紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

この世界の全面的破壊へ

――アーティストがテロリストに対抗するために
ボリス・グロイス氏インタビュー(聞き手・角尾宣信)

 ■みんなで一緒に死ぬというアイディア

 角尾 近代美術館での対談で、あなたは変化というものに関して、とても印象的な指摘をされました。変化を重んじるアメリカそしてグローバルな資本主義を問題視しつつ、あなたが指摘されたことによると、ある状況が違う状況に変化することは、単なる配置の変換であって、本当の変化ではない。変化がつづくという意味では、変わりない。ゆえに本当の変化とは、変化がもはや生じえない状況に変化することであると。つまり、この世界が、不変のユートピアへと変化することが本当に根本的な変化なのである、ということですね。これは先ほど述べた、政治的崇高のイメージに対してあなたが示した対抗策とも関わってきます。政治的崇高のイメージが単なるイメージにすぎないと指摘することは、イメージ自体を変化させることではありません。むしろイメージ自体を、その物質的な基盤に引き戻し、単なるイメージと単なる物の配合という元の状態に戻して、それ以上変化が起きないようにすることだからです。他方、現在の政治的状況に関して言えば、本当に実際に変化を起こすことが難しくなっている閉塞感を感じます。

 グロイス 私もそう感じるよ。でもね、世界は流れる水のようにウェーヴを描いている。今回戦争が起き、破壊が起きる。すると反省してしばらくは平和がつづき、平和の中で競争が生じ、また再び致命的な破壊に至る。そしてまた反省して……とつづいていくんだよ。そういう意味では、私の考えは仏教的なクリスチャンでもあるんだが。それと今回、東大でのレクチャーでリオタールについて論じたけれど、彼は全面的な破壊について論じているわけだ。全面的な破壊が起こり、地球そのものがなくなる。そうしたら、変化はもはや生じないだろうし、そのような事態こそが、変化のない変化をもたらしうる。それなら可能じゃないかい?

 角尾 確かにそうですね(笑)。ただ、この全面的な破壊というモチーフは、あなたがしばしば論じている空間というテーマとも関わってくるように思います。あなたは、ニュートラルな空間、また絶対的な平等性が保証されている水平な空間といったものに関して論じてきました。そのような空間は、価値における違いを完全に破壊したあとに、その全様を表すと想定される点では、ある意味、全面的な破壊というモチーフとも、どこか関係しているように思うのです。

 グロイス まさにそうだよ。私が論じている空間というのは、あらゆる意味での全面的な破壊というものが勃発し、またその残骸を全て受けとめ、留めるものなんだ。しかし、全面的破壊というものは、全面的であると同時に、常に部分的なものに留まる。なぜなら、この宇宙それ自体は、破壊しえないように思えるから。空間それ自体もそれと同様だ。破壊されうるのは、この惑星やこの太陽系などであって、空間それ自体ではない。

 角尾 なるほど。ただ、全面的破壊に関しては、それが認識できるかどうかも含めて祈るしかない代物ですね。

 グロイス そうだなあ。祈るしかない。しかし基本的に、全面的破壊というものはよいものでもあるんだ。実際、ロシアの宇宙戦略の礎を築いたコンスタンチン・ツィオルコフスキーという男は、あらゆる原子がハッピーかハッピーでないか、そういう気分を持っていると信じていた。そして彼によると、動物や植物の体を成り立たせている原子たちはハッピーではないらしい。だから彼は、あらゆる動植物は破壊されるべきだと主張した。原子たちは、破壊によってこそハッピーに戻れるというわけだ。この話は、マレーヴィチの主張とも類似している。マレーヴィチの方は、こんなことを言っている。もし熱が出たら、私たちはハッピーではない。しかし、ウイルスたちは私たちの体内で増殖できてハッピーだ。そして、私たちの体もウイルスも、本質的には物質でできている点で共通している。だからウイルスたちの気分を、私たちは一緒に感じることができる。よって熱が出たら、自分の体ではなくウイルスを感じるようにすべし、と言うんだ。ラディカルなマテリアリズムは、こうした可能性にまで至るのであり、その観点からしたら、全面的破壊というものも、ある部分にとってはハッピーなことではないが、他の部分にとってはハッピーなことなんだ。例えば、原子たちにとってはね。

 角尾 そして、あなたにとってもですよね?

