【シリーズ対談】松田哲夫の著者の魅力にズームアップ!
『ことり』小川洋子著(朝日新聞出版)
「新刊ニュース 2013年3月号」より抜粋
小川洋子さんの12年ぶりの書き下ろし長編小説『ことり』は、親や他人とは会話ができないけれど小鳥のさえずりはよく理解する兄と、その兄の“言葉”を世界でただ一人理解できる弟の、静かで温かな生活を描いた物語です。世の片隅で、小鳥たちの声だけに耳を傾ける密やかで慎み深い兄弟二人の生活──。小川洋子さんの思いをうかがいます。
作家 小川洋子 |
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編集者 松田哲夫 |
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「物言わぬ生き物」の小説の集大成
松田 約2年前の2011年3月11日、この『新刊ニュース』で小川さんに『人質の朗読会』についてインタビューさせていただくことになっていました。僕が取材場所に向かうため、仕事場から出ようとした時に地震が……。
小川 そうでしたよね。松田さんをお待ちしていた出版社の向い側に立っている古いビルがぐらぐらと揺れて、中で人影が右往左往しているのが見えたり、野良猫が足元がもつれんばかりに路地を走りぬけたりして……。
松田 あの日は小川さんに久しぶりに会えるので楽しみにしていたんですが……、今日お会いできて本当によかったです。今回の『ことり』は12年ぶりの書き下ろし、『沈黙博物館』以来ですね。時間をかけた小説という印象を受けましたが、執筆には何年くらいかかっているんですか?
小川 書いている時間は1年くらいですが、今回自分が出会った素材、小説のテーマが「小鳥」だと気付いたのはその2〜3年前でしょうか。最初は「動物」をテーマに書こうと動物園めぐりをしていたのですけれど、そこにどこからともなく「小鳥」が飛んできました。
松田 『ブラフマンの埋葬』ではブラフマン=A『原稿零枚日記』ではチョウチンアンコウなど、小川さんの小説にはよく生き物が登場しますね。
小川 『猫を抱いて象と泳ぐ』は象、『ミーナの行進』ではコビトカバ、『人質の朗読会』はアリ……。
松田 今まではハダカデバネズミとかコビトカバとか、少し変った動物も多い印象でしたが、「小鳥」はどこにでもいる当たり前の生き物ですね。
小川 いつも「物言わぬ生き物」に助けられて小説を書いてきて、その集大成が最も身近な「小鳥」ということになるのかもしれません。ごく自然にすぐそばで鳴いている「小鳥」と、自分が小説を書く上でこだわってきた「言葉」が、こんな近しい関係にあると気づかされたことが、この小説を書くスタートだったのかもしれません。
松田 鳥の鳴き声にはあるルールがあり、生まれたときからその曲がインプットされているというのは、『博士の愛した数式』の数式や『猫を〜』のチェスなど、自然の中に埋め込まれている普遍の原理につながって見えますね。私が編んだアンソロジー「中学生までに読んでおきたい哲学」の『自然のちから』に掲載した湯川秀樹さんのエッセイ「自然と人間」の中で直線的なものは人工のもので、自然のものは全部曲線である。ところが自然の曲線の中には、直線がある。それが数式や定理だ≠ニ書いている。その文章を読んだ時に、小川さんの作品をイメージしました。
小川 科学者独特のスケールの大きさですね。人間は効率のよい直線で表してしまうけれど、自然は「自分には直線なんて作れません」というフリをしているだけ。動植物は人間より賢いことをやっています。『ことり』の「お兄さん」は、そういう見方で鳥小屋を眺めていたのかもしれません。
松田 お兄さんは自分で編み出した言語「ポーポー語」で喋り、小鳥のさえずりを理解する。お兄さんが話す言葉は、弟である「小鳥の小父さん」以外には分からない。お兄さんは、普通の人が聞き流してしまう小鳥のさえずりの中に、凡人が聞き取れない法則を聞き取っていたのかもしれません。人間だとそういう法則を数式など、ある種の記号に置き換えないと見えないんだけれど、それをお兄さんはちゃんと理解している。だから、弟は兄を偉大だと思い、尊敬している。『ことり』の書評をいくつか読みましたが、よく「孤独」という言葉で表現されています。小川さんの小説の登場人物というのは、孤独な人が多い。小川さんも以前にエッセイで、女性の友達がほとんどいなかったと書いていらっしゃいました。
