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『水の年輪』の薄井ゆうじさん
インタビュアー 進藤奈央子(ライター)

薄井ゆうじ
(うすい・ゆうじ)
1949年、茨城県生まれ。土浦第一高校卒業。イラストレーター、デザイン会社経営などを経て、86年『残像少年』で小説現代新人賞を受賞、作家デビュー。94年『樹の上の草魚』で吉川英治文学新人賞を受賞。現代人の心のゆらぎを映像的に昇華させた作品群は人気が高い。また映画、ドラマ、演劇になった作品も多い。『くじらの降る森』、『台風娘』、『満月物語』、『ストックホルムの鬼』、『夕海子』、『イエティの伝言』等著書多数。




『水の年輪』
岩波書店



『殺人の追憶』
ポンジュノ/シムソンボシナリオ原作
薄井ゆうじノベライズ
アートン



『イエティの伝言』
小学館



『台風娘』
光文社文庫

―― 『水の年輪』は十一の連作短篇集です。ドイツ南部のカイザースラウテルン、カナダのイエローナイフ、米・メキシコ国境のオルガン・パイプ・カクタス、ロタ島のウェディング・ケーキ・マウンテン、グレート・バリア・リーフ……、小説家・ジュンジが訪ねるところは最後の小淵沢(南アルプス)以外は外国が舞台ですが、タイトルについている長い地名は実在の場所ですか?
薄井 全部実在します。もっともヘッド・ハンティング・ファミリーというのはいわゆる首刈り族のことですし、最後の短篇のクライマーズ・シェアというのは、山登りをした人だけが味わえる水という意味ですね。それを除けば、この連作短篇のタイトルは、僕が実際に行って来た場所なんです。首刈り族の皆さんにもボルネオのクチンという町でお会いしたんですよ。もう五十年前に首刈りはしなくなったのですが。それにここに出てくる人物の七割がたは実在する人物ですし、六割がたは本当の話が含まれているんです。
―― あっ、そうなんですか。ジュンジが出会う人たちはどこか心のバランスを失っていたり、深刻な悩みを抱えています。ある意味で小説的な不思議さを秘めている人たちなので創作された人物かと……。
薄井 まず、そう思ってください。その方々を素材として使わせていただいて、あとから再構成といいますか、ジグソーパズルみたいにばらばらにしてからつなぎ合わせてあります。それと、念のために言いますと、この主人公は僕じゃないです(笑)。ですから私小説ではないんですね。
―― 小説家・ジュンジですから主人公は薄井ゆうじさんご本人か、そのものではなくても、色濃く投影されているのかと思いました。たとえば「ヘッド・ハンティング・ファミリーの森」にある主人公の飼い猫のエピソードは、私も以前に薄井さんの書かれたもので読みましたし。
薄井 ボルネオに行った時に、二十二年間一緒にいた猫が死んだ話は本当です。まあ、やはりそれを省いてあの話を書くことはできなかったんでしょうね。同じような意味で、それぞれの町で僕が出会ったとても印象に残るものが、少なからず出てきてしまっています。
―― それをあえて排除はされなかった?
薄井 よもや実話ではないだろう、つくりものだろうという気配を醸し出している作品の中で、逆にこれだけは僕にしか作り得ない世界、僕が見て触って足を踏み入れた世界である、というものがいろいろなところに散りばめられているんですね。
―― ジュンジはトラブルを抱えたり、傷ついている人たちと旅先で関わりあいながらもどこか観察者という趣きがあり、その存在はとても透明な印象を受けます。
薄井 主人公は狂言回し的な存在でもあるんですね。これは言い過ぎかもしれないんですが、タイトルの『水の年輪』に込めた意味にも繋がっていて、あたかも水が国境などを越えてどこへでも流れる存在であるように、主人公は世界をめぐって歩く――そんな感じです。
―― 実話でありながらつくりもののような世界、というのは面白いですね。もっとも薄井さんの作品はよく根も葉もない実話≠ニ称されたりしますが(笑)。
薄井 構図化した枠組のなかで動くと、むしろ人間が目立って来るというか、人間くさくない水のような、さきほどの言葉を借りれば透明なピュアな主人公が動くことによって描きたいものがあったんですね。そもそも最初はクセのある嫌な女性を書こうと思っていたんです。――タバコを湖に投げ捨てたり、世界中に向かって罵りの言葉を浴びせているような女。でも二、三話書いた時点で書くのが嫌になりまして(笑)。
―― そのぶん、気を病む男が出てくる?(笑)。外国を舞台にされたのはどうしてでしょうか。今までの作品も記名性のある場所は少なかったですけど。
薄井 どこでもいいんですね、舞台は。そうなるとどこでもない場所、読んだ人が再構成して読める町を書きたくなるんです。この小説はガイドブックではないので、実際の町とは違っている部分もあるでしょうけど、クセのない言わば水のような主人公が、抽象的などこでもない場所で、個性的な人物に出会っていくという構図ができれば、世界中の人びとといえば大げさですけれど、誰が読んでも色眼鏡なしにその町そのものが伝わってくるようなものが書けるだろうし、書きたかったんですね。そうするとニューヨークやシカゴ、あるいは渋谷、六本木といった有名な町ではそれはできないでしょう。
―― たしかに、当たり前のように東京を舞台にした小説って多いですね。そこでは東京の情報を持っているか否かで楽しめるかどうかが決まってしまうような感じです。でも『水の年輪』はあたかも自分が旅に出ているような気分で読めました。それとウィスキーが飲みたくなりました(笑)。
