紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

手塚治虫マンガの原点は 昆虫採集にあった

――手塚は小学生のときからすでに天才だった
評者:大野秀樹

 手塚治虫の大ファンである編著者らは、二〇一六年四月、手塚プロダクション資料室長で「手塚マンガの生き字引」と呼ばれた森晴路が急逝したときに危機感を覚えた。〈「手塚治虫が歴史になってしまう」。人口に膾炙している手塚治虫伝説ではない、少年時代の手塚治虫に関する証言をそのまま記録する本を作りたいと思いました。今まで書いた原稿を整理する作業を急ピッチで進めました〉。これが、本書を生んだきっかけである。

 主な証言者は、手塚の実弟の浩、実妹の宇都美奈子や、手塚が在校した大阪府池田師範学校附属小学校・大阪府立北野中学校の同級生、同窓生、および手塚プロのスタッフらだ。手塚の同級生は米寿を迎える年齢であったが、この年代のヒトたちは、自分の生きてきた時代や戦争体験が活字になることにものすごく執念を燃やしているようで、取材はスムーズに進んだ。エピソードをいくつか紹介したい。

 小学校同級生‥手塚は、クラスの中にいたガキ大将や番長クラスの子どもにひどい目に遭わされ、クラスメイトからも馬鹿にされて、いびりの標的になっていた、と伝記に書いたり講演でも述べていた。たくさんの作家も、彼の話を参考に伝記を書くので、今では一般に、手塚は子どもの頃はいじめられっ子で、泣き虫だったというのが定説となっている。実はそんなことはまったくない。非常に仲のよいクラスで、卒業後六五年にもなるのに、いまだにクラス会をやっているくらいだ。彼は自己顕示欲が強く、豊かな創作力が生み出したつくり話に違いない。いじめられたという負のイメージをいえば、読むヒト聞くヒトに感動を与える、といった気持ちがあったかもしれない。

 手塚浩は、歴史というものは半分が真実であるとすれば、後の半分はフィクションで構成された物語というヒトがいるけれど、一人の人間の歴史にもまったく同じことがいえるのではないか、と続ける。例えば、北野中学時代の戦争体験を描いた自伝的マンガ「紙の砦」。タイトルは、悲惨な毎日の中、マンガを描き続けることで抵抗を示したことに由来する。「戦争は嫌だ」という手塚の思いの原点だ。一方、実際は脚色や誇張をふんだんに交えている。よく知られた火の見櫓にのぼったシーンもフィクションであり、(なかば無意識的かもしれない)手塚一流のサービス精神だったようだ。

 浩・美奈子‥ヒョウタンツギやスパイダーと比べると影が薄いが、愛嬌のあるママー(フクロウの一種)を発案したのは美奈子だ。手塚の代名詞のようなヒョウタンツギと、その首がキリンのように伸びたブクツギキュも美奈子が生みの親である。浩は、「オムカエデゴンス」という台詞のスパイダーの原画をつくった。こうして、治虫を中心に幼い兄妹が一緒にマンガを共作して、いろんなキャラクターを生み出し、後の手塚作品に登場するようになった。

 浩・中学校同級生・手塚プロスタッフ‥小学校四年生のときに同級生から昆虫採集と標本作製の手ほどきを受けた手塚は、中学校でも同級生数人と雑誌を出すほど、昆虫採集にますますのめり込んだ。しかし、戦後まもなくして突然昆虫から離れた。戦争が終わった一九四五年にも続けていた事実は、戦争が直接影響したのではない、と推測された。おそらく、昆虫の生涯は自分で脚色しない限り、それ以上発展しないということに限界を感じたのではないか。要するに、自分の趣味としての昆虫に限界を感じた、それ以上に発展させることは昆虫に対する冒涜ではないか、と考えたのであろう。だが、手塚作品は昆虫から大きな影響を受けている。昆虫の完全変態を何度もみて、マンガやアニメーションのメタモルフォーゼに発展したのは間違いない。さらに、同系統の配色、補色の妙、反対色の対比などの昆虫の無限に近い多彩さは、少年手塚治虫の美的感覚を育んだに違いない。

 本書は、紫綬褒章を辞退するためにわざわざ文部省に出向いたなど、気分が高揚するようなエピソードはあまりみられないが、手塚ファンなら見逃せない、すでに天才ぶりを発揮していた手塚少年の足跡でいっぱいだ。編著者の一人‥手塚治虫の姿が、ずっと生き続けますように――。

 (社会医療法人財団大和会理事長・杏林大学名誉教授)