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【シリーズ対談】松田哲夫の著者の魅力にズームアップ!
『よるのふくらみ』 窪 美澄著(新潮社)

「新刊ニュース 2014年5月号」より抜粋

窪 美澄さんの新刊『よるのふくらみ』は、寂れた商店街で育ったみひろと、幼馴染みの圭祐、裕太という兄弟の男女三人が順番に語り手となって、それぞれのままならない心と身体、三人が抱える思いの行く末を描いた長編恋愛小説です。登場人物の“苦しみ”に寄り添い続ける、窪 美澄さんの思いをうかがいます。

作家 窪 美澄(くぼ・みすみ)

1965年、東京都生まれ。カリタス女子中学高等学校卒業。短大を中退後、アルバイトを経て広告制作会社に勤務。その後フリーの編集ライターを経て、2009年「ミクマリ」で第8回「女による女のためのR-18文学賞」大賞を受賞し、デビュー。受賞作を所収した『ふがいない僕は空を見た』で2011年山本周五郎賞を受賞。2012年『晴天の迷いクジラ』で山田風太郎賞を受賞。他著に『クラウドクラスターを愛する方法』『アニバーサリー』『雨のなまえ』などがある。この度『よるのふくらみ』を新潮社より上梓。

編集者 松田哲夫(まつだ・てつお)

1947年東京都生まれ。70年筑摩書房入社後、編集者として活躍。赤瀬川原平『老人力』、天童荒太『包帯クラブ』などのベストセラーを手がける。TBS系テレビ番組「王様のブランチ」本コーナーにコメンテーターとして13年出演したことでも有名。2010年6月に筑摩書房を退社し、フリーランスになる。『新刊ニュース』書評連載「哲っちゃんの今月の太鼓本!」、NHKラジオ第1「ラジオ深夜便」私のおすすめブックスコーナーなど、編集者、書評家、ブックコメンテーターとして幅広く活躍中。著書に『「王様のブランチ」のブックガイド200』(小学館101新書)、『「本」に恋して』(新潮社)など。また『中学生までに読んでおきたい日本文学』全10巻、『中学生までに読んでおきたい哲学』全8巻(あすなろ書房)の編集を担当。

  • 『よるのふくらみ』
  • 窪 美澄著
  • 新潮社

  • 『雨のなまえ』
  • 窪 美澄著
  • 光文社

  • 『アニバーサリー』
  • 窪 美澄著
  • 新潮社

  • 『クラウドクラスターを愛する方法』
  • 窪 美澄著
  • 朝日新聞出版

  • 『ふがいない僕は空を見た』
  • 窪 美澄著
  • 新潮社(新潮文庫)

  • 『晴天の迷いクジラ』
  • 窪 美澄著
  • 新潮社

書かれていない裏≠想像する

松田 今までの小説もそれぞれに素晴らしい作品でしたが、今回の『よるのふくらみ』は一つステージが上がった感じがして、いろいろな意味で大変読みごたえのある作品でした。

窪 ありがとうございます。

松田 デビュー作『ふがいない僕は空を見た』もそうでしたが、一篇一篇の粒が揃っているというよりも、いい意味で雑然としている感じの短篇連作ですね。

窪 私は「R-18文学賞」を受賞してデビューしたのですが、「小説新潮」で官能小説特集があると必ず呼ばれるんです。そこで書いたのが『よるのふくらみ』の「なすすべもない」です。三作目の「星影さやかな」は学園小説特集で書いてくださいというオーダーで、そうしたことに応える形がいい方向に作用したのではないでしょうか。時系列がジグザグと飛ぶことで、物語に奥行きのようなものが生まれた気がします。

松田 『ふがいない〜』ではいろいろな意味で濃い描写が多い小説でした。それに対して、『よるのふくらみ』は、それぞれの登場人物にはもっとダークな面があるはずなのに、敢えて書いていない。彫刻にたとえれば、深く彫らずに浅めに彫っている。でも、そういう風に見せながらも、本当はもっと深いところにあるものを想像させてくれますね。