 グロイス うん、もちろん悪くないね(笑)。なぜなら、私があらゆるものと同時に死ぬというのは、よいアイディアだから。それは、全てがその時そのままの状態で消え去ることであり、一つの魂だけの孤独な死ではない。そして、全てはある意味で、もはや変わることがない不変のユートピアの状態に入るんだ。すると、みんなで一緒に死ぬというのは、これはまったく現実的なアイディアじゃないかい(笑)。

 ■コジェーヴは完全に間違っていた

 角尾 空間の話が出ましたので、具体的な都市の空間のこともお聞きしたいと思います。まず、今住んでいらっしゃるニューヨークはいかがでしょうか?

 グロイス まず私にとっての理想を言えば、それは砂漠のような荒涼としてシンプルな空間だね。それはとてもアヴァンギャルド的だから。しかし、それに比べてニューヨークは複雑だ。そしてその複雑さが少しずつ、疲労を堆積させていき、最終的にはニューヨークにいるあらゆる人が、そしてアメリカ全土のほとんどの人が、疲れている。今回のトランプの当選も、そのことと無縁ではない。それが意味しているのは、アメリカの中枢が完全に疲労し、これまでの世界の警察としての役割に耐えられなくなったということだ。そして、人々は極めて攻撃的になっている。アメリカにおけるルサンチマンの堆積は計り知れない。ほとんどみんな、他の人とコミュニケーションを取ろうとしないし、不満ばかりを溜め込んで、孤立したがる。そしてその理由は、みんな単に純粋に疲れているからなんだ。これはとても奇妙な文化だ。常にひたすら人々を疲れさせる文化なんだから。

 角尾 日本の方はどうでしょう? 日本もだいぶルサンチマンが溜まってきている感じはするのですが。

 グロイス おそらくそうだろう。ただ二点、欧米とは異なる点がある。まず日本社会は、欧米と比べるとかなり同一性が高い。だから英語を話す必要がない。だから、海外から来た私などは、名前を間違って書かれてしまうことがあるし、何が私の要望か、理解してもらうのもいちいち大変だ。そういった小さなことで、疲労が溜まる部分はあったね。こちらは瑣末な点。あともう一つは、これは本当にそうかどうか、ただ私の印象でしかないのだけれど、日本の社会には、ダダイズム的な不条理がある気がする。というのも、この社会は形式というものを非常に重視するよね。そして形式を重視すると、実際に何がどうなっているのか、つまり事実を軽視することになる。だから逆に言えば、形式さえ揃えておけば、あとは何でも望み通りに実行できるわけでもある。アメリカでは、形式ではなく内容の方が重視されるし、そこは厳しく検証される。しかし日本では、形式においてミスがなければ、あとは何をしても大丈夫だ。内容の方はだれも気にしない。

 角尾 なるほど。しかし一体、いつどこで、そのような印象を持たれたんです?

 グロイス いや、なんとなくそんな雰囲気を感じたんだよ。とにかく形式さえ守っておけば、この社会はとても辛抱強い。あとは何をしても耐えてくれるのさ(笑)。

 角尾 確かにそうですね(笑)。しかし日本に滞在してみて、コジェーヴの日本文化論についてはどう思われますか? あなたは『アート・パワー』の日本語版序文で、まさに彼の日本文化論を引用しました。彼が言うには、日本文化には他者から承認されるよう自己をデザインする強固な伝統があり、そのために自らの生命を犠牲にすることも厭わないのだと。彼のこの日本文化論は正しかったと、滞在を終えた今も思われますか?

 グロイス 彼は完全に間違っていた。むしろ日本社会は、ヨーロッパ的な部分を持っているのであり、それはアメリカにはないものだよ。それは何かというと、日本人は基本的に、自分の言っていることを信じていないということだ。だから、取引や交渉を行う余地もある。しかし、アメリカ人は自分の言うことを本当に信じている。また、何かを信じなければならないと信じこんでいる。しかし日本人は、ヨーロッパ人と同様に、何も信じる必要はないと考えているんだ。これはまさに、この社会の純粋な慣習となっていると感じたよ。

 (了)