紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

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 ◆ 3318号(9月2日発売号掲載)

共謀しようぜ

この政治的惨状の主因は何か
田原 牧

 ■人が下品になったんじゃないか

 ――まるで世界文学全集に入っているかのようなタイトルの『人間の居場所』を読んでみると、当たり前ですが「居場所」というテーマが共通していることがわかります。

 田原 連載をまとめたものなので、連載中は共通テーマを意識していました。

 ――本書は全十章立てで、オビにもありますが、扱われているトピックを抜き出してみると、シリア難民、AKB48、三里塚闘争、LGBT、暴力団、新宿ゴールデン街、子ども食堂、刑務所、イスラム国(中田孝さん)、磯釣り……。

 田原 磯釣りが渋い(笑)。

 ――渋すぎるでしょ(笑)。「居場所」に定位した理由は、「はじめに」に書いてありますが、「こちら側」をどうにか保つための陣地戦の構想で、それは「正気でいられる」ためにだと。これは裏を返せば、田原さんも含め、アタマがおかしくなりかけている……。

 田原 いや、もうだいぶおかしい(笑)。おかしさの程度は自分のことだと、なかなかわからないけれど、まわりを見回すとかなり「おやおや」という人が増えている気はする。しかも私が見ることができる世の中の範囲なんて限られているから、実際はもっと深刻かもしれない。

 見える範囲に限ってみても「なんだ、これ?」という話はあふれています。例えば、こないだ日中に、新宿の交番がある大きな交差点で信号待ちをしていた。すると、幼稚園生くらいの小さな男の子が独りで「お母さんがいない」と言って、信号待ちの十人くらいの中で泣いていた。交番には警官が立っている。信号待ちをしている人もいる。なのに、誰もその子に声をかけない。しょうがないので「ぼく、どうしたの?」と手を引いて、交番のおまわりに「お母さんがいないって言ってるよ」と預けたわけ。すると、おまわりも酷いよね。「あっそうですか」って、さもいままで気づいていなかったふりをするんだよね。それから先どうなったかは知らないけど、そういうちょっとしたことでびっくりする。海外じゃ、ありえないんじゃないかな。日本だって一昔前なら考えられない。要は関わり合うのが面倒くさいっていうことなんだろうけど、相手は小さな子だよね。「一昔前なら」と言ったけど、それもそんなに大昔じゃない。

 こうした場面にまま出くわすわけです。世の中、冷たくなったというよりも、人が下品になったんじゃないかな。

 前作の『ジャスミンの残り香』(集英社)ではカイロ空港の光景が出てくるんだけど、これもよく似ている。喫煙室にいたわけ。そこに目の不自由なご老人が若い人に連れられて入ってきた。たぶん、アラブ人だと思う。喫煙室は結構混んでいて、白人もいればアラブ人もいれば黒人もいたんだけど、その老人を座らせようと思って、みんなちょっとずつスペースを空けようとするわけ。それは言葉を介さなくても通じることでしょ。目配せでみんな何となく動いているんだけど、そこに日本人の学生みたいな男の子の三人組がいた。彼らはずっとスマホを見ていて、動かない。まわりの状況に気づけないのか、気づいていても体が動かないのか。たぶん、悪意はない。でも、その場にいた人たちは「なんだこいつら?」という、怪訝な顔というか半分呆れた顔をしていた。私が日本語で「おーい、ちょっと」と言ったらすぐ動いたんだけど、日本人は結構ヤバくなっていると感じた。そういうある種の危機感がこの連載のモチーフにはなっている。

 ――本書には田原さんの「私」や「素」ないし「地」がかなり出ていると思います。その意味では『ほっとけよ。』の続編だと言えると思いますが、奥付の著者紹介を見たら「ノンフィクション作家」と書いてあった。そうか、これは作家が書いた本なのかと……。

 田原 そこは忘れて。私もびっくりした(笑)。あれは編集者が付けたんだと思う。いつも「折角、賞を取ったんだから、少しは作家としての自覚を」とか言われるの。ただ、自分としては「新聞記者」って名乗っている。「ジャーナリスト」というのもおこがましくて。そんなにきれいな仕事ばかりしてこなかったしね。

 ――田原さんは『ジャスミンの残り香』で開高健ノンフィクション賞を受賞しましたが、開高健とノンフィクションというと『ベトナム戦記』が真っ先に思い浮かびます。あの本で読めるのは戦場の光景というよりはむしろ、開高がいかに戦場で恐ろしかったかとかの「私」や「素」の部分で、そちらのほうが心に残っています。

