紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

反レイシズム宣言

――戦後日本には存在しない「正義」としての反差別規範を打ち立てるために
インタビュー:梁英聖氏

 ■レイシズムが暴力に結びつく社会的条件とは何か

 ――なぜヘイトスピーチが頻発するのか? 「在特会がいるから」では答えになっていません。先にも触れましたが、本書第五章ではその「三つの原因」を挙げていますね。

  人権規範がない日本社会でも圧倒的にまずいと万人が言えるようなヘイトスピーチが、しかし実効的な意味を持っていて、増殖しているのはなぜなのか。結論としては、①「反レイシズム規範の欠如」、差別と区別をわけるモノサシさえないので、あそこまでひどくなるまで放置することしかできない。②「上からの差別煽動」、政治空間からの差別が庶民の差別に圧倒的な影響を与える。そして③「歴史否定」です。

 ここでは②の話をメインにしたいと思います。ミシェル・ヴィヴィオルカの『レイシズムの変貌』(明石書店)を読むと、政治空間と市民社会をわけて、政治空間にレイシズムが浸透するのが決定的に危ないと言っています。この指摘に納得し、着想を得ました。そのことを確信をもって言えるようになったのは、京都朝鮮学校襲撃事件を六〇、七〇年代と比較したときです。フーコーのようにいかなくとも、レイシズム暴力の系譜学はなされなければならない。私は、レイシズムが暴力に結びつく社会的条件とは何か、それらは時代を象徴するレイシズム暴力ごとにどのような違いを見せるのか、という問いを立てました。差別が具体的にどう暴力になり、人を殺すのか、その社会的条件を探る。そのとき、「差別煽動」というモノサシが非常に重要になります。「ヘイトスピーチは差別煽動なので危ない」とみんな言いますが、ヘイトスピーチを差別煽動しているものは何なのかを本当は問うべきです。少し脱線しますが、上の世代の人たちは暴力になる前の「偏見」としてのレイシズムをどうするのかといった、一見ひどくなさそうに見える差別や疎外を問題にする方向へ遡っていったと思います。しかしそれは「罠」だったんだと思います。暴力に転化するレイシズムをどうするのか考えなければならない。ヨーロッパやアメリカはそこで死に物狂いで闘いました。日本はそこさえスルーしているのに、先の徒競走の比喩で言えば「二周目」の話ばかりしたがる傾向があるので、そこにはアンチを唱えたかった。

 話を戻すと、姜徳相先生の『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社)に学ぶべきです。すごい本です。読む者は誰でも、書いてある事実に圧倒される。「これはひどいな」という以上に思考がいかない。これも「罠」だと思います。同書の分析には、なぜ暴力が人を殺したのかを、個別具体的なケースに即して解き明かそうとする並々ならぬ執念が漲っている。私が立てている問いは、姜徳相先生が既に立てています。差別が暴力になって人の命を奪う条件は何か。姜徳相先生は明確に、「国家」と言っています。九〇年代以降に「前夜」などが問うていた「国家責任」は、やはり少し抽象的、観念的でした。差別が暴力に結びつく社会的条件として本当に「国家」があったから国家責任を問う。これは規範形成に結びつく方向性でした。社会を変えて規範をつくっていくときに国家に責任をとらせるのは重要であるという実践的な課題としての責任の問題と、マジョリティ側の観念的アイデンティティポリティクスとしての「日本人としての責任」とでは意味が違う。私が本書に関東大震災の朝鮮人虐殺のことを入れているのはそのためで、国家が庶民を本当に殺すということが、これほど明確に示されている例もないからです。

  本書で述べたように、関東大震災の朝鮮人虐殺と朝高生襲撃事件とチマチョゴリ事件とヘイトスピーチを比較してみると、ものすごくクリアに見えてきたものがありました。差別が暴力に結びつく社会的回路の違いです。六〇、七〇年代のそれは「極右」でした。国士舘で皇国史観教育を受けた少年が、「底辺」学生を使って「あいつらをやってこい」と言う。つまり犯人がはっきりしています。小沢有作さんはそこをクリアに分析しています。ここでなされた暴力は本当にひどいものですが、しかし差別が暴力に結びつく社会的回路は限定されていたかもしれない。差別禁止法がなく、もちろん現在起きているような自然発生的なレイシズム暴力もあったはずなのですが、日本政府も自治体も調査していないのでわかりません。

