紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

1949年創刊。硬派な人文書からホットなサブカルチャーまで紹介する週刊の書評新聞「図書新聞」とe-honのコラボ企画!

「図書新聞」の紙面で紹介した書評や、対談記事をご紹介します。【週1回更新】
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 ◆ 3306号(6月3日発売号掲載)

どっこい生きてる

――失敗しろ! 転べ! そして立ち上がれ! 大丈夫だから!
対談:トミヤマユキコ×清田隆之

 ■トミヤマユキコ・清田隆之著『大学1年生の歩き方――先輩たちが教える転ばぬ先の12のステップ』が左右社より刊行された。タイトルだけを見ると、いわゆるよくあるマニュアル本のように思えるが、中身はさにあらず。昨今「ハヤリ」の「役に立つこと第一主義」に真っ向から反旗を翻す驚くべき内容となっている。著者の二人、トミヤマユキコ氏と清田隆之氏に対談していただいた。(対談日・4月14日、東京・神田神保町にて。須藤巧・本紙編集)

 ■実用至上主義、マニュアル至上主義には中指を立てたい

 トミヤマ 本書は役に立つマニュアルのふりをしてつくったけど、実のところ、大学一年生に実用的なマニュアルをインストールしたいわけではないんですよね。自分らしく生きるための考え方を伝えたいのであって、「こうすれば勝ち組になれます」と言いたいわけではない。でも、マニュアルのフリをしないと、なかなか手にとってもらえない(笑)。…続きを読む

モダニズムの両義性に光をあてる

――『上海』と『旅愁』をワンセットとして読む
評者:中山弘明

 マイクが嫌いだ。大学で教壇に立っていて、およそ許されないことだが、マイクで発話すること――肉声を拡大してそれを自身で聞いてしまうことの違和感、気恥ずかしさに堪えられないのかもしれない。カラオケは言うに及ばずである。こんな極めて私的な事柄から小文を書き出したのも、本書の中に大きな位置を占める、「『国民』統合の〈声〉の中で〈書く〉こと」と題された、ラジオ専門の時局雑誌『放送』の分析に、共感するところが少なからずあったからである。ここでは、戦争期に日本放送協会から刊行されていた雑誌とその文芸欄に掲載された作品群の調査を踏まえて、所謂「リテラシーとオラリティーの相克」が丹念に検証されていく。玉音放送は言うまでもなく、戦時下にラジオというメディアが国民の一体感を創り上げた役割の大きさは夙に指摘されるところだし、その電波が国境を越え、当時の日本の植民地的欲望ともリンクした事実も贅言を要しない。大正末期に急速に普及したラジオは、言わばモダニズムの一面を確実に象徴するメディアとして、作家達にも大きな影響を残した。当時、実際マイクの前に立って講話したり、自作朗読を音盤に残した作家も少なくない。マイクの前で発話することには、どこか人間を陶酔に導く蠱惑が隠れている気がしてならない。つまりこうした発話行為と、時差を内包した書記行為の間には、必然的に微細なズレが存在する。本書を解く鍵も実はこのあたりに見出せそうだ。すなわちモダニズムが周囲を巻き込み、陶酔を作り出す反面、そこからこぼれ落ちていくノイズもまた存在する。著者は横光利一という作家を手がかりに、こうした微細なズレを顕在化していく。…続きを読む

目に見えないものを撮影しようとしている

――少林寺を通じた人間の魅力が惹き出されている
評者:宮田徹也

 銀座も八丁目となると、新橋に近くなる。大通りの天麩羅天國から二本裏のラーメンはしごの地下二階に、ヴァニラ画廊がある。ヴァニラ画廊はP・モルニエやH・R・ギーガーなどの正統な美術からマンガやイラストなど分野を超克して扱うので、美術とは何かを考えさせられるし、実に様々なお客が集うことに驚かされる。近代には人間が百人百様であることを認知させる使命があり、現代は権威に縛られずその意志を引き継がなければならない。ヴァニラ画廊の仕事は重要だ。

 今年の年明け第一弾の展覧会が大串祥子写真展「少林寺」(一月八日〔日〕~二一日〔土〕)であった。修行者の「いま、ここ」が確実に封じ込められている。その時にしか起こりえない事象が、周りの環境を含めて写し撮られている。言葉を換えれば、それだけしか映り込んでいない。人間形成としての、勝敗無き競技としての少林寺の主観的なドキュメンタリーでも客観的なストレート・フォトでもない。見れば見るほど少林寺を通じた人間の魅力が惹き出されているのだ。すると少林寺でなくとも人間を見る眼が変わり、誰であろうとそのような個性は持ち得ていることが理解される。…続きを読む