 田原 おそらく開高さんはベトナムに行って、世の中とか人とかにうんと疲れてしまって、それで釣りに走ったんじゃないのかな。……その意味では私は開高さんと結構、つながっているのかもしれない(笑)。もっとも、あんなに金のかかる釣りはしないけど。

 ――とはいえ、田原さんは本書で私語りばかりをしているのではなく、「新聞記者」としてのいつもの現場に足を向けます。

 田原 芸がないからだよ。確かに「いつもの現場」。しかもそんなにドラスティックには動いていない日陰感のある現場。

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基地を拒否して、ともに生きる

――「いのちの思想」を学び取る極めて切実な実践
評者:村上陽子

  本書は、日本近現代史・思想史研究者の鹿野政直と、近現代沖縄・日本文学研究者の新城郁夫の間で二〇一五年五月、一五年七月、一六年一二月に行われた三回の対談をまとめた一冊である。

 一九三一年に大阪に生まれた鹿野と、一九六七年に沖縄・宮古島に生まれた新城とは、世代も、研究分野も、生きる場所も、沖縄への向き合い方も異なっている。「おまえは「本土」なんだということで、きちんと自分を押さえておかなければいけないのではないか」と語る鹿野は自らの「本土」性を強く意識しながら沖縄に向き合おうとする。一方、「沖縄になる」ことを到達できない未来として設定し、当事者になるというプロセスを不断に押し進めていく岡本恵徳や屋嘉比収の思想に共鳴する新城は、沖縄の人間が沖縄をどう生きるのかを問い直そうとする。

 集団的自衛権行使を可能にする安全保障関連法案が強行可決され、沖縄をめぐる政治的状況がかつてなく厳しくなっていく時期にこの二人が積み重ねた言葉は、沖縄の運動が生成してきたいのちの思想を学び取ろうとする極めて切実な実践であり、同時に現在の沖縄や東京の運動のなかに一時身を置くことを通して、個々の身体が出自や生きる場所を問わないかたちで「沖縄」を生きはじめる瞬間を見出す営為ともなっている。

 しかし、「沖縄」を開き、人々がつながっていくという思想は「本土」の人間の責任を免除するものではありえない。むしろ、「本土」の人間が「沖縄」を生きようとするとき、「本土」をどう生きるのかが問われはじめる。たとえば、それは「基地引き取り論」をめぐっての二人の対話にきわめて顕著にあらわれる。

 第一回目の対談で、新城は沖縄/「本土」の双方で訴えられはじめている、米軍基地を「本土」が引き取るべきだという「基地引き取り論」に対し、沖縄に米軍基地が集中するという差別を構造化しているのが日米安保体制である以上、米軍基地の「本土」への移設を言うことそのものが基地再編追認になるとして強い違和感を表明している。鹿野もまた、「基地引き取り論」に伴う問題点を追求する新城の言葉に同意し、「本土」の人間として基地を引き取るという一言をどうしても言えない、言ってはならないという点に踏みとどまっている。しかし同時に鹿野は、基地あるがゆえの痛みをよそに渡したくないという議論を立てていた沖縄の人々からもう我慢がならないというかたちで「基地引き取り論」が出てきたとき、「本土」で引き取れという主張に反対することは「本土」の人間のエゴなのではないか、という苦さに満ちた迷いをにじませてもいる。

 ここでは、基地を拒否するという行為が沖縄と「本土」でまったく異なる文脈を構築してしまうことの問題が浮き彫りになっていると言えるだろう。沖縄において基地を拒否するとは、軍隊に与しないこと、基地あるがゆえの犠牲を許さないこと、ひいては他者とともに生きようとすることにつながっている。しかし「本土」において基地を拒否することは、基地を他者の問題として切り捨て、他者の痛みの上に成り立つ生を獲得しようとする思想に直結してしまう恐れがある。そのような食い違いを越えて、「基地を引き取るとはいったい何か?」という問いの前で立ち止まるにはどうすればよいのか。この問題は第二回目の対談に持ち越されることになった。

 本書のタイトルともなっている「沖縄を生きるということ」についての議論が重ねられた第二回目の対談では、「沖縄を生きる思想」が沖縄にいる人もそうでない人もつないで開いていくものだということが確認され、沖縄の人々から「基地を引き取れ」と言われたときに「本土」の人間としてどうするかという問題が再び検討されていく。鹿野は、「本土」の人間が米軍基地を引き取る、そうすれば沖縄の負担は軽くなるということがすぐに実現できるというのはアメリカのプレゼンスを無視した「幻想」に過ぎないと指摘し、「本土」の人間はいかに苦しくとも基地の引き取りを断っていくべきだとあらためて表明する。むしろ、日米安保の再検討を通してアメリカの姿を浮かび上がらせ、安保体制廃止を目指していくことが「本土」の人間としての責任だと鹿野は言う。

