紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

モダニズムの両義性に光をあてる

――『上海』と『旅愁』をワンセットとして読む
評者:中山弘明

 マイクが嫌いだ。大学で教壇に立っていて、およそ許されないことだが、マイクで発話すること――肉声を拡大してそれを自身で聞いてしまうことの違和感、気恥ずかしさに堪えられないのかもしれない。カラオケは言うに及ばずである。こんな極めて私的な事柄から小文を書き出したのも、本書の中に大きな位置を占める、「『国民』統合の〈声〉の中で〈書く〉こと」と題された、ラジオ専門の時局雑誌『放送』の分析に、共感するところが少なからずあったからである。ここでは、戦争期に日本放送協会から刊行されていた雑誌とその文芸欄に掲載された作品群の調査を踏まえて、所謂「リテラシーとオラリティーの相克」が丹念に検証されていく。玉音放送は言うまでもなく、戦時下にラジオというメディアが国民の一体感を創り上げた役割の大きさは夙に指摘されるところだし、その電波が国境を越え、当時の日本の植民地的欲望ともリンクした事実も贅言を要しない。大正末期に急速に普及したラジオは、言わばモダニズムの一面を確実に象徴するメディアとして、作家達にも大きな影響を残した。当時、実際マイクの前に立って講話したり、自作朗読を音盤に残した作家も少なくない。マイクの前で発話することには、どこか人間を陶酔に導く蠱惑が隠れている気がしてならない。つまりこうした発話行為と、時差を内包した書記行為の間には、必然的に微細なズレが存在する。本書を解く鍵も実はこのあたりに見出せそうだ。すなわちモダニズムが周囲を巻き込み、陶酔を作り出す反面、そこからこぼれ落ちていくノイズもまた存在する。著者は横光利一という作家を手がかりに、こうした微細なズレを顕在化していく。

 近年、横光研究はますます好調だ。草稿研究や検閲といった先端的文学研究のトピックスと交差しながら確実な実証・調査も進んでいる。しかし一方で気になるのは、横光という作家が戦後長く封印され、タブーであった戦争責任をめぐる肝心の論議が、どこかで忘却されているような印象も拭えない。言わばモダニズムの暗黒面が置きざりにされている感も残るのである。これは恐らく我々の生きる現代とも関わる。昭和初期をめぐって、「日本のみ」がなぜ急速に近代化し得たのかという日本資本主義論争における近代史への疑義や、逆に遅れて近代化したことによる未分化な主体性の是非を問う「近代の超克」論議などともリンクするだろう。そうした近代化にともなう不透明な謎を、劇的に断ち切るものとして戦争が選ばれた意味は大きい。本書の特質は、横光の上海体験と欧州旅行――言わば作品『上海』と『旅愁』をワンセットとして読むという試みにあると言ってよいだろう。そこにモダニズムの両義性に光をあてようという著者の戦略が見て取れる。たとえば言葉の問題がそれである。「『上海』の登場人物達は何語でしゃべっていたのだろう」という著者の問いは重い。言うまでもなく、言語ほどその共同体での階層性を露わにするものはないからだ。あるいは「欧州」と対決すべく旅をしながら、一方で横光がアジア体験を遡及的に模索していた事実も重要である。それは「自己発見」でありながら同時に、身近な「他者」を見失っていくプロセスでもあるだけに複雑だ。植民地の同化政策とシンクロしながら、一面で『旅愁』を、「ナショナリズム概念の制度性」を「脱構築」するテクストと見なし得るかどうかについては、従って微妙な要素がなお残るだろう。

 むしろ興味を引かれたのは、そうした日本の「外地」への欲望と同時に、昭和期の知識人を「故郷喪失」の寂寞が襲っていた事実だ。本書では、そうした言わば疑似故郷として、横光における「関西文化圏」の意味が問われている。「故郷的」なものと「都市的」なもの、そしてその外延としての「異文化」は、けして対比的な問題系ではない。その意味でハイブリッドな中間性を抱える「関西」を視点に据えて見えてくるものは大きい。

 本書はこうしたモダニズムへの重要な問いかけに満ちてはいるものの、一方で個々の作品分析はボリュームに乏しい感も残った。特に戦後の『夜の靴』、『微笑』についてはより踏み込んだ議論がほしい。また、これは横光研究の共通した盲点だが、一般的に「通俗的」と称される『寝園』、『家族会議』ほかの長編小説群への言及があまりにも少ないのはどうしたことなのだろうか。「純粋小説」の問題は言うまでもなく、本書が取り上げるモダニズムの問題と、こうした作品における風俗や〈日本〉という表象についても、多くは手つかずの分野と言えるだろう。当時の横光の人気や可能性は、実はこうした小説にあるのかもしれないと密かに思うからである。

 マイクの問題に戻ろう。本書には、プロレタリア文学が「大衆」を組織するのに決定的に失敗したのに対して、総力戦体制下のメディアがいともたやすく「大衆」を「国民」として動員し得たのはなぜかという極めて重要な問いかけがある。ここで見落とせないのは、恐らく「金」の問題ではないのか。先の「通俗小説」ともむろん関わる。微細なテクストのズレを顕在化する作業は、むろん今後も反復して継続されねばならないが、それを蹴散らして邁進するのが何よりも「資本」の論理である。それこそがモダニズムの陶酔の美学を支え、戦争ともリンクすることは本書の読者である我々が肝に銘じねばならぬ事実である。マイクを使って声高に語ることを、この際一度止めてみてはどうか。そこから「異言語」がかすかに聞こえてくるのではないだろうか。(徳島文理大学教授)