【シリーズ対談】松田哲夫の著者の魅力にズームアップ!
『八月の六日間』 北村 薫著(KADOKAWA)
「新刊ニュース 2014年7月号」より抜粋
北村 薫さんの新刊『八月の六日間』は、文芸雑誌の副編集長の女性が忙しい日常、不都合の多い世の中で“心”が欠け落ちていくのを感じていた時、山歩きの魅力に出会い、独り山旅で経験する数奇な巡り会いを通じて次第に「自分」を取り戻していく姿を描いた“山女子”小説です。著者3年ぶりの連作長編小説に込めた北村薫さんの思いをうかがいます。
作家 北村薫(きたむら・かおる)
1949年、埼玉県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。卒業後、国語教師をしながら創元推理文庫の「日本探偵小説全集」を編集。1989年、覆面作家として『空飛ぶ馬』でデビュー。1991年『夜の蝉』で第44回日本推理作家協会賞、2006年『ニッポン硬貨の謎』で第6回本格ミステリ大賞を受賞。『スキップ』等で直木賞最終候補に6度選ばれ、2009年『鷺と雪』で第141回直木賞を受賞。他著に『玻璃の天』『ひとがた流し』『街の灯』『語り女たち』『リセット』『ターン』など多数。この度『八月の六日間』をKADOKAWAより上梓。
編集者 松田哲夫(まつだ・てつお)
1947年東京都生まれ。70年筑摩書房入社後、編集者として活躍。赤瀬川原平『老人力』、天童荒太『包帯クラブ』などのベストセラーを手がける。TBS系テレビ番組「王様のブランチ」本コーナーにコメンテーターとして13年出演したことでも有名。2010年6月に筑摩書房を退社し、フリーランスになる。『新刊ニュース』書評連載「哲っちゃんの今月の太鼓本!」、NHKラジオ第1「ラジオ深夜便」私のおすすめブックスコーナーなど、編集者、書評家、ブックコメンテーターとして幅広く活躍中。著書に『「王様のブランチ」のブックガイド200』(小学館101新書)、『「本」に恋して』(新潮社)など。また『中学生までに読んでおきたい日本文学』全10巻、『中学生までに読んでおきたい哲学』全8巻(あすなろ書房)の編集を担当。
女性の主人公という「形」で自己を鮮明にする
松田 北村薫さんの新作『八月の六日間』ですが、これまでの『ひとがた流し』や『月の砂漠をさばさばと』と同じく、女性を主人公とした心温まる小説として楽しませてもらいました。
北村 ありがとうございます。
松田 今回の小説は、主人公が山に登る話ですけれど、北村さんご自身は山には登られるんですか。
北村 自分では山は登らないですね。だからこそ、と言いますか、山に登らないからこそ、物語になるんだと思います。
松田 小説的なリアリティと、いわゆる即物的なリアリズムとは違うということでしょうか。
北村 そうですね。即物的なリアルから一度離れてみた方が、小説的リアルは確保しやすいということはあります。
松田 小説を書いていて、実際に山に行ってみたいとは思わないんですか。
北村 「行ってみたい」という気持ちがなかったら、小説は書けないと思います。「行ってみたい」という気持ちを常に持ちつつも、実際にそれで「行こう」と思うかどうかはまた別な話ですね。例えば、私は外国に行ったことがないのですが、これからも特別なことがなければ「外国へ行こう」という気持ちにはならないと思います。でも、外国のことを調べるのは面白いし、そうした情報が自分の頭の中にあることの方が大切だと考えています。
松田 『八月の六日間』を読まれた読者からすれば「これだけ山を詳しく書かれていれば、北村先生は山が好きで、しょっちゅう山に行っているんだろうな」と思われるかもしれませんね。北村さんの体験をそのまま書いていると思う読者が多いと思います。
北村 小説を書いている時点では「行ってみたい」と思って書いているわけですから、そこのところに嘘はないですね。自分自身の体験や取材などをもとに、主人公がどこへ行って、何をどうしたとか、そこにどういう人が来てどうしたとか、そういうものを盛り込むのが作家だと思います。
松田 そもそも『八月の六日間』の執筆は、どういうところから始まったのでしょうか。アラフォーの働く女性の生き方みたいなものを書いてみようという感じでしょうか。