窪 前進しているのか後退しているのか、ステージが上がっているのか下がっているのか、自分では分からないです(笑)。ただ前作でやったことは次ではやらないとか、それぐらいだと思います。例えば、あからさまに家庭環境が悪い子たちのことはもう一回書いたから、ここでは書かないとか、そういう濃淡だと思うんです。

松田 『よるのふくらみ』は修羅場が意外と少ない。でも読んでいると、心地良い一方で、書かれていないことに想像力を刺激される。もともと非常に小説が上手い人だと思っていましたが、一段と上手くなったなあと思いました。

窪 ありがとうございます。録音して、時々聞きたい気持ちです(笑)。

松田 でも、実際こういう話だと、どんどん自虐的になるというか、えぐい話を書きたくなりませんか。

窪 なりますね。私もそういう話が得意なので(笑)、書こうと思えば0から10まで書けるんですよね。でも、今回は敢えて禁じ手≠ニいうか、3ぐらいしか出さないようにしました。里沙さんにもマリアさんにもバックボーンというかそれぞれ事情はあるはずだけれど、書かないでおいて、そういう人たちがメインの登場人物に大事なことをポッと言って去って行くというようにしました。

松田 舞台となっている、東京の中心部ではない郊外の商店街の、下町の人情みたいなものが中途半端にあって、村社会みたいなしがらみもある中で、あまりえぐい話とか壊れた話にしてしまうと、ああいう日常の持っている窮屈さが伝わらない。

窪 そうですね。私が最初にイメージしていたのは東武東上線とか西武池袋線のあたりなんですが、そんな感じの町にある息苦しさ≠フようなものが浮かび上がってこないかもしれないですね。あまりにえぐい体験をしている人を書いてしまうと、読んでいる人は「私はそこまで体験していない」って、閉じてしまうのかなっていうのはありました。今回はうっすらとなんとなくみんなそれぞれ背負っているけれど、それほど酷い、例えば虐待を受けたとか、あからさまなそういうことはない、っていう人たちを書きたかった。

松田 だから、男と出て行ったのに帰ってくるお母さんとか、次々と愛人を作るお父さんが、日常の中に埋没していって、破綻はしない。でも、そういうつけが澱みたいに子供たちの中に溜まっていくわけですね。

窪 彼らも小さい時は親世代をなんとなく非難していますが、結局大人になって恋愛を経験すると、その愚かさみたいなものが少しずつ分かるとまでは言わないけれど、自分の中に同じようなものを見てしまうという感じを書きたかった。理解する訳ではなく、無理解みたいなものの溝が少し浅くなる感じです。

視点によって変わる真実

松田 普通の町のコミュニティが持っている日本的な村社会性みたいなものがある一方、コミュニティが壊れてきて、悲惨なことも起きている。だから、多くの人は、落ちもせず昇りもしない。停滞はしないで動き回っているけれど、必ずしもいい展望が見えてこない。そして、格差社会とか新しい貧困という現実を前にして、どんなに頑張っても救われないし、かといって諦めてしまうと落ちてしまう人たちの方が多いと思うんですよ。そういう人たちを書きたいというのは、始めからあったんですか。

窪 そうですね。実は私の実家はずっと酒屋だったんですが、父が自己破産して潰してしまうんです。それで一切合財無くして、悲惨な目に遭って、大人が右往左往するのを小さい時に経験しました。だけど、結局はその浮き沈みを経ても、まあ生きているじゃないかってところはあるんですよね。「すごい大ハッピー!」とか「生きててよかった!」みたいに絶叫するほどではないですけれど、浮き沈みがある中で人間は小さい幸せみたいなものを見つけて生きていくんだなっていうのが、自分の実感としてあるんです。それが自分にとってはすごくリアルなことで確信でもあるわけです。日々の中で、何かがバーンと解決したり、誰かが助けてくれたり、そういうことはないのですが、日々の生活を重ねて、振り返ったら結構今、楽しいねとか、小さいことだったなっていうのがあるので、それは小説を書く上で滲み出ているのかなとは思います。

