紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

民話の世界、口承・伝承から書承の時代へ

――各地方の生活、風習を含んで、現代まで流れきている
評者:井出 彰

 この世界に小説や物語の類がなかったら、実に退屈で、人生は薄っぺらなものに違いない。近代に入って命名された小説はともかく、われわれの持つ想像力、創造力の豊かさ、楽しさ、時には哀しみや苦しみは、すべて物語が綾なしているといっても過言ではない。その物語の原型や源流を辿れば、神話や民話、昔ばなしやお伽話の類にゆきつく。

 はじめは、各地方々々、村々で起こった奇怪な現象や特殊な経験が、驚きや畏れと共に語られ、教訓を含めて共有され語り継がれる。そこに偶々巡り回ってきた旅芸人や行商、座頭や私度僧などの漂泊の民が村から村へ、町から町へと拡めてゆく。伝えられた話は、その地の風土色に染まりながら記憶され、幾つかは記録されてきた。多くの民話や昔ばなしは、全国各地でバラバラのようで、どこか遠い過去の記憶の底で共通し類似している。逆に類似しているようで、その土地々々の生活や風習を含んで異なったものと映る。

 例えば、河童は、川太郎、ガッパなど呼び名も数十種ある。たいていは顔の色は青色だが、民話の古里、岩手県の遠野では赤い。昔、東北を襲った何度かの飢饉によって自分の赤子を捨てざるを得なかった。庭や自分の土地に埋葬できた農民たちは、幻影や幻聴に悩まされて座敷童子の存在を聴くが、埋葬する土地を持たない小作農民たちは仕方なく、川に捨て流すしかなかった。夕闇にかすむ岩や時折漂ってくる木片に、亡き赤子の幻を見るしかなかった悲しさを映している。

 また短い原型的な話が重なり合ったり、繋ぎ合わされたりして新しい物語が創り上げられることもある。例えば『竹取物語』は、小さ子伝説と分類される一寸法師や桃太郎など小さく生まれた者の物語と、天から降りてきて水浴びしているうちに衣を盗まれ結婚を強いられる天女伝説が、求婚難題説話を挟んで出来上がっていることに気づく。また、松谷みよ子の『龍の子太郎』は、信州圏内の上小地域に伝わる人間と蛇の間に生まれた小泉小太郎と、山一つ隔てた松本盆地の開拓者・泉小太郎伝説が結びつけられて出来た新しい民話であることも知る。底流には三輪山伝説が流れている。

 われわれは、高度成長の只中で朝から晩まで、この国の歯車として忙しく働かされてきた。たまに早く帰ってテレビをつけると常田富士男と市原悦子の独特の語りで展開されるアニメ「まんが日本昔ばなし」を眺めながら、ほっとした気分になった。何年続いたろうか、いつの間にか気がついたら番組はなくなってしまっていた。まさか常田富士男と市原悦子さんが老いてしまったからか、否、そんなことではない。高度成長が頂点に達しバブルとなってはじけた。今やカネ、カネ、カネと蝉のように連呼する経済主義、その道具となって本来の姿を喪った科学主義、一触即発寸前の個人の欲望をむき出しにしたポピュリズム。残ったものは歴史の積み重ねや文化の豊かさもない無惨な、表面だけがきらびやかで内実のないものばかりだ。

 そんな時に、かつては口から口へと伝えられた昔ばなし、テレビで映されたアニメでブームとなった昔ばなしが、装いも新たに二〇一五年から毎月三冊ずつ再刊され続けてきて、この五月に全七九巻で完結する。

 口伝えに継がれてきたこの類も、今や語り伝えるべき、主には老人たちも少なくなった。生活環境の激変もあるだろう。共働きの親も子に伝える時間も手段もない。老人の方も、語りかけるべき孫たちは正月か盆に帰ってくるだけである。

 そんな時に、本の存在が浮かび上がってくる。並べられた本から任意の時に一冊選び出して読む。本を通して昔ばなしを知る。書承である。今や口承、伝承の時代から書承の時代である。日本の心の宝物が伝え継がれてゆく新しい方法なのである。

(本紙編集)