北村 自分自身もそうですが、やはり生きていく上で誰もが様々な辛いことを抱えているわけです。そういう社会の中で、このままで生きていけるんだろうかと考え、それに対してなんらかの解放を得ようとしている。そういう物語を書きたいと思った時に、編集者の方と話をしていたら、その方が山に登ると言うわけです。その話を聞いた時、これを一つの舞台として借りていければ、そういう思いが書けるんじゃないだろうかと思ったんです。今回の小説の主人公が「山へ行く」ということは、その山の体験を聞いたことから始まりました。
松田 『八月の六日間』の主人公は女性編集者ですが、女性を主人公に書くというのは自然に始まったことなんでしょうか? 北村さんの今までの小説も、イメージ的に言うと、8割くらい女性が主人公のような気がするのですが。
北村 自然でしたね。男性よりも女性の方が自然でした。例えば『スキップ』『ターン』『リセット』のように時間をテーマにした小説の場合、その内容からして主人公はおのずと女性に規定されるところがあると思います。あとは、自分自身が女性の方が書きやすいというのもあります。男性だと、会社の中にいて、上昇志向とか権力志向とか出世コースだとか、そういう価値観が中心になってきますが、そういうもののないところ、酒場にも行かないという風な感じで書いていくには、登場人物はやはり女性の方が書きやすい。あるいは、物語化しやすいと言うか、物語がそう要求していると言ってもいいかもしれません。女性の友達同士の会話とかも、結構自然に出てきますし。逆に男性を主人公にして、そういう物語を書く方が違和感があるというか、男性的なタイプの物語というのは書きにくいです。
松田 北村さんは、そもそも「覆面作家」でデビューされましたが、デビュー当時、愛読者の間で「男性か、女性か」を推測するというのが結構話題になっていましたね。実際は女性説の方が強かったような気もするのですが…。ただ、その時に「作品の中で女性に対して非常に優しく書いているから、男だろう」というようなことを言った方がいて、今から考えてみると、当たっていましたね。
北村 そうですね。
松田 現在、北村さんの作品のファンは女性読者が多いのでしょうか。
北村 どうでしょうか。必ずしも女性読者が多いとは限らないと思います。男女半々といった感じでしょうか。
松田 そうするとやはり、「覆面作家」時代の話ではないですけれど、読者の方も男性目線で見ているという部分があるのかもしれませんね。
北村 基本的には男性も女性も同じだと考えているようなところはあります。ただ、そういう現実の様々な制約などがある中で、やはり女性の形にした方が自分の心情などを訴えやすいということはありますね。違う形で「私」を書いていくということになります。女性の形にしてみたり、山に登ったことはないが山を書いてみたりという形によって、より鮮明に自己を出せるということだと思います。
調べたことを実体験としてつかまえる
松田 『八月の六日間』で描かれているシーンの多くが山歩き、特に単独行ですね。頂上をめざすにしても下山するにしても、自分自身の判断で先行きのことを決めていかないといけない。特に劇的なというか大きなドラマはないけれど、ひとつひとつそういう選択を迫られつつ、先に進んで行くというのは、ある意味ではまさに人生そのもののような気がします。
北村 登山での単独行というのが、まず「私は単独行をする」という選択が最初にあって、それを彼女は自己分析をしているわけです。しかも、そのことにまた反省もしてはいるんです。しかしそれが彼女の生き方なので、その山歩きの形というのが、すなわち彼女の人生の歩き方の形であるということです。
松田 彼女が一回、群れて動くということから離れていて、そこからもう一度人と一緒に行動する、何かを楽しむところがありますよね。完全に集団行動に溶け込んでいるわけではないけれど、その時その時で選んでいくという選び方は、彼女の成長のようなものが感じられます。
北村 それはそうでしょうね。あと現実の社会というか、山に行っている「八月の六日間」と山に行っていないもっとたくさんの日々というものがある。離れてみる、いつものコースからずれてみることで、日常が別の形で見えてくるということはあると思います。また、年齢とともに人生の歩き方というものが多少動く面もあると思うわけです。