 そこには、第一回目の対談で見られた迷いはない。「本土」をどう生きるかという問題への答えが、基地の負担を分かち合うのではなく、基地を拒否することを通してともに生きることを目指すというかたちで示されるのである。

 第三回目の対談では、鹿野ら四名の歴史研究者が「戦後沖縄・歴史認識アピール」を出し、賛同を募る活動を始めていったこと、一六年七月以降、工事強行が本格化し、市民の不当逮捕や長期拘留が相次いだ東村高江への米軍ヘリパッド建設の現場の状況などが語られる。

 参加の資格を問われず、人々が自由に出入りし、つながっていく運動が形づくられていくなかで、歴史や思想にできることは何か。明確な答えを持たないこの問いに答えるために、学ぶこと、行動すること、座り込むこと、つながることが求められている。沖縄の運動のなかで生成されてきたいのちの思想は個々の現場にたしかに息づいているが、いのちの思想を拠り所とする現場が国家の暴力にさらされているという極めて厳しい状況もそこにはある。この先のいのちの思想を生み出す場をいかに持続させ、豊かなものにしていくかがいままさに問われているのである。

 (沖縄・日本近現代文学研究)

ノーランの映画世界の基礎にあるものとは

――一貫して現代思想の観点から読解する
評者:田辺秋守

  アルフレッド・ヒッチコックが、決してやってはならないと思いつつその禁じ手である「偽りの回想」(疑わしき語り)を使ったのが、『舞台恐怖症』であった。同じイギリス人監督のクリストファー・ノーランの映画は、言ってみれば、一方でヒッチコックの戒律(単なる視覚的な欺瞞は禁止する)を守りつつも、他方でヒッチコックが躊躇してそれ以上歩まなかった方向を極限的なところにまで推し進めているというのが本書『クリストファー・ノーランの嘘――思想で読む映画論』の基本的な見方である。

 副題にあるように、本書はクリストファー・ノーランの映画を一貫して現代思想の観点から読解する書物である。その中心にはヘーゲルとラカンがいる。ヘーゲルとラカンによる映画読解と言えば、著者であるトッド・マガウアンは、ジジェク派なのだろうということになるが、スラヴォイ・ジジェクが、ときに才気走った飛躍を多くするのに対して、トッド・マガウアンはノーランの映画すべてを一本一本ていねいに腑分けしてくれる。各章は実に説得力がある。ただし、ジジェクが『斜めから見る』で行っていること、すなわちヒッチコックを用いてラカンを理解し、ラカンを用いてヒッチコックを解釈するというような一種の相補的な啓蒙は本書にはない。本書の読者にはある程度ヘーゲル、フロイト、ラカンに対する理解が求められる。

 クリストファー・ノーランの映画は、バットマン三部作のような大予算映画の場合に、嘘は内容の面で生起するが、『フォロイング』や『メメント』のような低予算映画では、嘘は形式の面で前景化されると、トッド・マガウアンは言う。ここでいう「嘘」とは構造的なフィクション性と言い換えればわかりやすいだろう。特に形式面での「嘘」を刷新している『フォロイング』や『メメント』では、観客は最初から誤認に導かれるように映画を観るのである。ただし、映画の途中で観客はこの誤認が仕組まれたものであり、ある時点を過ぎると自分の認知を劇的に変更して、最後には真実を見出すといった、M・ナイト・シャマランの映画に典型的な構造(ツイスト、どんでん返し)を取るわけではない。

 トッド・マガウアンによれば、ノーランの映画が明確に支持しているのは、西欧哲学の根幹にある「起源にあるのは真実である」という認識に対する批判的な態度である。例えば、『メメント』では、「観客は、起源となる真実を目撃するのではなく、起源となる嘘を目撃するのである」(一〇一頁)。また『インソムニア』は、プロットの上ではフィルム・ノワールに酷似している。一般にフィルム・ノワールは、事件の解決を、知られるべき対象の真実というより、知る主体の真実のなかに位置づけようとする映画である。つまり、対象の知を求めていると思っていた探偵が、いつしか反転して自己の真実に直面するというプロットである。ところが、『インソムニア』は、またしても、事件の解決を知る主体の真実ではなく、知る主体の虚偽のなかに位置づけようとする。

