。読み応えがあって、とても楽しませていただきました。朝日新聞の連載小説でしたね。
川上 はい、2009年9月から始まって2011年5月に連載を終え、更に一年間手直しをしていたので、三年がかりで出た本です。
松田 川上さんの小説としても一番長い作品になりました。ファンタジー小説を書こうと思ったきっかけはあったのでしょうか。
川上 最初に小説を書こうと思った大学生時代から、一番書きたかった物語です。大人も子どもも読んでくれるファンタジー小説を書きたいとずっと思い続けてきて、ようやく書けました。
松田 デビュー作の「神様」もくま≠ニ散歩に行くというファンタジックな設定でしたね。新聞の連載小説は『光ってみえるもの、あれは』以来ですが、いかがでしたか?
川上 難しかったです。どうしても一回ごとに盛り上げなきゃいけないと思ってしまい、読み返すと全体の流れが悪くなって、単行本にするときに大分直しました。書き直しはつらく大変な作業でしたが、ずっと書きたかったものを今まさに書いているという実感があり、楽しくて嬉しい作業でもありました。
松田 連載時から酒井駒子さんが挿絵を担当されていましたね。
川上 私は石井桃子さんの『ノンちゃん雲に乗る』が大好きで、あの本のような雰囲気の挿絵をいつも描いてらっしゃる酒井さんにぜひと、断られるのを覚悟でお願いしたら、受けてくださって本当に嬉しかったです。連載中は酒井さんの挿絵から、その後のお話が影響された部分もありました。
松田 単行本の表紙や扉絵も酒井さんの絵なんですね。新聞連載のときの挿絵も入っているんですか?
川上 全てではないですが、ページの下部にたくさん挿絵が入っています。単行本化の時には、私と酒井さん、装丁を担当してくださった祖父江慎さん、担当編集者と四人で集まって、二十世紀の初め頃にイタリアで出版された『ピノキオ』を見て相談しながら装丁を決めました。酒井さんは単行本化にあたって挿絵の手直しをしてくださり、祖父江さんは字の組みまで凝ってくださり──本当に素晴しい本になりました。
松田 昔の児童文学の名作集のような風格のある本です。こういう本になるのは、嬉しいでしょうね。
川上 挿絵がこんなに多いのは初めてですし、ルビをこれだけふったのも初めてです。出来上がってほんとうに嬉しいですね。
「夜の世界」の冒険
松田 さて『七夜物語』のお話は、小学校四年生の女の子さよと、クラスメイトの仄田くんが、図書館で見つけた「七夜物語」という本に導かれ、七つの「夜の世界」を冒険する物語です。ときは1977年、携帯電話もなく、昭和の匂いの濃い時代ですね。この年にしたのは何か理由があるんですか?
川上 冷戦中の世界に生まれ育った子ということを意識しました。今、世界でいろんなことが起こっていますが、ちょうど冷戦はそういう物事の芽が出てきた時代です。さよと仄田くんは現在40代になっていて、2、30代で結婚していたら、彼らの子どもが物語の中のさよと一緒くらいではないかと、そんなことも考えながら書きました。
松田 あらすじは決めていたんですか?