松田 確かに、山登りの時間というのは、パーティなどの集団で歩いていても、自分との対話の時間と言ってもいいですよね。歩き出すとすぐ足が痛くなるし、荷物が重いなあと思うし、とにかくなんかいろんなことを考えたり考えなかったりしていて、気がつくとある所まできている。それから難しい岩場みたいな所になると、目の前の岩場に集中する。何というか、内面的な時間の過ごし方みたいなものが、他にはないような経験ですよね。
北村 おっしゃる通りで、本当に歩いているのは山であり、登っているのは岩であっても、自分を歩き、自分を登っているというような感じになると思います。
松田 そうですよね。もちろん、マラソンだろうと水泳だろうと、似た部分はあるのかもしれないけれど、山登りはもっと人生そのものに近いようなイメージがありますよね。
北村 比べるなら水泳は遠泳でしょうけれど、遠泳というのはあまり一般的じゃないですよね。それからマラソンというのも多少イメージが違いますね。山登りというのは、あの登り下りが人生的なんですね。それからあの疲労感。やっぱり人生の疲労と、山登りの疲労と、そういったものの重なり具合というのは、実感として具体的にイメージしやすいと思います。しかも山登りは長丁場になる。マラソンも長いですが、山登りのように途中で休憩したり食事をしたりはしませんからね。
松田 いわば体験ではなくて、人生のメタファーとしての登山ということでしょうか。
北村 そうですね。山登りに関して、こんな感じの、こんなコースで、というようなことを聞いていろいろ資料を調べていると、それは自分で体験していることになるんじゃないか、と思います。例えば時代小説家が江戸時代のことについて調べると、その調べたことを実体験としてつかまえられる。それが書き手というもので、体験していないということとは違う感じがします。この『八月の六日間』も、実際に山に登る方が読んでくださって、その方が「私は実際に山に登っているけれど、山の尾根歩きの部分で、自分がいつも感じつつもそれを言葉にできなかったことがあり、この本に書いてある描写が正に私が言いたかったことなんだ」と仰ってくださった。それを聞いた時、表現者として非常に嬉しい言葉を聞いたな、と思いました。もちろんそこの描写というのは、山登りを取材してくれた方が私に教えてくれたことではありません。山登りの取材で与えられた材料は、どのコースをどれくらいの時間をかけて、どう行って、ここはどんな坂で疲れる、とかそういうことです。それから今度は自分でその山のガイドブックを見たり、写真を見たりするんですけれど、そうしたものを見つつ自分の頭の中で、その山の様子をこういう言葉でこういう風に表現したいというのが浮かんでくるわけです。具体的に言うと、尾根歩きのシーンを書く時に、その尾根が私の頭の中に浮かんできて、実際に歩く、体験する感じになるわけです。私はそれを「世界の塀の上を歩くようだ」と書いたんですが、資料を読むことで私の言葉としてそれが浮かんでくる、というのが小説家の作業だろうな、と思うわけですね。それで、先の山登りをされる方にそこを褒めていただいたんです。実際、他のいろいろな方にも非常に褒めてもらえて、やはり表現者というのは自分の心で体験が出来ているから、そういうことが書けるんだろうと思いましたね。それが小説家の作業であり体験なんだ、という気がします。
松田 北村さんの非常に深い文学論を伺えました。この『八月の六日間』は小説好きの読者にとってはいろいろな意味で発見のある小説ではないかと思います。最後に改めて北村さんのファンに向けて、この小説についてのメッセージはありますか。
北村 山へ行く人も山へ行かない人も、この『八月の六日間』はそれぞれが様々に読めると思います。それから40代女子が主人公にはなっていますが、様々な年代で、様々に受けとめられると思いますので、多くの人に読んでいただければと思います。それなりに何か響くところはあるのではないか。そして何らかの意味を、ここに私がいる的な、共感のような、何か読者の心に響くものがあれば嬉しいな、と思います。
(五月九日、東京都千代田区・KADOKAWAにて収録)
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