松田 確かに窪さんの小説を読んでいると、心地が良いとまでは言わないけれど、嫌な感じはないんですよね。登場人物に感情移入していっても、「しんどいけど、まあいいか」みたいな感じになれますしね。

窪 別に自分の悲惨な体験をルサンチマンみたいに「こんなことで悲しかった!」と書くつもりもないですし、悲惨な体験というのもそれは人それぞれありますよねっていうところからスタートしているからではないでしょうか。この短篇連作で言えば、愛人を作るお父さんでも、兄弟それぞれの見方によってそのお父さんという人物像が変わってくるとか、本当のことは一つじゃないよね、というようになると思います。いろいろな目があり、その人はそれぞれ違う、というところはやはりあるので、自分の思う真実≠ヘ結構変わっていくというのは実感としてあります。印象とか出来事の記憶が変わっていくことが、何か救いのような気もします。例えば家出した母に対しても、悔しいとか悲しいとか思っていたけれど、自分が結婚して子供を持つことで「ああ、お母さんがいたあの環境はひどかったな」と思うこともある。母に対して、少しだけ理解したり、それはしょうがないなって思ったりするところはあります。

松田 『よるのふくらみ』もそうですが、デビュー作『ふがいない〜』も、いろいろと辛い状況の中で、ある意味では救いがないけれど、それでも生きているっていう話でしたよね。そしてまさにふがいない僕≠ェ、足元を見つめるんじゃなくて、空を見た≠ニいうのは、とってもいいですよ。どうしてああいう話を考えられたのでしょうか。

窪  『ふがいない〜』も『よるのふくらみ』も、激しい性描写から始まりますが、これをどこに持っていこうかというところがラストシーンの落としどころだと思うんですね。どちらも性のことでとても悩んでいるのに家族関係の問題や人間関係のせいで話もできない。今回は特に30代の若い男女の恋愛を描きましたが、その人たちをハッピーエンドにしてしまうとそれは嘘だというのが実感としてあるんです。めでたし、めでたしと言ってしまうと、感覚的なものですけれども、自分が作った登場人物は救われないだろうなって。だから、今いる位置は納得しよう、肯定しようと考えました。それで、微かに最初のスタート時点よりは少し上向きになっているような感じが、フィクションではありますがリアルに感じられるんです。

松田 『ふがいない〜』は、ああいう話の展開になっていくと破綻するんじゃないかって、ハラハラするところもありますね。それに比べて、二作目の『晴天の迷いクジラ』は、非常にきちんとできた話、ある種のロードムービーですよね。それで、だいたい予測できる範囲内でストーリーが展開していって、それはそれで読んでいて快適なお話でした。

窪  まぁ、最後は思った通りの結末というところですね。でもそれは書いている私としては、少し不満もあったんです。今ではあの形がベストだと思っていますけれど、最初はもう少しあからさまにハッピーエンドだったんです。それが、編集者と話している間に微調整というか、変わっていって。『よるのふくらみ』のラストも最初はもっと悲惨だったんです。悲惨な話でいうとこっちの方がもっと悲惨で、一回結ばれたみひろと裕太の何年後かにしようと言っていたんです。彼らも結局は自分たちの親と同じことをやっている、倦んだ夫婦関係になったということで終わらせようと。でもそれはあまりにも暗いということで、じゃあ違うラストシーンにしましょうと。結構ラストシーンは話していく中で変わっていくということはあります。

登場人物の苦しみを微かに救う

松田 『よるのふくらみ』も官能短篇から始まっているということですね。性描写というか官能表現が窪さんなりの独特の表現になっている、という感じがしました。男性作家が書く官能表現は、願望というかファンタジーのような気がするんですが、女性作家の場合には、ある種のリアリズムだなと思うし、窪さんの場合は特に心理描写というか心の部分が、常に裏側にあるという感じがします。

窪 ファンタジーということで言えば、女性作家が書いても男性が読めばファンタジーだと思われると思います(笑)。私も男性のことを書いていますが「こうなのではないか?」と妄想して書いているので、ファンタジーなのはお互い様だと思うんです。ただ、女性作家の方が、身体の構造として、受け入れる側なので、観察しているのかなって気はします。女性はどこか冷静で、冷たい風が吹いている瞬間があるのじゃないかなと(笑)。観察しているというか、表情の移り変わりを見ているというか、それはあると思います。