小川
私が芥川賞をいただいた時に、小中高大学時代の同級生の間で「小川洋子なんていたか?」って、ほとんど誰も私のことを知らなかった(笑)。私は人とつながる方向ではなくて、自分と会話する方向にエネルギーを使った方が幸せ、という人間だと思うんです。今は人とつながる手段や道具がいっぱいあり、友達はたくさんいた方がいいし、ツイッターにたくさんの人がフォローしてくれる人ほど充実した人生だという風潮ですが、私はそれとは正反対に、『ことり』の中で言えば、たった一人で幼稚園のフェンスの側にたたずんで鳥の声を聞いている「お兄さん」の人生こそ小説にしたい。世の中の中心に出て行けない、隅っこの方にいる人の声を聞くために小説を書いているんだと思います。
松田 でも、小川さんには一人だけお友達がいたと書いていましたね。小説にも、孤独な登場人物と外の世界ないしは他人とをつなぐ「通訳」のような人物が出てくる。『博士〜』で言えば家政婦の親子の存在、この小説で言えば「小鳥の小父さん」がそういう役割をする。
小川 本当の友人って、一人いれば良いと思うんです。私は小説を書く時はいつも、一番書きたい人の視点では書けないんです。側にいて、見守って、見届ける人の立場でしか書けない。
松田 だから今回もお兄さんの立場では書けなくて、小鳥の小父さんが主人公となっているわけですね。
小川 ええ、ただ今回いつもと少し違うのは、書きたかった人物であるお兄さんが死んだ後も、見届ける立場であった小父さんの人生を、ある意味「伝記」を書くように書いたことでしょうか。
松田 お兄さんは外部や社会とは関係なく、自分の決めた空間の中だけで生きて死んでいく。弟はお兄さんが亡くなった後も、引きこもりっぽい部分はあるけれども、とりあえず仕事をもって働いて日常生活を送り、他人ともコミュニケーションをとりながら年をとっていく。小父さんと図書館司書の女性との関係も面白いですね。
小川 司書の「返却は二週間後です」なんて事務的な言葉に心を惹かれたり……。二人の会話は、言葉の意味をやりとりしているわけではなくて、言葉が小鳥の時代に生まれた時に持っていた何かをやりとりしているよう。小父さんが小鳥と接するのと、司書と接するのはどこか共通していたんでしょうね。
松田 小父さんが読む本を探り当てる彼女の嗅覚から感じるのですが、心が通い合うということとは違うレベル、もっと本質的な、生の根っこの部分で共鳴し合うような何かが、二人の関係にはある気がするんです。ものすごくピュアな恋愛ですよね。小川さんの『夜明けの縁をさ迷う人々』の中に「涙売り」という体を楽器にする人の話がありましたが、かなり凄惨な恋愛物語でした。今回のような初々しいピュアな恋愛を描いているというのは珍しいのではないですか。
小川 恋愛はウィークポイントです(笑)。肉体そのものに没頭していくとか、あるいはこの二人のようにあまりにも純化された関係にいくか、自分なりに作戦を立てないと男女の恋愛が書けないというのは、自分でもわかっています。
松田 そんな純粋な関係とは逆に、小父さんは外部との接触のうちに、邪悪というか、現世利益的なものにも接触してしまう。鈴虫を鳴かせる怪しげな老人に引き寄せられたり、子どもにいたずらをする変質者だと疑われてしまう。
小川 人の一生を書いたがために、いいとこ取りはできませんでした。『博士〜』の場合は博士の一生ではなくて、家政婦さんと出会ってからのきらめいた瞬間だけを書いた。『ことり』の場合は小父さんの一生ですから、否応無く接していかなくてはならない様々な物事との関係も含めて書かなくてはいけない。書いている間は、こんなに鳥小屋の掃除ばかりしている小説はうんざりという感じだったのですが、書き終わって振り返ると、いくら閉じこもった人生であっても、一人の人間が生きて死ぬ時間の中にはいろいろなことがあるんだなという印象ですね。
松田 リアルな現実そのものが書いてあるわけではないけれども、現実社会が外側にあるということを非常に強く意識させる、小川さんの作品としては珍しい作品ですね。
小川 そう言っていただけるととても嬉しいです。
曲線の世界を読み取る
松田
