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『絹扇』の津村節子さん
インタビュアー 鈴木健次(大正大学教授)

津村節子(つむら・せつこ)
1928年、福井市生まれ。学習院女子短期大学卒業。作家・吉村昭と結婚後も「文学者」「Z」に参加し、65年「玩具」で第53回芥川賞を受賞する。郷土の北陸を生きる女性を描いた作品が多い。『さい果て』、『炎の舞い』、『千輪の花』、『流星雨』(女流文学賞)、『智恵子飛ぶ』(芸術選奨・文部大臣賞)、『合わせ鏡』(日本文芸大賞)等著書多数。




『絹扇』
岩波書店



『菊日和』
講談社



『智恵子飛ぶ』
講談社文庫



『瑠璃色の石』
新潮社



『似ない者夫婦』
河出書房新社

鈴木 クロス装の『絹扇』、最近では珍しいですね。カバーをはずして、布の手触りを楽しみながら読みました。
津村 こんな贅沢な本を出してもらえるとは思いませんでした。作者としてとてもうれしいです。でも、その分高くなったので、売れないんじゃないかと心配で(笑)……。
鈴木 津村さんは福井のご出身ですね。この小説にはふるさとへの思いがこもっているように感じます。
津村 年をとってくると、先祖返りというのもおかしいんですけども、何となくふるさとはいいなあという気がしてきましてね。これまで長篇で五作、福井を舞台にしたものを書いています。絹織物のことは早くから書きたいと思っていたんですけれど、変転が激しいので、どの時代のどの地域がいちばん面白いかなあと考えあぐねていました。
鈴木 福井の絹織物はいつ頃から盛んだったんですか。
津村 奈良時代にすでに調として絹を収めていたという記録があります。江戸時代も下級武士の妻が内職として織っていました。湿度が高いから摩擦が起きないので、糸切れしたり、毛羽立ちしたりしないわけですよ。桐生、足利より風土的、気候的に向いていたんですね。福井の人々は進取の気性にも富んでいるし、勤勉でもあった。けれど人間にとって住みにくい気候が輝くような白い羽二重に向いていたというのはせつないですね。この小説の舞台になった春江という村は、とくに湿地が多くて、農業には向いていなかったようです。
鈴木 それで田畑を売って機屋に転業したんですね。
津村 輸出の需要が高まってきて農業より利潤が上がるし、福井県の坂井郡地域は中小の地主が多くて、転業する場合に家族や小作人を労働力として出発し拡張していくのです。他県では農業の副業や、家族だけの零細経営が多かったのです。
鈴木 失敗するともう田んぼも畑もなくなっちゃう。
津村 みんな売り払って背水の陣でやっていますから。農業なら寒冷な年もあるだろうし、日照り続きの年もあるけれども、土地がある限り成り立っていくわけですよね。だけど、田地田畑を手放して高価なバッタン機を買ったりして失敗したら……。
鈴木 バッタンですね(笑)。
津村 もうバッタンですよ、本当に(笑)。ですから、よほどの覚悟でやったんだと思いますね。バッタンというのは杼のことで、矢のように早く杼が飛ぶ装置です。
鈴木 津村さんの生家も織物に関係があったんですか。
津村 福井駅の近くで、お堀のそばの裏馬場通りというところが両側全部織物屋で、私の家はその一軒でした。私は昭和三年の生まれで好況のさなかでしたから、どこへ行っても、町を歩いていると織機の音が聞こえた。それが耳についていましてね、いつか書きたいなと……。
鈴木 機屋の変転の激しさが、そのままこの小説のストーリーになっていますね。自作農だった中村義一郎が田畑を売って、それを資本に織機を入れ、母親と妻と長女の労働力を当てにして転業します。長女ちよは明治二十一年生まれ、津村さんのお母さんの世代だと思いますが、学校にも行かずに機織りの下ごしらえで毎日を過ごしている。
津村 明治五年に国民皆教育の学制を発布したのですが、封建的な農村では、驚くほど就学率が低かったようです。機が織れれば立派な嫁になれる。まあ、学問よりは手に職をという考えが強かったんでしょうね。
鈴木 ちよは学校に行ってる子がうらやましくて、妹を背負って教室の中を窓からのぞいていると、先生がかわいそうだと親を説得に来てくれて、十二歳でようやく小学校に入学するけれど、うまくクラスに溶け込めません。
津村 年が違い過ぎるし、そもそも遊びを知らない。遊んだことがないんですから。小さいときから子守りをして、九歳から機織りを手伝って。下ごしらえがいないと機が織れないから、一番先に朝起きるんですよ。