薄井 連載が「サントリー クォータリー」という洋酒メーカーのPR雑誌だったので、どの短篇もウィスキーに関するシーンが出てきます。最近、何作か時代小説を書いているんですが、僕にとってはこういう「しばり」といいますか、テーマに基づいて書くのは大変面白いんですよ。
―― そういえば薄井さんがノベライズしている『殺人の追憶』は韓国映画のシナリオを基に書き起こされていますが、それこそ映像という「しばり」があるんですけれど、いかがでしたか。
薄井 最初は自分の作品ではない、ということにこだわりもあったのですが、シナリオを読み、もちろん映画を観て、それから事件現場に行き、関係者に取材をしたんです。自由に書いていいということで、……もうここまでやり尽くせば自分のものだという思いがあります。
―― 時代小説、それに新しいタイプのノベライズと積極的に執筆の幅を広げていらっしゃると感じるんですよね。話が飛んでしまいましたが、『水の年輪』のそもそも連載の経緯はどんなものだったのですか。
薄井 毎回読み切りで、話の中にできればウィスキーの薫りがするといいんですよね、という話だったんです。でも東京のバーを舞台にした小説だとか僕には書けない(笑)。そうしたら担当者も「いや、そんな小説を薄井さんに求めません。薄井さんらしく独特な雰囲気のある小説を」とおっしゃるので、それでは旅先で主人公が、傷ついていたり、不機嫌な女性と出会う話にしよう、その出会いが女性たちの心の傷をフッと薄くしたり、にこっと笑ったり、ただそれだけの話を書いていこう、ということになったんです。あっ、そういえば未成年の飲酒とお酒を飲んでの運転は書かないでください、という「しばり」がありましたね(笑)。
―― それはやっぱりダメでしょう(笑)。
薄井 話がお酒に寄ってしまうけれど、そもそもなんのために飲むかを考えると、カランという氷の音や薫りや味、それによくウィスキーはひとりで飲む酒と言われる。それは小説はなんのために読むのか、なんのために書くのかということと非常に近似値なところがあると思います。結局、両者はひとりの時間を大切にする、そういうことなんでしょうね。
―― なるほど。それは文芸誌ではわからない視点ですね。それとこの作品には、「 」の会話体が使用されていませんね。
薄井 お気づきになりましたか。?!……≠ネども、極力排除しています。それは記号性を文章の文字から排除することによって、小説そのものの記号性つまり普遍性を高めようとしたからなのですが、かなり実験というか冒険だったにもかかわらず、うまくいったかなと思っています。
―― 心の傷を抱えた男女が、旅先で現実への手がかりを見つけ、癒され出直していく……、これは出版社の『水の年輪』の宣伝文ですけど……。
薄井 そういう読み方もあるかもしれないですけど、僕は人って癒されなくてもいいと思っているんです。傷ついた人間やバランスを欠いた人間関係が改善≠ウれる必要は果たしてあるのかな?でも壊れたバランスをこの主人公と出会うことで一瞬でも取り戻せたりすれば、それはそれでいいかもしれない。でもジュンジと別れた後はきっと元に戻ってしまうんでしょうけどね。
―― 物事の決定を慌てず、先送りにする場面や、不安定な状態そのままを肯定してくれるような、それは言わばある種の癒しといえるかもしれません。私は癒し≠ニいう言葉を濫用したくはないんですけど(笑)。
薄井 そうですね。わかりやすく言えば、旅に出るのはバランスの悪くなった自分を立て直すためだったりするんですよ。でも実際にはそんなことでは問題って解決されないけれど、全体として答を先送りしながら人間って生きていくのでないか。結局、旅に出たところで人は変わらない、でもまた旅に出る……、そういう感じを出したかったんですね。生きることをやめないように旅をやめることはないと思うんです。
―― 結論を急いで出さなくてもいいんだ、生きるっていうのはそういうことかもしれないなとしみじみ感じました。最終話「クライマーズ・シェアの雫」は最初の「カイザースラウテルンの眼」へと円環する話ですが、めぐりめぐって本のタイトル『水の年輪』にも響き合います。
薄井 タイトルは連載当初からつけていたんですが、年輪とは水の波紋でもあるんですね。人は誰でも人生の主人公なんですけど、生きていることによって常に波紋が広がるんです。主人公は自分の波紋を立て、相手の波紋を感じる。ただ波紋だといかにもウィスキーという感じなので、じゃあ年輪はどうだろうということで決めました。
―― 薄井さんの小説はよく水がキーワードになっているような気がしていますがどうですか?
薄井 そうですね、雨のイメージとかいつもありますね。僕は本来、晴れ男なんですけど(笑)。だから逆に雨に降られるとものすごい降り方になってしまうんですよ。それでなのか自分の書いた小説にもよく強烈な雨が出てきます。雨は誰の頭の上にも容赦なく降りますからね。時間の流れ方と同じで、――時間は誰の中にも流れている、等しく逃れられないものである、そういう共通性がありますよね。
―― そういうふうに考えてみたことはなかったのでとても新鮮です。だからこそ小説の中で水や雨のモチーフが印象に残るのかもしれませんね。
薄井 最近聞いた好きな言葉に「海はどんな川でも受け入れる」というのがあって、どれだけ汚れた川の水も拒まないと。まあ僕はとてもそんな立派な人間にはなれないけど、いいなと思います。
―― まさに『水の年輪』の読後感に通底するような言葉ですね。

(3月16日 東京・亀戸の薄井ゆうじさんの仕事場にて収録)

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