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 ◆ 3316号(8月12日発売号掲載)

敗戦後72年、戦争前史と前夜に迫る
歴史の教訓を見よ

安倍政権のもとで大きく曲げられた歴史のレールを修正し是正すべき時
笠原十九司氏インタビュー

 ■先ごろ高文研から笠原十九司著『日中戦争全史 上下』が刊行された。日中戦争を前史と前夜から説き起こし、歴史の総体とその構造を叙述した著書であり、これまでの日中戦争史像に再検討を迫る、笠原氏の長年にわたる研究の集大成である。日本はいつから日中戦争への道を進み始めたのか、戦争の実態はどのようなものだったのか――。敗戦から七二年を迎えたいま、本書をめぐって笠原氏に話をうかがった。(7月21日、東京都千代田区にて。聞き手・米田綱路〔本紙編集〕)

 ■なぜ日中戦争とアジア太平洋戦争が始まったか

 ――本書では日中戦争の前史として、一九一五年の対華二十一カ条要求から説き起こされています。

 笠原 歴史をどう見るかは、現代にも繋がってくる問題ですが、日本も中国も、歴史を過去の「正史」として学ぶという傾向があります。これは東アジアの特徴であり、欧米のように、歴史は因果関係で展開するというふうには捉えない。欧米では、現代を考えるために歴史を学ぶという歴史の見方があり、歴史教育においてその思考を養成し訓練しますが、東アジアにはそれがないと思います。

 日本の歴史学において、長らくマルクス主義の影響が強くありました。歴史の発展を弁証法的に捉え、階級史観で図式的に歴史の展開を分析するものですが、この本ではそういう分析方法はとらずに、歴史にはさまざまな選択肢があって、さまざまな歴史展開の可能性の中で、その時々の情勢において、結果的には政府と国民の総意により、ある方向に展開していき、結果的に一つの方向に進んだというふうに捉えて、日中戦争史を叙述しました。

 歴史展開の筋道は、その時代の渦中に生きている人には分かりません。ですから、過ぎ去ったことについて、専門の研究者である我々が資料をもとに、なぜそういう歴史展開をしたかをもう一度過去に遡って分析する必要があります。この本の目的は、なぜ日中戦争が始まったか、アジア太平洋戦争が始まったかを明らかにすることです。E・H・カーは、「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」(『歴史とは何か』)であると言いましたが、現在の状況からもういちど日中戦争を振り返ってみる。そして、いつから戦争が始まったのか、どういう曲折を経たかという歴史過程を改めて分析しました。

 私の場合、研究のスタートが一九一〇年代、第一次大戦期中国の民族運動ならびに一九二〇年代の中国国民革命時代の省自治運動でしたから、中国史の歴史もある程度知っていました。それに、もともと日本史に興味がありましたので、日本と中国の相互的な関係を見てきたわけです。

 戦争の本は一般に、戦争が始まったところから書かれています。満州事変は柳条湖事件から、日中戦争は盧溝橋事件から、アジア太平洋戦争は真珠湾攻撃から書く。でも、歴史はそこからいきなり始まるわけではありません。特に戦争の場合は、前から周到な準備がおこなわれている。ただそれが国民には知らされず、国民は気がつかないだけです。

 ですから、日中戦争が始まった時点ではなく、戦争に至る流れはいったいいつ、どこから、どのようにして始まったのかを明らかにする必要がある。そう見ていくと、日本が対華二十一カ条要求を中国に突きつけた時点に遡ることができます。そこにはその後の日本の中国侵略構想が盛り込まれています。もっと遡れば日清戦争・日露戦争であり、中国の台湾や遼東半島や朝鮮半島を支配してから始まるわけですが、広い中国大陸そのものを日本の権益のもとに支配する構想を明確に打ち出したのは、対華二十一カ条要求です。

 そしてこの要求が、日本の権力者たちの共通イメージになっていきます。日本が強国になるために、広大な中国に進出して、豊かな資源を獲得し、狭い日本の過剰人口を中国大陸に移住させるという構想は、いくつかの可能性の中で、一つの方向に進むことで、共通の国家政策になったのです。