鈴木 結局、勉強にもついていけなくなって学校をやめてしまうけれども、働き者で器量よし、のちに望まれて大きな機屋の次男と結婚するんですね。この小説は地機からバッタンに変わって、それがさらに動力を使った力織機になるまでの期間にわたっていますが、東京の大学を出た夫はオモヤ(本家)から独立し、やがて力織機を入れた大工場を建てる。なかなか進取の気風があるんですが、女関係も発展家で、福井の町に元遊女を囲って男の子を産ませる。その女が死ぬと、娘しかいなかったちよは自分から言いだして遺児を引き取って育てる。ところが工場を大きくしたところで関東大震災があって、横浜に大量の製品をストックしていたために大損をし、膨大な借金を抱えたまま夫が死んでしまうんですね。会社は倒産し、長年工場長として働いていた倉田という男が、競売になった家の台所だけは残すように奔走してくれて、ちよはたった一台だけ残ったバッタンで、また羽二重を織りはじめるというのがあらすじです。
津村 倉田はもともと力織機の使い方を指導に来た技師で、ちよに最初会ったときに彼女が企業主の奥さんみたいじゃなくて、まるで女工頭のような感じで働いているのに驚くんですが、つつましい美しさに、その時からちょっと倉田は心ひかれるというような伏線になっているんです。
鈴木 でも、そういう様子は少しも見せない。誠実な従業員として働いていますね、夫のほうは遊び人ですが。
津村 機屋さんというのは遊んだみたいですよ。金回りがいいときと悪いときとの落差が激しいのですが、いいときにものすごく派手に遊ぶんですよ。工員さんたちの給料も好景気の時はいいんですね。資料に書いてありましたからこれにも書きましたけど、福井の時計屋さんに客が来た。工員風だからいちばん安いのを見せたら気に入らない。その上を見せても気に入らない。結局いちばん高いのを買ったというくらい収入が多かった。まして社長ともなれば大変な金回りだったと思うんですよ。だから夫の順二は、夜、列車がなくなれば、芦原からでも福井からでも人力車で帰ってくる。毎晩温泉に行ったり、福井の色街に行ったりしていた。
鈴木 それに比べて女性はつましい暮らしですね。ちよも実に忍耐強い。失礼かもしれませんが、私はこの小説を津村さんの「おしん」物語だと思いました(笑)。
津村 まあ、「おしん」の春江版みたい(笑)。実際にその当時の女の人ってそうだったし、農村の状況もそんなもんだったんじゃないかと思いますよ。幸いなことに福井県立博物館で調査員がいろんな地区へ行って、生活様式とか、家の間取りとか、食べ物などを調べた報告書があるんです。それがあったのでイメージが湧いて助かりました。
鈴木 『絹扇』は結婚式や葬式の描写が詳しいですね。
津村 年配の方に聞いたり、その調査報告書にもあるんです。嫁ひろめとか婿よびとか。昔の映画を見てもテレビを見ても、結婚式の時は新郎新婦を中心に親族が広間に居並んでいるでしょう。この地方はそうじゃないんですね。本人たちはさっさといなくなって、親族だけで夜を徹して飲んだり食べたりして、お謡なんか歌うんですよ。結婚式というのはお祭りを除くと地域の唯一の娯楽だったんじゃないですか。
鈴木 花嫁花婿に席を外させるんですか。
津村 そんなところに文金高島田でずっと座っていたら、大変つらいですから。思いやりでもあったのでしょうか。その代わり改めて翌日、自分の会社の幹部とか、ご近所とか、そういう人たちに嫁ひろめをして、実家の方は婿よびをするわけ。お婿さんをよんで宴席を張って、嫁さんにはそれが里帰りになるわけです。お婿さんは嫁さんを置いて帰っていく。三段階にやるわけですね。
鈴木 ちよには、モデルがあるんですか。
津村 ヒントはあるんです。小学校へも行かれないのを父親が不憫がって、大学出と結婚させてやると言っていた。夢物語だと父親自身も思っていたと思うんですけれど、ちょうど大学出の村の大手の機業の息子が見初めて結婚した。そしたら関東大震災で大打撃を受けて家がつぶれたという話があるんです。私は何で関東大震災が春江に影響するのか、初めはわかりませんでした。
鈴木 横浜の倉庫に製品をストックしていたんですか。
津村 そう、絹地を大量に横浜から輸出していましたから、そこに収納していたものが全滅し、春江の企業が大打撃を受けた。横浜の震災史を見ますと輸出ものの倉庫が全部やられたと出ていましたし、福井新聞を見ますと、その後、福井の絹織物は横浜が回復するまで神戸から輸出していたという記事が出ていました。船が沈んだためという話もあったんですけれど、積み荷を載せた輸出の船が沈んだということは横浜の震災史に出ていない。それに船に積んでしまえば、もう製品のお金をもらっているはずです。