川上 最初に大きな構造を決めてから書き始めましたが、具体的に起こる出来事はこまかく決めずに、物語自体に進めていってもらうような感じでした。
松田 仄田くんが面白いキャラクターですね。
川上 私、仄田くんが大好きなんです! 彼を書いている時が一番楽しかったですね。主人公には出てこない、どちらかというと脇役のタイプ(笑)。
松田 『十五少年漂流記』みたいなお話だと、参謀役のタイプですね。さよも仄田くんも、現実の世界ではいろいろと問題を抱えている。
川上 ファンタジーですが、現実世界の問題もあえて書きました。さよは母子家庭、仄田くんは父子家庭でおばあちゃんに育てられています。友達がいなかったり、いじめがあったりと学校生活もスムーズではない。現実からまったく離れた場所での冒険ではなくて、現実世界と「夜の世界」を行き来しつつ成長していく姿を書きたいなと思いました。
松田 冒頭のさよの母の言葉「唾棄ってね、つばをはくくらいきらい、という意味よ」なんて、川上節で嬉しくなります(笑)。ただ、ファンタジー小説であるためなのか、特に「夜の世界」のシーンでは、今までの川上さんにはあまりない、いい意味でストレートな表現で書いていますね。
川上 ファンタジー小説は子どもも読むお話ということを意識して、言葉も場面も明瞭にと考えながら書きました。子どもたちだけの会話には大人の語彙は使えないので、真っすぐに書いた気がしています。
松田 二人が迷い込む「夜の世界」では不思議なことが次々に起こり、料理が得意な大ネズミのグリクレルをはじめ、魅力的なキャラクターが登場します。五つめの夜の世界でモノたちに命が宿るシーンは、江戸時代の「画図百鬼夜行」のようで楽しいですね。命が宿った仄田くんのちびエンピツ≠ェ可愛いです。
川上 ありがとうございます。水木しげるさんが描くアニミズムの世界が、私にも根本としてあると書きながら思いました。ちびエンピツ≠ヘ物語に導かれて突然出てきてくれたキャラクターなんです。あんなに重要な役割をするなんて、思ってもみませんでした。
松田 あと、いつも川上さんの小説で楽しみにしているのが、食べ物と食事のシーン(笑)。離婚や三角関係のお話でも、食べ物のシーンはほのぼのと楽しくなりました。今回もずいぶんたくさん美味しそうなものが出てきますね。
川上 松田さんはどの食べ物がお気に入りでしたか?
松田 そうですね、給食のカレーシチューや、野菜のあんかけ……。それから、仄田くんが友達の野村くんの家で頂くカステラとぶどうそのものの味がする≠ヤどうジュース。70年代だと100%果汁のジュースが出始めた頃で、初めて飲むと驚きましたね。
川上 野村くんはお医者さんの息子だから、頂きものでいいお菓子やジュースがあったんでしょうね(笑)。
松田 給食や質素な食卓の話でも、美味しそうなんですよね。食べ物のシーンというのは、自然と書いてしまうものなんですか?
川上 食べ物は児童文学におけるエロスであって、必ず食べるシーンが必要だと思っているんです。もともと小説を書き始めた頃からそう思っていたので、普通の小説にもどんどん食べ物の場面を書いてきました。セックスの場面より食べ物の場面の方が好きだなって思いながら(笑)。
松田 性欲より食欲なんですね(笑)。
川上 性的なものだけではなく、自然のものはみんなエロティックなのかなと思うんです。人間ももちろん自然の一部ですし、食べること自体が生きていくことにつながるんだと思います。昔の児童文学には必ずと言っていいほど食事の場面や、外国の知らないお菓子がたくさん出てきて「どんなものだろう?」と想像していました。六番目の「夜の世界」でさよたちがさくらんぼのクラフティー≠焼く場面は、そんな思い出から書いたシーンです。
松田 さよが図書室で読んでいるのは「洋服だんすを抜けて…」が『ナルニア国物語』、「動物の言葉を話せるドクター…」は『ドリトル先生』、懐かしい児童文学の本ですね。
川上 「空をとぶことをおぼえ、海賊と戦う…」は『ピーター・パン』です。私自身が昔からずっとファンタジー小説を読んでいるので、私と同じように、児童文学が好きで今も読んでいる大人の方にも読んでいただければ幸せだなと思っています。
アンソロジーの面白さ
松田 子ども向けの本でも、意外に大人が読むケースも多いですからね。私の経験でも『中学生までに読んでおきたい日本文学』というアンソロジーのシリーズを出したら、大人の読者にも好評でした。そこで続編として『中学生までに読んでおきたい哲学』シリーズを出しました。
川上
私も今、小池真理子さんと一緒に『精選女性随筆集』という近現代の女性作家の随筆アンソロジーを編集しているんですけれど、面白いですね。この作家がこんなことも書いているんだと発見があったり、まったく違う文章を組み合わせると、光と影ができるようであったり…。
松田 「哲学」シリーズの『死をみつめて』に、癌と戦った宗教学者の岸本英夫さんが、自分の死をまっすぐに見つめた「わが生死観」を載せました。次の作品に何を置こうか考え、宇宙の死を視野に入れて書いている埴谷雄高さんの「死について」を載せました。二編を続けて読むと、岸本さんが意図した死生観が表現できることに気づき、面白かったですね。『死をみつめて』の最後には落語「粗忽長屋」を置きました。
川上 哲学と言ってもいろんな文章があるんですね。落語でおしまいって斬新ですし、アンソロジーの面白さがよく生かされている!
