紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

今後50年出てこない仕事

国民文学である『源氏物語』を広く、正しく知ってほしい
中野幸一氏インタビュー

 ■難しいことを難しく書くのはやさしい

 ――『源氏物語』を訳してみて難しかったところ、苦労したところ、本書ならではの長所は他にありますか。

 中野 そうですね。やはり現代語訳における大きな問題として、主語の表記があります。古文では主語はありませんが、現代語訳でいちいち主語を補っていったら煩わしくなってしまいます。そこで煩わしくない程度に、たとえば「宮」と出てきたら括弧して(匂宮)と対応しました。しかも、『源氏物語』に出てくる男は主に官職で登場しますが、その官職の位も巻ごとに上がっていきます。薫ならば、最初は〈中将〉として出てきますが、やがて〈中納言〉となり、その後も上がっていくので、官職だけでは主語がわかりません。そこで、見開きに一つぐらいは括弧付きでも主語を明らかにしています。こういう表記の仕方は現代語訳の本としては本書が初めてだと思います。ただ、語りの姿勢を重んじながらも、これは実のところ読者に目を求めてもいるんです。というのも、括弧内なんて普通は読まないでしょうから(笑)。

 それから、本書には重くならない程度に頭注も付けています。口語訳で頭注があるのは谷崎源氏だけですが、それでも簡単なものです。今回のものでは歌の技巧なども記していますので勉強になるのではないかと思います。有職故実なんかも他の現代語訳では特に触れることはありませんので。

 また、口語訳の本で巻末にアカデミックな論文をつけたり貴族の生活習慣の資料を入れたりしているのも本書が初めてではないかと思います。これだけをまとめて集めるだけでも平安文学事典になります。それから柔らかい、原色を使わない表紙や帯の色を見てどう感じますか? まさに平安の襲の色目みたいでしょう。装丁で色をたくさん使いたいというのは私が提案しましたが、結果として非常に見栄えがよいものができ、カルチャー講座のご婦人方も皆本を見て買いたくなったそうです。これは編集部のお手柄ですね。帯だって、同じ色のものにすれば十分の一の予算で済むわけですが(笑)、出版社も本書のために力を入れてくれたのがよくわかります。

 また、わざわざ正訳と名付けたのは、少なくとも文法として、日本語として正しく訳すように心掛けたからです。たとえば「桐壺」の冒頭、「いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり」について、この「あらぬが」の「が」は格助詞なんですね。だから本来「それほど貴いお家柄ではないお方で」と訳さなくてはなりませんが、これまでのものでは「……お方だけれども」という逆接の意味で訳しています。これは文法的にあきらかな間違いです。それから、次の「時めきたまふありけり」は、ほとんどの訳で「寵愛をもっぱらにしているお方があった」となっていますが、ここの主語は人でしょう。人があった、という日本語はありません。人がおりました、とならなければならない。さらに、「いづれの御時にか」もほとんどの訳はいつ=whenと訳していますが、私はここを誰=whoで訳している。「御時」とある以上、帝の時代を示しているのだから、この「いづれの」は「どなたの」となります。

 このように、たった三行読んだだけでもこれまでの訳と私の訳が違うことがわかると思います。非常に厳密に訳していると言えるでしょう。

 ――現在中公文庫に入っている谷崎源氏は1964年から翌年にかけて刊行された、いわゆる新々訳ですが、こちらだと「たいして重い身分ではなくて」と格助詞として訳していますね。

 中野 しかし、旧訳では違います。格助詞と訳しているのは新訳からで、それこそ玉上さんの手が入ったからでしょう。やはり研究者がついているのといないのとでは、訳も違うと思います。作家はこういった細かい点には気がつかないんじゃないかな。

 ただ、本文対照や頭注、さらに付録もある現代語訳の本は今後50年は出ないのではないでしょうか。私は本書の前に同じ勉誠出版から『フルカラー 見る・知る・読む 源氏物語』を出しましたが、これもまた贅沢な書籍です。全体的にやさしく書いてあるんだけど格は落としたくない、という意識を持って書きました。難しいことを難しく書くのはやさしいですが、ここでの仕事は本書の巻末の論文を書くにあたっても大いに役立ちました。

 もちろん、訳せないところもいっぱいある。たとえば短文表現。「桐壺」の巻の冒頭の後、「御局は桐壺なり。」という文章があります。当時の読者なら、この一文の「桐壺」から、愛されていた更衣はそんなところにおられたの、とすごく驚くわけです。だからここの「。」には普通の句点とは異なる大きな余韻があるのですが、訳す際にただ「更衣のお住まいは桐壺です」では話にならない。これでは桐壺が天皇の常の御殿である清涼殿からかなり離れていて、そこまで行くには大変だ、という背景がまったくわからないのです。そこに現代語に訳しきれない、本文の力があります。

 ――本書の訳における敬語の表現についてはいかがでしょうか? これまでの現代語訳では敬語表現をあまり意識していませんし、「ですます調」で訳すとなると自然と丁寧な言葉になって、文法としての敬語との使い分けが難しくなったのではないかと思いますが。

 中野 実はこれまで『源氏物語』現代語訳の苦労話をいろいろな場で語ってきましたが、この敬語の問題は避けて通ってきました。というのも、敬語というのはだいたい「……したまふ」というように文末にあります。たとえば、「匂宮がなきみわらいみしたまふ」は普通「匂宮は泣いたり笑ったりなさる」と訳しますが、この表現では匂宮に対してちょっとぞんざいすぎる。より丁寧に訳すと「お泣きになったりお笑いになったりなさっている」となり、それぞれに敬語がつきます。つまり下にある「たまふ」が波及していくわけです。私はこれを総括敬語と言っておりまして、前の文章になくても後に敬語があれば表現も波及すべきだと考え、実際に私自身もそう訳しているのですが、原文通りならば「泣いたり笑ったり」というように敬語表現はなくていい。だから、敬語をうるさく言われるとめちゃくちゃになるから困ってしまう(笑)。特に人のことを形容している敬語となるとよくわからなくなっていきますね、当時の人はわかっていたんだろうけれども。