 ――本書では、日中戦争の「前史」と「前夜」がキーワードになっています。

 日本の国民の総意としては、日中戦争やアジア太平洋戦争という酷い戦争をし、大変な被害を与えたという認識はあるでしょう。ですが、それがいつ頃から始まったのか、という正確な分析をしないまま来ています。戦争がどのように始まったかということについて、私たちは厳密には知らなかった。そのことは現在にも繋がる大きな問題です。 私がまず描きたかったのは、戦争の前史があり、前夜があって、戦争開始へと向かう過程があるということです。同時代のほとんどの人は、前史に気づいていない。おそらく戦争の前史から前夜になる段階で、大きな変化があったという実感はあるけれども、それが満州事変や日中戦争へ行くような大きな転機になったことには気がつかない。

 日本は侵略戦争を海外でおこなってきた。特に日中戦争の場合、中国全土で侵略をおこなっている。しかし、中国における日本人居留地はおおよそ安全地域であり、狭い居留地にいた住民は奥地で日本兵がおこなった残虐行為をほとんど見ていません。さらに、日本国内にいた大多数の日本人は、日本兵が中国の戦場で中国人に対して何をしたかを目撃することはありませんでした。それが日本人の日中戦争認識に影響しています。

 将来、同じような事態になった時に、私たちは戦争を発動するということへの認識をもてるかどうか。このことは過去の歴史を分析し、教訓を引き出せる英知を日本国民が身につけるかどうかにかかっています。

 ――本書では一九二七年、二八年の三次にわたる山東出兵、そして二八年六月の張作霖爆殺事件が、満州事変・日中戦争の前史の歯車を前夜へと大きく回転させた転換点であると書かれています。

 笠原 中国は国民革命で、領土統一、主権回復、不平等条約の撤廃という、国民国家建設を願望して革命をおこなった。ところが日本政府は中国の国民革命に干渉し、それを認めず、逆に中国の権益を侵犯しようとしたわけです。

 具体的には、日本はすでに遼東半島を支配しており、それを広げる構想をもっていた。そして二七年、二八年と田中義一内閣は山東出兵をおこない、領土を統一しようと北上してくる国民革命軍(北伐軍)に敵対した。日本の論理は、対華二十一カ条要求に示されているとおりです。日本はワシントン会議で第一次世界大戦(日独青島戦争)でドイツから獲得した山東権益をいちおう返還したのですが、既成事実として居留民をどんどん送って経済利権を獲得した。ですからすでに既得権があるとして、山東省に進撃してきた国民革命軍に対して軍事干渉をしたわけです。

 当時、日本国内には、まだ無産政党を中心に「対支非干渉運動」と称した反対運動があったのですが、それを弾圧するために二八年に治安維持法を改悪し、最高刑に死刑を加えた。こうして治安維持法による弾圧体制はどんどん拡大されていきました。今日の日本の状況に引きつければ、安倍政権が十分な審議もしないで共謀罪法案を強行採決し制定したことは、安倍政権が将来の戦争で国民の統制を考えている証拠です。治安維持法の教訓で言うと、多くの日本国民はいわゆる未来法、つまり将来を権力が先取りしていく法律について、まだよく分かっていない。そしてその法律が実際に適用されて弾圧法であることに気がついた時にはもう遅いのです。

 権力は国民が分からないように、違う説明で法律を制定しておいて、後にそれを拡大解釈していった。それが治安維持法だったわけですが、共謀罪法も同じです。治安維持法はまず天皇制打倒を考える労働者・農民階級の無産政党を潰し、次に自由主義者を弾圧し、天皇制の国家神道を受容しない宗教団体を弾圧し、最後には日本の侵略戦争に反対する勢力を徹底的に弾圧しました。

 しかし、治安維持法違反で死刑宣告を受けたのはゾルゲ事件のゾルゲと尾崎秀実などに限られています。治安維持法のいちばんの狙いは、国民を黙らせることにあったということです。あとは国民の側で、こういうことをすると酷い目にあうと、みんな自主規制した。今さかんに言われている「忖度」と同じです。特高警察は治安維持法を使って、被疑者を裁判にかける前に暴力的な拷問などでなぶり殺しにした。それが国民にとって、ものすごい恐怖になったわけです。

 権力の側は、国民が分からないうちに先手を打って未来の弾圧法として一九二五年に治安維持法を制定し、二八年と四一年と二次にわたる改定により治安維持法体制を強化、拡大していきました。ここに、共謀罪法を考える上での歴史の教訓があります。

