紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

「完全円」こそ「人間」なのだ

――子供たちのことを考えると同時に自らを見詰め直す作業にまで行き着ければ
評者:宮田徹也

 「子どもたちが祖先の表現様式をくり返しつつ発達している」(一三四頁)。驚愕の見解である。本書に興味が沸くのは子育て中の夫婦、教育者、心理学者、美術関係者に限られてはならない。著者の皆本二三江(一九二六年―)は、世界中で描かれた莫大の数の子供たちの絵を分析し、人類とチンパンジーの共通の祖先であるプロコンスルと初期猿人の骨格分析をする進化論、ドイツの生物学者E・ヘッケルの『一般形態学』、『胎児の世界』で有名な三木成夫の発達学等の自然科学と、美術史と美学という人文科学の知識を用いて考察を行なう。絵を描くのは子供であっても人間だから、人間の発生に対する見解を持つのは至極当然である。しかし、この「当然」という姿勢を発見し、保つことは容易ではない。

 人間の発生に対して論考するとなれば、男女の性差、完成の認識、重力との問題等も深く関わってくる。

 「男女の絵のちがいの一端は、なんと、一歳前後にあらわれ」(三二頁)、男の子が描く「人工物」とは「労働」であり(一六一頁)、女の子が描く「自然」は「人類の生存にいちばん必要な条件」(一六七頁)である。

 「子どもが最初に描くもの、それは「点」なのです」(三七頁)。点から線となり「完全円、つまり描きはじめと描きおわりがピシッとつながった完全な円を描くのは、子どもにとって大仕事です」(四七頁)。この完全な円を描ける完成観は、単に発達の問題だけで片付けることは出来ないと皆本は指摘する。「人間は「完全円」を描けるけれど人間以外の霊長類はそれが描けない、ということです。霊長類のお絵かきの発達は、完全円が描けるかなり前に止まってしまうのです。人間の子どもの「なぐりがき」は「渦巻き線」の分化を経て「円」に到達しますが、霊長類の「なぐりがき」は「渦巻き線」の初期以降は進歩しないように思います」(五四頁)。「完全円」こそ「人間」なのである。

 一本の横線を引くだけでも、大変だ。「「円」に続く閉じた形」(七二頁)であると皆本は重要視する。「カタログ表現の時期を経たのちに、紙の下端に緑や茶で地面を描き、上のほうには青や水色で帯状の空を描くようになります。下端に引く線のことは基底線(ベースライン)と呼びましたね。基底線によって上下左右の秩序立った空間関係が生まれました。この基底線はやがて遠くと手前を表わすようになり、ついには遠近法という新しい奥行き表現の段階へと進みます」(一二四頁)。

 ここからは私の考えを記す。母胎の中で羊水に浸かっていた無重力状態の胎児は、生まれて常に上を見ている新生児の段階を経て、寝返りを身につけてやっと重力を理解する。お座り、ハイハイ、つかまり立ちから二足歩行へ到達することとは、重力を理解することに他ならない。この身体と横線の関係は果てしなく近いはずだ。または、基底線というとデザインの文字組を思い起こす。基底線に揃えて文字を組まなければ可読は不可能となる。私はこの文字組に不可欠な基底線とは、心の中にも存在するのではないかと考えている。そして西洋の横、東洋の縦といったベースラインは、バベルの塔のように垂直へ伸びる西洋の建築と、万里の長城のように横へ広がる東洋の発想と、水平と垂直が入れ替わりながらも連動しているのではないかと感じている。

 皆本は、教育、心理、芸術の専門に対しても、鋭い問いを投げかける。子どもは「見て描く絵」と知っていることを描く「見て描くのではない絵」がある(八二頁)、「ある事柄の成り行きを描きたいときがある」(一二七頁)、「ふつうの精神状態を保てなくなったときに、絵が変わります」(二二四頁)、「描きながら、自分がその対象になり代わっている」(二二七頁)。私はここから示唆され、以下を着想した。

 人類の原初の活動として描くことが主体である場合と、人間の文明として見られることが前提である場面という、二つの絵画があるのではないか。この二つのバランスを取ることは非常に難しい。人類の原初の活動とすると具象と抽象という美術史的定義は適応されない。しかし人間の文明とすればアウトサイダーアートが代表するように分類されて終わってしまう。

 多くの種類の文章を読めばそれだけ襞の深い作文が可能になるように、幼少から様々な作品に触れていれば描く絵画は特化するであろう。確かに批評眼によって理解は深まる。それでも幼児教育によって天才が生まれることなどないと私は思う。知識だけではなく、人間としての多様な経験を積むことが必要だ。そして「上手い」「優れた」「特別な」芸術など生み出す必要性を疑問視する。誰もが権威に溺れず、自負を持ちながらも他人を認める社会の形成が急務だと考えている。そのためにも多くの人々に本書を読んで戴き、子供たちのことを考えると同時に自らを見詰め直す作業にまで行き着ければと感じている。それは私自身に還ってくる言葉でもある。

(京都嵯峨美術大学客員教授)