鈴木 実によくお調べになっていますね。
津村 織機のことが全然わからなくて……。前に石田編という木綿織物を復元した女性を主人公に『遅咲きの梅』を書いたときに、地機とバッタンの違いくらいは調べてわかっていたんですが。今度は蒸気機関とか電力でしょう。県立博物館にも勝山の資料館にも地機やバッタンはありますが、電気で何十台も動かす力織機なんて、とても展示できるスペースはありませんもの。だから設計図や古い写真を見せてもらって、どうやって回転運動を直線運動に変えるのかなんて、いろいろ説明してもらったんです。織機が変われば織物産業は一変してしまう。桐生、足利では地機で羽二重を織っていたけれど、福井ではバッタンを入れた。五、六倍の効率が上がるんです。それで、前年まで桐生、足利が日本一の輸出羽二重を織っていたのに、翌年は福井がトップに出ます。大正六年、春江の羽二重の売り上げ三百万円は、県の歳出の一・五倍です。
鈴木 絹織物産業史を丹念に調べて、そういう数字まで書きこまれていますね。びっくりしました。ところどころ産業史みたいになりますでしょう。あれは小説としてはプラスかマイナスかと……。
津村 私も物語の進展の邪魔になる夾雑物を入れ過ぎたかなと、ちょっと心配なんです。
鈴木 物語をきっちり時代背景の中に入れようとされた意図はよくわかりました。
津村 随分削ったんです、ああいう部分は。物語の進展の邪魔になっちゃいけないと思って。でもその時代がどういう時代だったかを書かないと、機屋さんがどうしてこう変転を繰り返すのかということがわかりませんでしょう。水害や地震の他に戦争とか機械の発達とか…。
鈴木 僕は産業史の部分を読むと、あっ、これはやっぱり岩波書店の本だと思いました(笑)。
津村 そのころの日本及び世界情勢、そういう変動に揉まれながら生きていたいろんな人たちの生活、それを書きたいと思ったからなんです。ただの女の一生を書こうと思ったのではない。やっぱりその裏付けになる骨格がしっかりしていないと。主人公の生き方も変わってきますからね、それで産業史のところは飛ばし読みされるかなあと思いながら、やっぱり書いちゃった(笑)。電気が来るとか、鉄道が敷かれるとか、そういう変遷も春江機業に影響しているわけです。
鈴木 津村さんは福井市出身で春江村ではないですね。
津村 春江というのは、私の全く知らない農村で、福井市は県庁所在地でしたし、私が生まれたのは昭和ですし。春江という地域は福井市から見れば特殊な風習なんかも残っていて、しかも時代は明治ですけれども、何となく感覚でわかるんです。福井の気候風土がよくわかっているから書ける。十歳ぐらいまでしかいなかったけれど、秋晴れの期間は短くて、やがて鉛色の空からみぞれが降ってくる。それが雪になり、吹雪になって、雪がさんざん積もってお彼岸さんまで融けない。夏は高温多湿で冬は雪が多いという湿度の高い風土が体にしみ込んでいますので、書いていて自信がもてる。逆に、からっとした明るい世界は、書く自信がないんですね。例えば『白百合の崖』で私は山川登美子を書いています。与謝野晶子の方が華やかで、だれも知らない人はない。登美子は二十九で死んでいますから才能を発揮する年数もなかったんです。生まれ育った土地も大変ちがいます。晶子は大阪の堺出身で、堺というのは商人の自治が実現した自由都市、明と貿易もしていたような開けた町の商家の娘ですよね。登美子は福井県の小浜の士族の娘で、とても封建的な気風の強いところです。年は一つしか違わなくても対照的な土地柄で生まれ育っていますから、性格的にも違ったと思うんですね。私は自分が入り込める対象でないと書けないんです。晶子はとても魅力的で、晶子の歌は大胆で官能的で情熱的で好きですけれど、私には晶子は書きにくい。登美子は感情を抑えて、抑えて、抑え切れなくなってほとばしり出るような強い歌がある。『明星』の名花二輪といわれますが、その相争っていた二人のうち、私は登美子を書いた。それはやっぱり私が北陸の湿度の高い、雪の多い風土に生まれ育ったからだと思うんです。年々雪が少なくなっていて、昔のようにお彼岸さんまで融けないなんていう大雪はないんですけれど、雪国の生まれということは、やはり私の書くものにかなり影響していると思いますね。
(2月20日 東京・銀座にて収録)

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