 田中義一内閣は山東出兵をし、関東軍の謀略である張作霖爆殺事件をもみ消してうやむやにし、治安維持法の改悪をした。結局、野心家の田中義一首相は、張作霖爆殺事件の真相を隠蔽しようとして昭和天皇の逆鱗にふれて内閣を総辞職、政治生命を断たれて精神的にまいった中で亡くなりますが、歴史の教訓として怖いのは、田中義一が敷いたレールがその後、日中戦争に繋がっていったことです。それも前史から前夜へと、大きくレールを曲げた。そこに怖さがあります。当時はいわゆる「大正デモクラシー」により男子普通選挙が実施され、政党内閣政治、議会政治がおこなわれていました。しかし、長州閥出身者の陸軍大将でありながら政友会総裁になって政党内閣政治を牽引した田中義一によって、歴史は「大正デモクラシー」から「昭和ファシズム」へとレールは大きく曲げられてしまったのです。

 安倍首相は、来年には国民投票法を制定、実施して憲法を変えると公言していますが、これはもう完全に歴史のレールを曲げる行為です。安倍政権のもとで制定された安保法制も、共謀罪法も、教育基本法の改悪と国家主義的な教育統制もそうですが、レールはすでにかなり曲げられています。

 この先に起こりうる戦争は、国家間の戦争ではなく、特に財界の要請と圧力を受けて、日本の海外市場を守るために軍隊を派遣し、特定地域の日本商品ボイコットや日本の企業進出反対の民衆運動などを抑えるといった地域紛争になるでしょう。安倍政権もそれに向けてレールを敷いていて、戦争を可能にする条件がいくつもできています。

 今、安倍政権は揺らいできていますが、怖いのは、教育基本法の改悪、防衛庁の防衛省への昇格、集団的自衛権の行使、安保法制、共謀罪法など、安倍政権が制定した法制はそう簡単に変えることができないということです。やはり今の日本国民は、日中戦争の教訓を知る必要があります。そして国民が自覚し、国民の側ができる選択によって修正・是正していかなければいけない。それが本書を書いた、一つの現在的な動機です。

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アジア太平洋戦争で負傷した「傷痍軍人」を撮る

――元皇軍兵士の姿から戦争を浮き彫りにしたフォト・ドキュメンタリー
評者:新庄孝幸

 ブルーボーイの夏

  一九六〇年代後半、三重県の四日市に通って、ぜんそくに苦しむ人びとの姿を撮った報道写真家の樋口健二氏は、続いてアジア太平洋戦争で負傷し、心身に障害を負った「傷痍軍人」と呼ばれる人びとを訪ねた。戦後の高度経済成長の歪みと矛盾を象徴する四日市公害を撮った彼のカメラアイは、次に戦争で傷つき、癒えぬ傷を負ったまま療養所で暮らす元皇軍兵士たちの姿を捉えたのである。敗戦から四半世紀、療養所のベッドには、まだ多くの元兵士たちが高度成長の影に置き去りにされたように横たわっていた。

 樋口氏が彼らの取材を始めたきっかけは、一九五〇年代初頭に郷里の信州から出稼ぎで上京したとき、路上で靴磨きをしたり電車内で募金をつのる傷痍軍人たちの姿に接して衝撃を受けたことだったという。樋口氏も戦中に薬品が欠乏するなか母親を赤痢で亡くし、慕っていた親類を中支戦線で亡くした。元兵士を訪ね歩いた背景には、彼自身の戦争体験があったのである。

 本書は樋口氏が一九七〇年から七二年かけて取材した傷痍軍人の元皇軍兵士たちの写真を中心に、それから三〇年以上を経た二〇〇六年に再訪したおりの写真を交え、戦争が人間をどのように苛むかを兵士の姿から浮き彫りにしたフォト・ドキュメンタリーである。

 神奈川県小田原市にあった国立療養所箱根病院西病棟(現在の国立病院機構箱根病院)には、樋口氏が訪ねた一九七〇年当時、脊髄を損傷した二五人の重症患者が収容されていた。誰一人として撮影を拒否する人はいなかった。そうして何度か取材を重ねるうちに、彼らを見舞う人がほとんどいないことに気づいたと樋口氏はいう。さまざまな表情で横たわる彼らの姿、介助者に抱えられて負傷した体を露わに入浴する様子や、カテーテルによる導尿の様子などは痛々しい。戦争が奪ったものの大きさが伝わる、モノクロームの写真群が本書に収められている。