松田 『よるのふくらみ』は、心と身体のバランスがとれない人たちの話ですよね。だから性描写というか官能表現と、常にその裏側に心の問題というのがずっとついていくというのは大事なポイントだと思うのですが。

窪 それはもしかすると「R-18文学賞」のお陰かもしれません。私が受賞した時は唯川恵さん、角田光代さん、山本文緒さんが選んでくださったのですが、テーマに性があるけれど、性だけを描くのではなく、必ずその支えに人間の心の動きを掬い取る作家をデビューさせてくださったという感じがします。その先生方の想いというか、性は性描写だけにあらずというか、性描写の陰に必ず人間を書けというのがあるんだと思っています。それが活きているのではないでしょうか。

松田 窪さんの作品を発表順に読んでいくと『ふがいない〜』に始まって『晴天の迷いクジラ』があって『アニバーサリー』があって…というふうに、いろいろなものを書いてきて、もう一度元に戻ったというか、螺旋状に登っていって、同じ位置なんだけれど前よりもワンフロア上のところに届いた感じがします。

窪 ありがとうございます。実は私の中に書きたいテーマというのがいくつもないんです。性のこと、生きること、生きていて良かったと微かに肯定すること。テーマ自体はそんなにないし、何かストーリーが極端に面白いというわけでもないと思います。『ふがいない〜』も、これをどういう話かと説明したら、ものすごく普通の話なんですけれど、そこに細かい感情の変化があるよ、と。

松田 そうおっしゃいますが、作品ごとに随分テイストは違うと思います。実際、書いていく中で自然と変化していくものなんですか。それとも、変えようと思っている部分もありますか。

窪 やはり最初の一作、二作は家庭環境が極端にひどいとか、生育歴に何か問題があるというのは、自分のことでもあるので、書きやすかったのは確かです。全然、私小説を書くタイプではないんですけれど。でも、何か小さい時にキズがあって、それを背負って、言いたいことも言えずに生きていくっていう人たちが、微かに救われるという話は書きやすい。だから、さっきも言いましたが、敢えてそれを一回禁じ手≠ノする、敢えてそうじゃない人を書くということで、何か自分に負荷をかけるというのはあると思います。

松田 だから窪さんの作品は、ハッピーエンドではないけれど、読み終わってすごく気持ちが良いんですね。でも、こういうものを通過して、もう一度どうしようもない、目を背けたくなるようなものを書いてみたいということもありますか。

窪 実は今、書いているんですよ(笑)。「別冊 文藝春秋」で、正にそういう話を書いています。まったく理解できない少年犯罪を犯した子をベースにした話なので、バランス的にこちらの小説があっさりになったというのはあります。

松田 そうじゃないかなと思いました。でも世の中で起きていることを見ると、現実の方がますますひどい世の中になっている面もありますしね。

窪 そうですね。例えば『アニバーサリー』では、東日本大震災の後の話を書きましたが、やはりその前の阪神大震災のことを覚えているんですね。あの時も、あっと言う間にみんな忘れてしまって、神戸だけが悲惨で…とか。ふっと昔に戻るというか。それでその時代のこと、昭和天皇崩御のこととか、昭和の終わりを書いてみたいというのはあります。今書いているのは、犯罪を犯した少年が出てきて、大きくなった彼に興味を持ち、振り回される女たちの話です。これは来年、本になる予定です。

松田 それと平行してやっていることはありますか。

窪 KADOKAWAの「野性時代」で短編を書いています。これは、一つの街の、一つの幼稚園に通っている夫婦たちの物語で良い話なんです(笑)。全部、お互いを攻めないというルールをつくって「ありがとう」とか「ごめんなさい」と言ってから必ず物語が終わるという話で、いろいろ禁じ手≠使って書いています(笑)。書き手として筋肉≠付けたいと思うので。こちらは多分、年内に出るのではないかと思います。

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