  八〇年代後半以後のチマチョゴリ事件は女性をターゲットにしているので、セクシズムとも結びついている。しかし恐ろしいのは、本書で詳述しましたが、差別が暴力に結びつく社会的回路が「自然発生的」になっている点です。/p>

 七〇年代までは「極右」が命じていたならそれを潰せばよかった。しかし八〇年代以降は「上からの差別煽動」が犯罪煽動の「主犯」となってゆく。冷戦崩壊後、パチンコ疑惑や核疑惑など、日本の対北朝鮮政策は非常に排外主義的になっていくし、在日朝鮮人は弾圧されるし、メディアもそれを煽る。それで、「普通の人間」が「自然発生的」に差別に走るようになる。これは「画期的」なことです。誰も命令しなくても、「雰囲気」で朝鮮人が差別されるようになった。

  では現在のヘイトスピーチはどうか。レイシズム暴力が自然発生的に起こるだけでなく、レイシスト極右組織までもがついに自然発生的に立ち上がるまでになった。「上からの差別煽動」の力による、差別が暴力に結びつく社会的回路の画期的な発達が、ヘイトスピーチを社会を破壊するレイシズム暴力にしたのです。

 ■反レイシズムというモノサシを社会に埋め込む

 ――「日本は誰もが安心してレイシストになれる」(P184)という一文が本書にありますが、まさにそうなったわけですね。

 さて、本書には「キモ」となるところがたくさんありますが、やはり第六章「ヘイトスピーチ、レイシズムをなくすために必要なこと」は、最大の山場だと思います。

  そのとてつもない困難性を直視することが絶対に必要です。言い方は悪いですが、日本型ヘイトスピーチは、それが起きている時点でもう「終わり」です。差別禁止法制のあるアメリカやヨーロッパのヘイトスピーチとはやはり違うと思います。もちろん共通点はありますが、しかし日本ではまさに誰もが安心して差別できる。自分が絶対的な安全圏――逮捕もされないし訴訟リスクもない――から、のうのうと生きていける状況のなかで、遊び半分の極右活動をすることができる状態が現に存在してしまっている。あり得ないことがもう起きているのが日本のヘイトスピーチです。これでは済まないですよ。この状況をどうするかは、とてつもない困難な課題です。また、第五章で書きましたが、「反レイシズム」だけではダメです。先に話した五二年体制の問題は、東アジア冷戦構造の話ですから、日本できちんと戦後補償をし、公的規範をつくり、歴史教育をし、差別禁止法をつくる必要が出てくる。

 本書では、反植民地主義という「マルチイシュー」の課題に対して、「シングルイシュー」としての反レイシズム規範を闘い取っていくということが、それだけでは不十分だけれども決定的に重要だと言いたかったのです。だから「反歴史否定」ではなく「反レイシズム」なんです。なぜなら、反歴史否定規範をつくるためには日本政府がアジア侵略の史実を認定させることが必要だからです。日本の歴史学は日本軍「慰安婦」問題などで世界的な研究をしていますが、それを日本政府に認めさせることはできていない。なぜか。人々の意識の問題ではなく、経済的・政治的構造の問題です。日本政府は戦後補償や謝罪を拒んでいる以前に、アジア侵略の史実を認めず、真相究明を拒んでいる。これをどう崩すのかが難題で、この日本において歴史否定に抗するのが難しい最大の理由でしょう。だから反レイシズムというシングルイシューと、反歴史否定というシングルイシューをきちんとわけて、まだしも闘いやすい反レイシズムを先行させる戦略が非常に重要なものとなります。「慰安婦問題はなかった」と言われたとき、「いや、あった」と言うためには、勉強をしなければならない。しかも規範がない。しかし「グループに対する不平等を煽動するからダメなんだ」という論理であれば、「慰安婦問題はなかった」との言い方に対し、「あるかないかは知らないが、それによってアジアにいる人や朝鮮人が差別されるのはおかしい」と対抗可能です。いま、歴史的事実を日本政府にきちんと認めさせるという運動が極めて困難である一方、日本型のモノサシ、「グループに対する不平等」という質を持ったモノサシを日本社会に埋め込んでいく闘争が決定的に重要です。それを闘い取っていければ、反歴史否定を規範としてつくっていくときの不可欠な足がかりになるはずです。