 一九七一年当時、戦闘で心に傷を受けた人たちが、小平市の国立武蔵療養所(現在の国立研究開発法人精神・神経医療研究センター)に九四人、千葉の国立下総療養所(現在の国立病院機構下総精神医療センター)に七三人、収容されていた。樋口氏は彼らを訪ねて、その姿を撮った。「個室に閉じこめられていた重症患者は身動き一つせず、遠い昔に想いをはせているかのように、ただ、じっとうつむいていた姿が印象的であった」と彼はしるす。武蔵療養所の医師はとつとつと、「戦争はむごいものだよ。家族だって精神をやられているから見舞いに来る人はほとんどいないんだよ」と語った。本書のカバーに使われた写真は、カメラを向けた樋口氏に、直立不動で挙手の礼をした元兵士の姿だ。こうした一枚にも、皇軍兵士の習慣が顔をのぞかせる。また、中高齢の元兵士が個室に閉じこめられていた姿を撮影したとき、「まるで刑務所ではないかと錯覚した」とも彼はしるす。

 そのほか、樋口氏はハンセン病の傷痍軍人を東京都東村山市の多磨全生園に訪ね、結核に罹患した元兵士を東京都清瀬市の旧傷痍軍人東京療養所(現在の国立病院機構東京病院)に訪ねて、彼らの姿を写真に収めている。全国でハンセン病傷痍軍人は六〇〇人、多磨全生園には多いときで七〇人がいたという。戦場で酷使され、さらに劣悪な栄養状態での困窮で、結核に罹患する兵士も急増した。彼らは戦争の生き証人だったが、同時に近代日本国家の差別政策の生き証人でもあった。

 二〇〇六年春に、樋口氏が旧箱根療養所を再訪したとき、九一歳の元兵士の浅木さんが一人、ベッドに横たわっていた。かつて患者たちが住居兼療養所としていた建物は無人の廃墟になり、病棟は取り壊しを待つばかりだった。浅木さんとの筆談の様子が本書に収められている。一九一五年生まれの浅木さんは、二〇歳で中国戦線に動員され、日中戦争が始まった三七年に、重機関銃の射撃中に貫通銃創を受けた。四八年以来、箱根療養所で暮らしてきた。当初は四八人の重症患者がいたが、毎年誰かが亡くなっていった。

 敗戦後七二年、彼ら皇軍兵士たちの存在は忘れ去られている。本書は時の経過とともに、きわめて貴重な記録となった。戦後社会の中で戦争と人間の姿を捉えた樋口氏の一枚一枚が、戦争の真実を直視するよう、いまを生きる私たちに問いかける。

 (ノンフィクションライター)

滅びつつ永遠に生きる者

――原爆はけっして過去の物語ではない
評者:寺村摩耶子

  一〇〇歳をこえた主人公が語りはじめる。彼の名は「ドーム」。「原爆ドーム」といえば、誰もが知っているだろう。だがその昔、彼が「広島県物産陳列館」という庶民的な名をもっていたこと、来日チェコ人の手で設計された大正生まれのモダンな建物であったことを知る人はすくない。歴史に翻弄されてきた建築物。そして世界遺産。絵本『ドームがたり』は何よりもまず主人公の圧倒的な存在感で異彩をはなつ。ドーム降臨。青い闇のなかにたたずむその姿は、廃墟と化しつつも、まるで古代の神殿のように神々しい。遠くをみつめるようなまなざし。足元に戯れる生き物たち。多くのことを語りかけてくる表紙である。

 一〇〇歳をこえた主人公が語りはじめる。彼の名は「ドーム」。「原爆ドーム」といえば、誰もが知っているだろう。だがその昔、彼が「広島県物産陳列館」という庶民的な名をもっていたこと、来日チェコ人の手で設計された大正生まれのモダンな建物であったことを知る人はすくない。歴史に翻弄されてきた建築物。そして世界遺産。絵本『ドームがたり』は何よりもまず主人公の圧倒的な存在感で異彩をはなつ。ドーム降臨。青い闇のなかにたたずむその姿は、廃墟と化しつつも、まるで古代の神殿のように神々しい。遠くをみつめるようなまなざし。足元に戯れる生き物たち。多くのことを語りかけてくる表紙である。

