紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

この世界の全面的破壊へ

――アーティストがテロリストに対抗するために
ボリス・グロイス氏インタビュー(聞き手・角尾宣信)

 ■政治的崇高さと美

 角尾 今回、日本で『アート・パワー』の翻訳・出版が実現し、訳者の一人として僕も大変うれしく思っております。そこでですが、ご自身のこれまでの活動から見て、本書にどのような位置づけを与えているのか、教えていただけますか?

 グロイス 個人的には、この本は新しい始まりだったと言っていいと思う。私はもともとドイツ語で書いたものを、ドイツおよびヨーロッパの読者に向けて出版してきた。しかし、この本で初めて、私は英語で、アメリカの読者に向けて書いたんだ。いくつかの章は、もともとドイツ語で書かれたものだったけれど。加えて『アート・パワー』において、私はアメリカの状況を勘案した。当時のアメリカでは、インスタレーション、特にヴィデオ・インスタレーションに関して、議論が不足していると感じていた。ヨーロッパで議論されていたようには、ちゃんと考察されていないように思われた。それに、現代性が近代性(モダニティ)とどのように異なっているのか、その辺りも明瞭ではなかった。また、こうしたテーマがまだあまり提示されていなかったからこそ、アメリカの読者の関心を惹くのでは、とも考えていた。そして『アート・パワー』は、アメリカの代表的な美術批評誌『オクトーバー』(1976年~)ではない美術批評のあり方を提示するものとしても、構想していたんだ。

 角尾 つまり、『オクトーバー』誌の論説とは何らかの距離をとろうとしていたのですね? つまり、『オクトーバー』誌の論説とは何らかの距離をとろうとしていたのですね?

 グロイス いや、距離をとろうとしていたわけではない。ただ私の立場は、初めから彼らと異なっていたんだ。特に、インスタレーションなどに関してはね。そして『アート・パワー』を出版したあとに、インターネット・ベースの美術批評誌e‐fluxが発刊され、私が『アート・パワー』で論じた、少なくとも当時はアメリカであまり論じられていなかったテーマが議論されるようになった。こうして私はより積極的に、ヨーロッパで自分が身につけてきたことをアメリカにもたらし、またアメリカのアートにおいて問題とされるべき論点や観点を、ヨーロッパにおけるそれらと融合していくようになったんだ。

 角尾 『アート・パワー』では、ハリウッド映画やテロリズムに関しても多くの言及がなされていますが、それもこの本がアメリカを意識した構想に基づいているからこそ、という面もあるのですね。

 グロイス そうだね。ただ加えて、ハリウッド映画やテロリズムへの言及は、アートにおける運動やイベントに関する問題系とも関連しているんだ。というのも、近年はアート全体が、イベントやパフォーマンスや映画・映像にますます関心を持ちはじめているから。そして、テロリズムというのは一種のパフォーマンスなんだ。とても映画的なね。テロリズムは、映画そしてテレビに基づいて成立している。

 角尾 そしてインターネットにも?

 グロイス いや、インターネットに関してはそれほどでもないと思う。むしろ映画、そしてテレビ・ドキュメンタリーに基づいている。インターネットが表面上は提示しているインタラクティヴィティ(双方向性)やグローバルなネットワークといったものと、テロリズムは根本的に異なっている。そもそも、こうした理想自体、グローバルな今日の資本主義が作り出す一種の幻想にすぎないんだが。そのためインターネットの成立には、映画そしてテレビから比べて、いかなる進歩も見られないと思う。

 ここで私が問題にしたいのは、出版(プレス)の問題だ。私はイスラエルそしてイスラーム教の国々にも訪れ、宗教に関する大きな展示を企画したことがある。そしてイスラーム教の国々の本屋さんに行くと、イスラーム原理主義者たちが作ったプロパガンダが販売されている。そこで私が興味を覚えたのは、これらのプロパガンダがほとんど全てヴィデオであり、文字テクストの印刷物ではない、ということだった。この事実は、伝統的なイデオロギーのプロパガンダの考え方とは全く異なっている。伝統的には、イデオロギーはまずテクストを通じて人々に伝達されるものと考えられていたから。しかし今では、テクストではなくヴィデオによって、イデオロギーが伝達される。ヴィデオはイメージではなく、ナラティヴである。イメージと音声を使ったナラティヴである。そして、テクストとヴィデオの大きな違いは、テクストでは物事をくり返し考察することができるが、ヴィデオではそれができない、という点だ。

 というのも、こうした再帰的考察を行うプロセスは、可視化できるものではないからね。思考や考察は、映画やヴィデオでは決して表象できない唯一の活動だ。だからヴィデオを作ったり見たりしているだけでは、思考も分析も成立しない。ただ何らかの爆破を見せたり見たりするだけだ。よって、テクストからヴィデオに移行するということは、考察できる物事から考察できない表象へと移行することを意味しているんだ。そしてこの点こそ、テロリストにとっては極めて好都合なんだよ。テクストにおいては批評的に物事を分析する時間が作れるけれども、ヴィデオではそれはできない。だから、ヴィデオを見る人々はほとんど盲目的に、そして時間を置かずにテロリストに追従していくことになる。ちなみに断っておくが、このようなヴィデオの作用を利用しているのは、反テロリストの側も同様なんだが。

 角尾 このテロリズムとヴィデオの関係性については、『アート・パワー』の「戦争中の芸術」という章でも詳しく議論されていますね。

 グロイス あのエッセイは、もともとイェルサレムとラマッラーで、レクチャーとして行った内容をテクストにしたものだ。そこでの主題は、ラディカルさとは何か、ということだった。アーティストの多くは、ラディカルになりたいと思っているものだからね。歴史的には、アーティストはラディカルになりたいからこそ、テロリストになることを夢見てきた。例えば、アンドレ・ブルトンなんかはそのことを明言した。そして、テロリストの方がアーティストよりもラディカルだと思われてきた。そのような見解は今でも根強い。しかし私はそうは思わないんだ。だから、テロリストはラディカルである、という言説自体を批判的に分析してみることにした。

 角尾 本章であなたが提起されている、アーティストがテロリストに対抗して取りうる戦略というのが、とても興味深いものだと思いました。テロリストと反テロリスト双方が制作するイメージは、一種の政治的崇高さを持っている。それに対する対抗策として、エドマンド・バークを引用しつつあなたが提示するのは、イメージそのものを消し去るのではなく、単なるイメージに戻すという戦略です。