さっきの「孤独」のお話ですが、今は若い人を中心に引きこもっている、ないしはインターネットの中だけで生きているような人が増えていますよね。現実の世界に友達もいないし、当然恋愛もしないし、とにかく必要最低限のこと以外は外に出かけない。『ことり』のお兄さんと弟も世間から見れば引きこもりに近い存在だと思いますが、現代のインターネットの世界に引きこもっている人間とは引きこもり方が違うような気がしますね。
小川 明らかに違いますよね。この兄弟は旅にも行けない。でも鳥小屋の前でひと時過ごすと、それこそ湯川秀樹が発見したような宇宙の摂理とつながって、宇宙までの旅をそこですることができる。
松田 人間社会で人と付き合うのは、難しいことですよね。直線で表されるインターネットで、面倒な部分を全部回避してしまえば楽は楽ですよね。
小川 そうですね、元々は人も自然の一部で、曲線の存在ですから。付き合う過程で当然嫌な思いもするし、恥もかくし、傷つく。
松田 そして、ネットの世界に比べると、小説や物語は、どんなに閉ざされたものでも「開かれている」という気がするんですが。
小川 物語を読むというのは、日本語でその言葉の意味を受け取っていると同時に、言葉に表しきれないものを感じとっている作業だと思います。意味だけを読む、例えば裁判の判決文を読むのと違うところは、その言葉で表現しきれていないもの、目に見えない曲線の世界を読み取っているということです。
松田 以前に『物語の役割』という本を小川さんと作らせていただきました。あの本の中で印象に残っているのが、小川さんが小説を書くときにはまず映像が頭の中に浮かんで、それが小説になるというサインであり、言葉は常に後から遅れてくるという……。『ことり』もそのようにして書かれたんですか?
小川 書き始める前に幼稚園の鳥小屋の風景とか、兄弟が暮らしている家の間取りとか、お兄さんが作るブローチの造形とかが鮮やかに頭の中にあって、それを言葉で追いかけていくと自然にストーリーになっていきました。映像に言葉の方が追いつかないんですよね。
松田 小川さんの小説を読むと、その場面の「画(え)」が残るんですよね。『最果てアーケード』は、お店にある商品まで鮮明に覚えています。
小川 読者の中に物語が入っていった時、言葉の意味を言葉として受け取るのではなく、映像にしていただけると、文字で書かれていないことまで伝えられるのではないかと思います。
松田 最近のお仕事を見ていると、漫画家の方をはじめ、ビジュアルな力を持っている人と組む仕事が多いですよね。作家によっては、装画を頼む人が決まっていて自分のイメージを固定したい人や、逆に自分の作品をビジュアル化することを嫌がる人も多いのですが、小川さんはビジュアルの世界の人と積極的に仕事をしています。
小川 私の小説を映画監督さん、漫画家さん、画家さんに目に見える形にしていただくと「私は書いているときにこんな映像を思い浮かべていたけれど、あの人がビジュアル化するとこうなるのか」と思うんです。イメージが違っていたとしても、嫌なことではなく、新たな発見があるんです。『薬指の標本』は日本語が話せないフランス人の監督に映画化していただきましたが、あの映像を見てこの小説を書いたと言ってもいいぐらい「私の書いたものがここにある!」という感じでしたね。
松田 それはやはり、小川さんの物語の力が強いのだと思います。翻訳、映画化という二重の変化に遭っても崩れない、核の部分がしっかり残っていました。
小川 私は小説を書いているだけですけれど、違う世界の人と触れ合うことができて本当に有難いですよね。
松田 次の小説はいつ頃ですか?
小川 『新潮』の短編連載が終わりまして、次を考えている最中です。考えている……? いや、待っている最中ですかね(笑)。何かが飛び込んでくるのを。
松田 『ことり』の前が連作長編が多かったので、時々こういう書き下ろしがあると読者は新鮮ですよね。
小川 書く方としても、いろいろなやり方で書いた方がいいと思っています。自分はこういうやり方でしか書けないと決めつけず、その時その時の状況で書いていきたい。『ことり』は書き下ろしでしか書けなかったと思いますし。その小説自体が持っている「運命」というのがあると思います。
(一月十七日、東京都中央区・朝日新聞社にて収録)