紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

それでも人は歌を求めている

――あくまで歌う側、ものを創り出す側に丁寧に寄り添っている
評者:平井 玄

 ブルーボーイの夏

 私は少年時代にたぶん丸山(美輪)明宏を見かけている。街角で中学生の眼を一瞬過っただけの薄い記憶だから「たぶん」である。場所は新宿二丁目の交差点近くにあった「ユニコン」というバーの辺りだったと思う。1960年代も半ばを過ぎて夏の陽が翳る夕方、店の大きな木製ドアに吸い込まれる刹那、大きな瞳と青白い細面の美青年に眼を奪われた記憶がスナップショットのように網膜に焼き付いている。

 二丁目は廃業した赤線街の侘しさを漂わせて、ゲイバーはまだ少数派。今や彼女/彼らの世界にも高齢化の波が押し寄せているが、この時代は誰もが若い。真白い花びらに滲んだ薄紫の花芯。裏通りに咲いた晩夏の夕顔そのものである。岡場所の毒気を浴びて育った可愛げのない眼も反応してしまう。そういう朧気な銀塩写真が本書を読んで解像度を増したのである。

 デビュー当時「シスターボーイ」と呼ばれた丸山だったが、この街で彼らは「ブルーボーイ」と囁かれていたと思う。LGBTというスマートな言い方が現れるはるか前、オカマやゲイさえ「表」の住人が人前で口に出せる言葉ではなかった。「ブルーボーイ」には江戸歌舞伎の「陰間」に近い密やかな響きが込められていたと思う。彼らも「お客さん」の片割れだった小店の息子である評者はそういう言葉を呑み込んで育つ。

 1967年9月に寺山修司が主宰する「演劇実験室天井桟敷」は『毛皮のマリー』をアートシアター新宿文化で上演している。『青森県のせむし男』、『大山デブコの犯罪』に次ぐこの第三作目の主演が丸山明宏だった。ところが本番直前になって美術担当の横尾忠則とトラブルが発生、舞台装置が引き上げられてしまう。そこで急遽「丸山明宏は劇場からすぐ近くにあった自分の住まいから、舞台に必要と思われるアンティークな家具や調度品などを運び込んだ」という。

 新宿文化は明治通りから二丁目に向かう門前町の位置にあった。つまり丸山はこのころ私の「ご近所の住人」である。だから中学生が遭遇したのはおそらくこの前後に違いない。

 とっさに舞台装置の代わりを思いついたのは、寺山修司の意図を生かした横尾忠則が「マレーネ・ディートリッヒが演じた『嘆きの天使』の中のローラの部屋の装飾から発想を得ている」(丸山自身の言葉)ことを充分に理解していたからだ。『毛皮のマリー』という男娼とその息子の物語に、寺山とその母や妻の間で渦巻く愛憎を投影した「その複雑な構造をすぐに見破った丸山明宏に対して、寺山はひとこと「『あなたは恐ろしい人だ』と言った」と著者は書いている。

 戦前に丸山の生家は長崎の丸山遊廓でカフェを営み、銭湯や質屋も経営していた。カトリック教会と南蛮寺が並ぶ異風の街で人間の裏側を知り、生身の性が売り買いされる姿を見て育つ。彼の審美眼と人生哲学はここで養われたのである。私にとっては近くもあり、とても遠い人でもある。あえて美輪ではなく「丸山明宏」と呼びたい。

 「不気味な歌」のドラマツルギー

 公演は大入り満員となり、10月にはアンコール上演される。1957年のデビュー曲「メケ・メケ」以来「ゲテモノ」扱いされてきた丸山明宏が、晴れて一人の「表現者」として認められた代表作になる。1960年代の風が吹いていた。同時に、『毛皮のマリー』が上演されている新宿文化の地下にあった「アンダーグラウンド蠍座」では三島由紀夫の戯曲「三原色」のリハーサルが続く。そして丸山の芝居を初めて観た三島は『黒蜥蜴』の主演を乞うのである。江戸川乱歩の小説を戯曲化したこの作品も丸山のもうひとつの代表作になった。

 三島由紀夫や寺山修司に加えて、中村八大との濃密な創造の時、赤木圭一郎との秘められた恋、そして加藤和彦や桑田圭祐にまで辿られる丸山明宏の「歌のドラマツルギー」を佐藤剛は探り当てようとする。たくさんの曲を聴き込み、莫大な資料を掘り起こしながら語られる物語は、あくまで歌う側、ものを創り出す側に丁寧に寄り添っている。

 寺山修司は歌謡曲を「合唱できない歌」と喝破した。孤独に口ずさむ歌こそ大衆のものというのは逆説ではない。丸山明宏の「ヨイトマケの唄」を誰かと唱和したいと思う者はいないだろう。下り坂の社会でそれでも人は深い歌を求めている。だからこそ長い時を経て2012年の紅白歌合戦で復活したのではないか。

 その系譜を求める旅は平坦ではなかったと思う。著者の誠実さは「ヨイトマケの唄」をめぐる自身の体験として書き込まれている。岩手の盛岡で生まれ育った佐藤剛は最初に耳にした時のことをこう記す。

 「父ちゃんのためなら エンヤコラ――。そのフレーズが流れた瞬間、ぼくは吃驚して体がこわばった。わが家の狭い茶の間は微妙な空気に包まれた。その歌が終わるまで、なぜか恥ずかしさと居心地の悪さを感じていた。見てはいけないものを見て、聞いてはいけないものを聞いているように思った」

 著者の父親は敗戦を満洲で憲兵として迎え、シベリアに4年間抑留されている。引き揚げてきた後も岩手山麓の鉱山で働いた。さらに家庭を持つと、仙台に出て果物をリヤカーに載せた行商で町を流れ歩いたという。この歌が初めてテレビで歌われたのは1965年。彼は中学生時代の実感を率直に書いている。「おそらくは一回しか聞いていない『ヨイトマケの唄』は、何かしらいい知れぬ不安を感じさせる“いやな”歌だった」。

 遠い世界ではないからこそ不穏な気分が身に食い込む。その親孝行語りを含めて「不気味な歌」なのである。「いやな歌」という第一印象を決して隠さず「天才の所業」として聴けるようになるまでの長い道のりが、この作品そのものになる。三島由紀夫に多くが割かれているからだろう。その適切な距離の取り方と敬意のあり方が、私には野坂昭如の小説『赫奕たる逆光』を思わせる。

(批評家)