 また、事実の蓄積、被害実態の調査をし、それが見えるようにしていく運動が重要です。個別の差別をなくしていく取り組みを、反レイシズムというモノサシをつくっていく社会的回路に結びつけていけるところを切り拓いていくような闘争です。私が重視しているのは政治家のレイシズム発言です。これを集めだして、いま二〇〇〇件以上をネット上の「政治家レイシズムデータベース」で公開しています。チェックするときには気が狂いそうです(笑)。これによって差別を、それも公人の差別を可視化していくことができる。あとはきちんとしたルールを制定していくことです。立法だけでなく、産業、地域、学校、家族など市民社会のなかでどのように「グループに対する不平等」を許さないモノサシをルール化できるか。例えば産業民主主義的に言えば、アスベストを多少吸うのはしょうがないとか、長時間労働で過労死する人が多少出ても仕方がない、といった社会に絶対にしてはいけませんよね。社会が再生産可能なレベルで労働時間や食品添加物などを規制するのと同じレベルで差別を規制していく。「差別を規制する」と言うと「思想」の問題だと思われるでしょうが、違います。産業廃棄物をどうなくしていくかといったことと同じ文脈の、法規制や、社会的バリアとしての常識的なルールを社会にどう埋め込めるかという問題なのです。そうした方向で闘い取っていこうという叩き台は、本書で出せていると思います。

 差別を許さないと思えるようなモノサシ、武器を、いかに社会に埋め込めるか。だから、差別をなくす運動なのではなく、差別をなくそうというときに人々が依拠できるような平等原理を社会に構築する運動こそが、「反差別運動」です。いままでは、差別を一つひとつなくしていけば平等原理は闘い取られるだろうという素朴な、「自然」な理解があったと思いますが、まったくそうはいかないメカニズムがある。それが五二年体制と日本型企業社会です。第五章で企業社会に触れたのは本書のもう一つの「キモ」です。「グループに対する不平等」はダメだという規範をつくったら、長期雇用と年功賃金を柱とする日本型雇用システムを規範としている日本の企業社会は成り立たないか強い社会統合力を持てない。同一(価値)労働同一賃金という社会の最低限の平等原理ぐらいは確立できないと、実は反差別運動は闘いえないと考えています。