 ところで、映画の主人公とは映画の重点が折り返されて見いだされるような折り目、襞のようなものであろう。その重要度が出演時間に換算されるようなキャラクターのことではない。だから、映画では表向き主人公だと思われた人物が実はそうではなく、敵役や端役にこそ重点があったということがたまにある。ノーランの映画にはこのような仕掛けがほぼ全作品に亘ってある。

 『メメント』の場合、観客は短期記憶を保存できない病に罹っているレナード(ガイ・ピアース)の内面=時間性になんとかついていこうとするので、当然レナードを主人公だと思っている。この病のために復讐の相手を次々と替えてゆくレナードには、健康者以上により純粋な未来志向が見出される。本書からすれば、未来の目的に汲々とするレナードは真の主人公ではなく、ノーランが肯定しているのは、フィクションの中で反復的な享楽に身を委ねている亡き妻だということになる。亡き妻はレナードの回想のショットに数度登場するだけなのだが。

 まったく同じことが『インセプション』にも当てはまる。自己の欲望の対象を誤認し、父権的幻想に同一化しようとするコブ(レオナルド・ディカプリオ)は、偽りの主人公であり、彼の幾重にも入り組んだ夢のなかにしか登場しない死んだ妻モル(マリオン・コティヤール)こそが、コブの欲望の障害として、正しい対象を体現している。

 『ダークナイト』では、主人公はある程度まではバットマン(クリスチャン・ベイル)だが、提出している倫理的な課題の重大さから考えればジョーカー(ヒース・レジャー)が真の主人公であることは、誰もが気づくところである。ジョーカーはバットマンと拮抗しつつ、バットマンには直視できない恐るべき真実、善と悪は構造的には区別できないという真実を、ジョーカー自身の純粋に虚構的な在り方(「嘘」そのもの)によって示してしまう。

 ここから、トッド・マガウアンはノーラン映画の倫理的な核心に迫る。人々が結果主義的につく「いい嘘」は、どんなことをしても功利主義的な倫理を越えられない。そうではなく「結果なき嘘」こそが、ノーランにとっては倫理的な嘘となる。倫理的な嘘はフィクションを創造する行為であり、フィクションを迂回することによってしかひとは自己と世界の真実に到達できないというヘーゲル的な考え方が、ノーランの映画世界の基礎にある。フィクションを創造することによって、ひとは別の在り方から自己の欲望の誤りを検討することができる。

 さて、トッド・マガウアンの読みでは、『ダークナイト・ライジング』においても、重点は意外な人物に置かれている。執事というものの歴史的・存在論的な起源をたどれば、〈主人〉に仕える〈奴隷〉に行き着く。バットマン三部作を通じて、ブルース・ウェインに自己の出自(啓蒙的資本家)への帰還を再三求めるのは、あのわずらわしい執事アルフレッド(マイケル・ケイン)なのであり、『ダークナイト・ライジング』でバットマンに真の欲望の対象を忘れさせる力を発揮するのは、執事の〈奴隷〉的誘惑(「引退してハリウッド的カップルになりなさい」)である。左派からみて『ダークナイト・ライジング』が革命的イメージの産出に失敗し、例外状態の生起からファシズム的総動員へ至る内戦のイメージにしかならない理由を、トッド・マガウアンはこうしたラカン的な欲望の論理から説明している。そうだとすると、評者には、そもそも映画の最重要人物を〈奴隷〉に設定しているところに、『ダークナイト・ライジング』が革命を回避する口実をあらかじめノーランが与えているように思えてならない。ここにはノーラン自身の欲望の誤認があるかのようだ。

 本書のような読解に対してある層の読者は、いかにも外挿的なものだと思うかもしれない。トッド・マガウアンの現代思想的な分析が正しいのであれば、なぜクリストファー・ノーランは映画を撮り続けているのか、いっそ自分で解説を書けばいいではないかと思うかもしれない。しかし、そうではない。ノーランはある媒体によって、すなわち映画という精妙な「嘘」の装置を介してしか思考しないのだ。これこそ芸術による迂回というものだ。トッド・マガウアンのやっていることはまた別のタイプの迂回なのである。

 9月9日にはいよいよクリストファー・ノーランの新作『ダンケルク』が公開される。本書の読者にとっては、トッド・マガウアンの読解法を新たな対象に適用してみる絶好の機会になろう。どのような驚くべき「嘘」が設えられているのだろうか。

 (日本映画大学・現代思想)