紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

この世界の全面的破壊へ

――アーティストがテロリストに対抗するために
ボリス・グロイス氏インタビュー(聞き手・角尾宣信)

 ■現代企画室から著書『アート・パワー』の日本語訳が刊行されたボリス・グロイス氏がこのたび来日。1月13日から21日にかけて東京、大阪など各地でシンポジウム、イベントが開かれた。世界の現代美術界を牽引する批評家の一人とされる氏の目に、今日の芸術、日本社会はどのように映ったか。このたび、ボリス・グロイス氏にこれまでの日本滞在を振り返っていただき、本書をめぐってインタビューを行った。聞き手はボリス・グロイス日本招聘プロジェクト実行委員会の一員として今回の来日並びにシンポジウムを企画し、本書の翻訳者でもある角尾宣信氏にお願いした。(1月21日、東京・有楽町にて〔村田優・本紙編集〕)

 ■日本の美術館・アーティストの印象

 角尾 今回、日本で二か所の美術館を訪問し、展示を見ていただきました。大阪の国立国際美術館と東京の国立近代美術館です。これらは日本において、近現代美術の文脈で代表的な美術館ですが、欧米の近現代美術館との違いを何か感じましたか?

 グロイス まだ、明瞭には把握できていないんだ。大阪では、企画展としてPlayの展示を見たけど、東京では、近代美術館の常設展を見た。それらは展示の形態として大分異なっているのだから。けれども、全体として、展示のデザインの仕方は気に入ったよ。それに、美術館自体の建築もよかった。

 ただし、今日見た近代美術館の常設展に関しては、思うところがある。あの美術館の常設展は、日本のナショナル・アイデンティティと緊密に結びついている。この点において、欧米の美術館とは、だいぶ違っている。欧米の美術館の常設展は、国家の歴史とその時系列に関係なく展示を構成している。歴史的に異なる時期に属する作家の作品が、ほとんど混在するように展示が組まれているんだ。それに、例えばドイツの美術館なら、ドイツ出身のアーティストだけでなく、他の国のアーティストも含めたかたちで常設展が組まれる。だからそこには、その国の芸術というコンセプト自体が成立していない。むしろ企画展の方では一時的に、ナショナル・アイデンティティを明示するような展示がなされる。しかし常設展においては少なくとも、そのようなアイデンティティはとても不明瞭になっているんだ。この点が、まず明らかな違いだと思うね。

 角尾 なるほど。ただし国立近代美術館での対談において、あなたは美術館というものが常に国家という枠組みを意識せざるをえないと言っていましたよね。また、国立美術館は存在するが、インターナショナル・ミュージアムというものは未だないとも指摘しました。そこから、今日のグローバリズムが実は名ばかりのものであると喝破していたと思うのですが、この点からすると、欧米の美術館において、少なくとも常設展ではナショナル・アイデンティティが希薄であるという事実は、どのように理解すべきでしょうか?

 グロイス いや、美術館にとって国家という枠組みが機能するのは、美術館をコントロールする力の次元においてだ。確かに、展示の内容はインターナショナルなものとなっている。欧米の美術館で常設展として展示されるのは欧米の作品だけではないし、アジアやアフリカなど様々な地域の作品も含まれている。しかし、その美術館自体をコントロールしているのは、やはり国家権力なんだ。

 角尾 しかし、日本の場合を見てみると、その展示内容も、日本の歴史そして日本のアイデンティティにかなり偏向している、というわけですね?

 グロイス そうなんだ。もちろん美術館は、特に国立の美術館は、ある国家のアイデンティティの形成と発展に関するストーリーを語るという役目も負っていると見なされうるだろう。そして日本の場合は、実際このように見なされているわけだ。だけど欧米の場合、美術館がそうした役割を負っているとは見なされていない。そして常設展では、国家の芸術ではなく、芸術一般の形成と発展が語られるんだ。もちろん、そのようなストーリーの語りは、具体的な作品の選択に基づいているし、常にその選択にはその国の歴史的背景に基づいた偏りが生じるから、その点を批判することはできる。しかし、少なくともその目標は、インターナショナルなアート一般の形成と発展を語ることであって、国家のアートに焦点を当てているわけではないんだ。

 角尾 日本人のアーティストの印象はいかがでしょう?

 グロイス 私が語れるのはザックリとした印象でしかないんだよ。なにせ、そんなにたくさんのアーティストに包括的に出会えたわけではないからね。ただ印象としては、アーティストの関心は欧米のアーティストとあまり違わないな、という感じだった。彼らの提示するテーマや興味関心は欧米で目にしてきたものとあまり変わらなかった。例えば、シブハウスというアーティストに会ったけれど、彼らの興味関心はアメリカで60年代にアンディ・ウォーホルが行っていたファクトリーでの活動と本質的なところでは違いがない。その点では新しくないわけだ。さらに言えば、スタイルという点では同一性が目立っていたね。つまりそれは、アーティストのグループの中での同一性ということだ。例えば、ゲーテ・インスティテュートのイベントで作品発表をした8人のアーティストに関しては、半数近くがアーティスツ・ギルドというグループに属していて、彼らの中での違いよりも同一性の方がだいぶ目立っていたように感じた。この点は欧米とは異なっている。欧米のアーティストはグループを作っていたとしても、やはりインディペンデントということに重きを置くんだよ。だから、自分のスタイルを他のアーティストとは異なったものにしようとする。同一にはしないようにする。しかし日本のアーティストは、むしろ同一性の方に重きを置くように感じられたね。

 もう少し詳しく言うと、当然日本のアーティストにおいても主題に対する個人的なアプローチというものはあるんだよ。それは感じられる。しかし、私が言いたいのは、それが美学的にスタイルとして明瞭に示されていない、ということなんだ。ゲーテでのイベントに関して言えば、まずアーティストのプレゼンテーションがあったよね。あの場では、ほとんどすべてのアーティストが、自らが何を行っているのか、明示できていなかったように感じた。個人的なものは暗示されてはいる。しかし、明示されていない。だから逆に言うと、今後何度か会っていけば、そのうちそのアーティストの個人的なところが分かっていくかもしれない。しかも彼らは若いから、まだこの先、自分の行っていることを明瞭に意識できるようになるのかもしれない。しかし欧米のアーティストは、第一印象に束縛されている。彼らは、二度目などないと思い込んでいるふしがある。それで、最初から明瞭に他とは違う個人的なスタイルを出してくるわけだ。だからこの点で言うと、日本のアーティストは楽観的だね。彼らは初めから、二度目・三度目があると思っているわけだから。