紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

この世界の全面的破壊へ

――アーティストがテロリストに対抗するために
ボリス・グロイス氏インタビュー(聞き手・角尾宣信)

 グロイス まず、政治的崇高のイメージとは何かというと、それは人々を脅迫し怯えさせるイメージである。それは美とは異なる。イメージに関する批評的な分析や考察が提示しうるのは、イメージが決して、人々を怯えさせるほど力強いものにはなりえないということ、これなんだ。モダニズムの戦略とは、リンゴのイメージが実物のリンゴではないということを示すことなのだから。だから、その中でテロリストが何を爆破していようと、爆破のイメージは爆破ではないんだ。イメージの批評とは、あたかも現実であるかのように装っているイメージを換骨奪胎するものでなくては。そしてアーティストが行っているのは、こうしたイメージの批評でもある。この点で、テロリストの方がアーティストよりも優れているという言説は間違っている。優れたアーティストは、自分の生み出すイメージを批評しもするのだから。

 グロイス そうだよ。イメージの批評とは、デュシャンが示したように、イメージが崇高さとトイレの配合にすぎないことを示すんだ(笑)。

 角尾 そしてこのトイレの物質性という点、単なる物にすぎないという点は、あなたがしばしば論じているマテリアリズムと関わってきますね?

 グロイス もちろんさ。例えば、今日見てきた近代美術館の常設展では、第二次大戦中に日本で描かれた、戦争遂行のプロパガンダのための絵画が展示されていた。そのため展示空間が、爆破のイメージであふれ返っていた。一方、イタリアやドイツのファシズム政権のもとで制作されたイメージ、またソヴィエト政権下におけるイメージやアメリカで現在制作されているイメージにしても、その中心にいるのは、英雄的な兵士たち、ファシストのヒーローたちだ。何らかの爆破や爆発は、彼らの周辺で起きているにすぎない。しかし日本の場合、そこにはヒーローがいない。というか、人がだれもいない。ただ爆発があるだけだ。そこには船があり、飛行機がある。そして、爆発している。

 これらの爆発は何だろうと思ったんだが、それは後期印象派の絵画と近いものだと思ったんだ。これらの日本の戦争画は、基本的にとてもナイス。そしてこれは、前期印象派から後期への移行と、極めて類似している。この移行を通じて、もはや絵画は対象を必要としなくなった。ただ、色彩をめぐるナイスな遊びがあればいい。そして、鑑賞者はそれでハッピーだ。だから、これらの絵画が提示しているのは、具体的な戦争ではない。日本と敵国との対立ではない。むしろ、19世紀後半に起こった後期印象派とリアリズムとの対立が提示されているのだ。確かに、これらの絵画を通じて、戦争の表象をめぐる分析を行うこともできるけど、これらの絵画が提示しているのは、戦争の現実ではなく色彩をめぐるイメージ、ある特定の単なるイメージだ。そしてそれは、キャンバス上の絵の具の配置という具体的な物質性を通じて、成り立っているにすぎないんだ。

 ■笑える批評とミニマリズムな文体

 角尾 『アート・パワー』を読んだ第一印象は、とても刺激的であると同時に、笑えるというか、ユーモアにあふれているという感触でした。例えば、この本の中では、映画『スター・ウォーズ』で登場するフォースのモチーフが、ヒトラーが考えていたゲルマン民族の神秘化された身体と、コンセプトとして同じであると指摘とされます(「英雄の身体――アドルフ・ヒトラーの芸術論」)。このことに僕としては、納得がいくと同時に、笑えてしまう部分もあるのですね。ヒトラーは元祖ジェダイ・マスターだったというわけです(笑)。また先ほどの、イメージの批評が明らかにするのは、イメージが崇高さとトイレの配合にすぎないということなのだ、という指摘も、納得できると同時に笑えてしまいました。あなたにとって、ユーモアやジョークといったものは、やはり大切なものなのでしょうか?

 グロイス そうだね。まず言っておきたいことは、私は常に、真理を伝えようとしている、ということだ。そして真理を伝えようとする者は、私たちの文明においては常に、コミカルなものとして見えるんだよ。これは、皮肉な運命ではあるんだけど。この点については、ミハイル・バフチンが説明しているね。彼が言うには、キリストにしてもソクラテスにしても、みんなコミカルだ。なぜなら、真理を言いたいという欲望それ自体が、まぬけさを露呈させるものだから。なぜまぬけかと言えば、他のみんなは、そんなものが存在しないことをハナから知っているし、しかも真理を公言するという行為自体が賢いやり方ではないことも知っているからだ。だからこそ、ニーチェはまぬけを愛した。そして、もしも真理を伝えたいと思うなら、君は賢くはなれない、知識人にはなれないんだよ(笑)。とんでもないまぬけにしか。そして人々は、君のことを笑うだろう。なぜならみんなは、通常の理性的な人間であれば、真理を伝えるなどという愚挙は決してしないと分かっているんだから(笑)。

 角尾 (笑)。ということは逆に、そのような理性的な人間が、知識人とされるわけですね?

 グロイス その通り。理性的な人間は知識人となり、そして知識人はインターネットなんかを通じて情報の交換をするんであって、真理を伝えたりはしないのさ。

 角尾 『アート・パワー』のもう一つの印象として、あなたの英文が非常に読みやすい、ということです。文法的にも議論の進め方においてもです。あなたにとって、美術批評を分かりやすく、また読みやすく書く、ということには、どのような目的意識があるのでしょうか?

 グロイス 英語だけでなく、ドイツ語でもロシア語でも、私は分かりやすく書くということを信条としているよ。極めて直接的で明瞭に書くスタイルが好きなんだ。なにせ、自分が真理に思えることを書いているだけなんだから。だから、書くものも自分の態度も、ますますユーモラスになっていくんだけどね(笑)。しかし基本的に批評においても、書いたものをシンプルにする訓練が必要だ。この点に関しては、私は多くをアヴァンギャルドのアーティストから教えてもらったよ。アヴァンギャルドにおいて形式のレベルで共通していることは、シンプルにするということだ。例えば、マレーヴィチの「黒の正方形」なんかその代表だね。アヴァンギャルドにおいては何を描くにしても、どんなに複雑なものでも、シンプルなフォームに還元される。そして、それをみんなが見て笑うのさ(笑)。

 角尾 そうですね(笑)。ただ日本では、批評が読みにくい文体で書かれることが多々ありますが。

 グロイス だろうね。ヨーロッパでもアメリカでも、その傾向はあるよ。それはフランスのスタイルなんだ。そして、もともとの始まりは、やはりヘーゲルだな。私はこうしたスタイルは好きになれない。一方、ロシアのスタイルは、とてもシンプルでミニマルだよ。全体的にミニマリズムなんだ。私もそうさ。ミニマリズムな批評の文体を常に心がけているんだ。