 原爆の絵本。それは「原爆の図」で有名な丸木位里・俊夫妻の『ピカドン』や俊の『ひろしまのピカ』にはじまり、今日までさまざまなかたちで描かれてきた。悲惨な現実をあえて語りつぐこと。絵本は祈りをこめた慰霊碑のような役割をも果たしてきたのだった。だが二〇一七年春に刊行された『ドームがたり』は、それまでの原爆絵本とはかなり異なる印象をうける。被爆者である語り部が現役であること。と同時に、舞台の中心が現在の広島であることも、これまでとは異なる大きな点だろう。見返しには瀬戸内海にむかって流れる六本の川と細長い陸地の連なりが印象的な広島全図。そして海側から見えてくるドームの親しげな姿。それらの鳥瞰が「現代の物語」であることを生き生きと伝える。ゆたかな地形とともに発達した大都市のざわめき。路面電車や船のいきかう風景が新鮮に映る。

 ドームの語り口も意外とかろやかだ。のっけから「原爆ドーム前」という駅名について、彼は、それが自身のうしろに位置するにもかかわらず「前」とはどういうわけか。といった素朴な疑問を口にしたりもする。常識にとらわれない子どものような目。自由でグローバルな精神の持ち主である彼はまた、戦前からの歴史もフランクに語っていく。だがそのかろやかさは重すぎる現実の裏返しだったのかもしれない。一九四五年八月六日の朝。その瞬間について、彼はただ一言、「空には飛行機がブーーーン……あれはアメリカ軍の……おや? なにか落とした」と回想するのみ。次のページには言葉がなく、青い無数のカケラがびっしりと一面に飛び散っている。閃光の「ピカ」も爆音の「ドン」もここにはない。あるいはその両方がこの一枚の抽象画のような絵のなかに炸裂している。この絵本には原爆の被害を直接伝える描写はほとんどない。しかし、だからこそ目に見えない「ウランのカケラ」がガラスの破片のように心につきささってくるようにも思われる。

 周囲が一瞬にして消えてしまったあの日から、彼は「なんでもすけて見えるようになった」。ミクロからマクロまで。そして過去から未来まで。原爆はけっして過去の物語ではない。とりわけ二〇一一年三月一一日以降、それは身近な問題としての脅威をはらむようになってしまった。にもかかわらず、その事実がクリーンな現実の下に隠されるかのようにして、見えにくくなっている。ドームが平静でいられるはずもないだろう。意を決した彼はついに長年の沈黙を破り、立ちあがったのだ。

 現在という地点から発信された絵本。その意味で『ドームがたり』はきわめてメッセージ性の強い絵本であるということができる。だが同時に、それが物語としてひらかれているのは、ドームの「語り」に昔話のそれにも似たなつかしさやポエジーがたたえられているせいだろうか。地上への愛おしさ。多くのものを見てきた彼は、だからこそ「今ここ」の尊さを知りぬいている。路面電車の駅をはじめ、彼の目が一見なんでもないような日常にこそ向けられるのも、おそらくそのためだろう。とりわけ小さな生き物たち。彼らをみつめるドームのまなざしは、かぎりなく優しい。頭の上で巣作りをするスズメ。高らかに鳴いていたあの日のクマゼミ。絵本のなかには多くの生命がみちあふれている。アオサギやネコ。ミミズやコウモリ。海の生き物たち。さらには、日々の生活や労働をいとなむ人々の姿。木々の緑。川の流れ。そしてどこまでも青い空と海。ページのすみずみまでみなぎる生命力は、物語の外にまでひろがっていくかのようだ。あたかも重苦しい空気を浄化するかのように。その明るさや透明感に打たれる。

 物語の未来はけっして明るくはない。いくつもの時空が交差するなかで、過ぎ去ったはずの光景がふと現在や未来のものでもあるような、奇妙な感覚にとらわれることもある。宇宙のよるべなさ。だがそのなかでも、はるか彼方まで幻視するドームの目。星のような、灯台のような。その目がつねに暗闇を照らしだしている。すくなくとも絵本のなかではそう感じることができる。滅びつつ永遠に生きる者。彼の姿をとおして、絵本は新しい光を生みだした。

 (絵本批評)