 ――そして「あとがき」に辿り着くと、初めて梁さんの「個人的な話」が出てきます。

  本書は歪な本です。従来の反差別本とはまったく違った書き方をしています。本書は差別のひどさを書いた本ではないですし、マイノリティの被害を扱ってもいませんし、マイノリティのエンパワーメントや相互理解を訴えるような本でもないですし、法律論でもないし、歴史的説明だけをしている本でもありません。社会規範から差別を考えるという方法をとったのは、いま在日はどうなっているのか、在日がどのくらい差別を受けているのか、語りたいことは山ほどありますが、コミュニケーションできる状況ではないからです。もちろん反レイシズム規範をつくっていくうえで被害の量と質を記録しておく実践は重要です。しかし「ヘイトスピーチの被害」という問題を立てた瞬間、在日がどのくらい被害を受けているかが語れなくなる権力関係が強力に作用している。というのは、ヨーロッパやアメリカでは基本的に差別禁止法があって、マイノリティ政策があってもなお、解決が難しいハードケースとしてヘイトスピーチが問題になっています。裁判もできるし、被害者の実態を国が調査しますし、警察にヘイトクライム捜査班がある。それでもなくならない差別、あるいはそういうシステムがあっても疎外される若者をどうするのかという問題が立てられています。そこでようやくヘイトスピーチの被害が語れるわけで、その文脈において「沈黙効果」が問われている。アメリカでは黒人奴隷制に対して長年の血みどろの闘争があり、リンチや暗殺にも屈せず公民権闘争をやり抜いたのに、「何も変わっていないではないか」という「絶望」としての沈黙が問われているのではないですか。日本の場合はまったく違う。差別禁止法もないし、教科書にも載っていない。私は日本国籍を持っていないし、投票権もない。朝鮮半島は分断され、日朝関係はおろか日韓関係さえ最悪で、在日は引き裂かれている。従来の差別についても在日はほとんど言葉を持たず「沈黙」を強いられてきたその上に、最悪の差別としてのヘイトスピーチが頻発しているわけです。ヘイトスピーチ被害について語ろうとしたときに、共有すべき前提として、このような歴史や法制度の複雑さを説明せねばならない。しかし被害実態を聞きたい人は、そういうことが聞きたいわけではない。聞き手が聞きたがる、わかりやすい「ヘイトスピーチ被害」を語れば語るほど、あまりにもひどすぎる差別だけが「被害」として切り取られていく。議論の軸が止めどなくズレていく。だから本書は「被害を語る本」にはしたくなかった。むしろ被害を語るために必要な条件が何であるかを明らかにしたかった。そのうちの一つかつ最も喫緊なのが反レイシズムだということです。日本には反レイシズム規範も人権規範も反歴史否定規範もない。そうしたなかで、私たちがアイデンティティや人権侵害を語るときの社会共通の言語がないし、マイノリティ同士の共通言語もない。あるのは市場原理や「自己責任論」です。

 比喩で言えば、いま在日は差別の「寒さ」に「凍え死にそうな人間」だと思う。凍え死にそうな人間は、自分の置かれた環境が寒いということがわからない。わかるのは、暖かい部屋に入ったときです。室内温度というモノサシによって外気温を測るように、人権規範というモノサシが身近に感じられなければ在日は差別の被害を言語化することはできないでしょう。それを早く、しかもたくさんつくらなければならない。おそらく「前夜」がやっていたのは、「そういうモノサシをつくってもダメだ」ということでした。国内のモノサシのレベル、あるいはモノサシが持つ一国性への批判。それは正しいんです、欧米では。つまり「反レイシズム2.0」をいくら闘い取っても、資本主義や国民国家というシステムがある以上はダメなんだと。これは欧米で云うところのポストコロニアリズムであって、「前夜」はそれを理論として輸入した。その意義は確かにありました。しかし、アメリカ・ヨーロッパの文脈と日本のそれは、重なりつつまったく違う状況があって、そこで何をするかという実践的な運動や理論がなかった。「前夜」系知識人がヘイトスピーチ問題についてきちんと応答できなかったのはそのためだと思います。だから私たち若手の研究者グループでつくっていくしかない。

 いずれにせよ、とてつもない困難な課題があります。差別をなくすのではなく平等原理をつくるというだけでもダメで、資本主義や国民国家とどう闘うかという、大枠のトータルな社会変革のような話もせざるをえない。しかし、それだけを言っていても、もはや知識人の「考え抜かれた意図的な怠慢」にもなりかねない状況です。「トータルな社会変革」とは、それに還元されないにせよ、具体的にはシングルイシューの束です。反レイシズム規範をつくる、反歴史否定規範をつくる、米軍基地を縮小させる、朝鮮半島の統一に向かうなど、そうした複数の「紐」を「縄」にしていくといったイメージです。マルチイシューとしての反植民地主義とは「縄」をつくるトータルな変革戦略であり、そうした志向を持ちながらも、「縄」をつくる無数の「紐」のうちの一つ、「反レイシズム1.0」を闘い取ろうという戦略です。その叩き台が本書なのです。

 (了)