松田 川上さんのアンソロジーの第一巻は幸田文さん。「あとみよそわか」が強烈だったので、怖い女性という感じがありましたが、イメージと違いますね。
川上 最後の「「なやんでいます」の答え」なんて相当優しい…優しいけれど、やっぱり怖い(笑)。お茶目な可愛さもありますね。
松田 第三巻の有吉佐和子さんと岡本かの子さんの組み合わせも面白いですね。
川上 有吉さんが最初に読書に開眼したのは、岡本さんの文章を読んだことがきっかけだったそうなんです。実はお二人につながりがあるなんて知らずに選んだのですが…。
松田 今後、高峰秀子さんの巻も予定されているそうですね。高峰さんのエッセイは「哲学」シリーズの『はじける知恵』の最初に載せました。「文章修業」というものですが、高峰さんの最初のエッセイ集『わたしの渡世日記』を出したとき、子役の仕事が忙しすぎて小学校も出ていない彼女が書けるはずはないと批判されたという…。
川上 そんなわけないですよね! あの文章は高峰さんにしか書けないものです。本がとても好きな方で、学校も本当はとても行きたかったとか。今回あらためて作品を読んで尊敬しました。
松田 「文章は人間そのものだ」と謙遜しているんですけれど、普通の人には書けない文章ですよね。
永遠に続く物語を書きたい
松田 さて『七夜物語』のお話に戻ります。「夜の世界」を冒険するさよと仄田くんは様々な壁にぶつかります。特に自分の存在が揺らいでいくという怖さが出てきますね。
川上 一つ一つの夜の中でめぐりあう冒険によって、自分の中にあった思いがけない性質を発見したり、自分に疑いをもったりする。
松田 モノたちに生命を吹き込む七人のウバたちも、敵なのか味方なのか、結局わからないですね。また、一般的には光が正義≠ナ闇が悪≠ナあり、闇を倒して光を招くというのがわかりやすいファンタジーです。でも『七夜物語』は違う。七つめの夜の冒険では、二元論では片付けられない考え方で闘うことになります。難しく、深いですね。
川上 『ナルニア国物語』のようなキリスト教的でスカッとした分かりやすい物語も大好きなんです。でも『指輪物語』も好きですし、先ほどお話ししたアニミズムの影響もあってこういう物語になったのだと思います。
松田 ファンタジー小説を書く場合、物語の舞台となる世界のことを全て知っている神≠フような視点で書く場合が多いと思いますが、『七夜物語』は、書き手である川上さん自身も現実世界と「夜の世界」の関係がどうなっているのか、手探りで書いているという雰囲気がありました。
川上 そういう物語が書きたかったんです。枝分かれして多元的で、どんな可能性もあるけれども、たまたまそのうちの一つの世界を主人公達が生きている。その世界も確固たるものではなく、寄る辺ないものだけど、主人公達はがんばってそれに向かっていくという冒険を書きたかったんです。
松田 人の数だけ「七夜物語」があって、今回の『七夜物語』はその中の一つなんですね。実際、さよと仄田くんの前にも「夜の世界」を冒険した人たちがいたことが書かれていますからね。書き上げた今、満足していますか?
川上 本当はもっともっと長い、永遠に続くような物語を書きたいんです。ファンタジーは長さが命だと思っているので(笑)。第七章の最後に向かう部分を書いているときに東日本大震災があり、こんな呑気なものを書いている場合かと考えていた時期がありました。震災から七日目に、家族を亡くした読者の方から手紙をいただいたんです。「テレビも、新聞も悲しすぎて見られない。でもずっと読んできた川上さんの連載小説だけは読んでいます」と。言葉や物語の力に、書いてもいいと許されたように感じました。
松田 「日常」を象徴する新聞連載で物語が続いていることが、支えになるというのはよく分かるような気がします。ぜひもっと「夜の世界」のことを読んでみたいですね。続編をお待ちしています。
(四月十八日、東京都武蔵野市「茶の愉 吉祥寺店」にて収録)