紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

ノーランの映画世界の基礎にあるものとは

――一貫して現代思想の観点から読解する
評者:田辺秋守

  アルフレッド・ヒッチコックが、決してやってはならないと思いつつその禁じ手である「偽りの回想」(疑わしき語り)を使ったのが、『舞台恐怖症』であった。同じイギリス人監督のクリストファー・ノーランの映画は、言ってみれば、一方でヒッチコックの戒律(単なる視覚的な欺瞞は禁止する)を守りつつも、他方でヒッチコックが躊躇してそれ以上歩まなかった方向を極限的なところにまで推し進めているというのが本書『クリストファー・ノーランの嘘――思想で読む映画論』の基本的な見方である。

 副題にあるように、本書はクリストファー・ノーランの映画を一貫して現代思想の観点から読解する書物である。その中心にはヘーゲルとラカンがいる。ヘーゲルとラカンによる映画読解と言えば、著者であるトッド・マガウアンは、ジジェク派なのだろうということになるが、スラヴォイ・ジジェクが、ときに才気走った飛躍を多くするのに対して、トッド・マガウアンはノーランの映画すべてを一本一本ていねいに腑分けしてくれる。各章は実に説得力がある。ただし、ジジェクが『斜めから見る』で行っていること、すなわちヒッチコックを用いてラカンを理解し、ラカンを用いてヒッチコックを解釈するというような一種の相補的な啓蒙は本書にはない。本書の読者にはある程度ヘーゲル、フロイト、ラカンに対する理解が求められる。

 クリストファー・ノーランの映画は、バットマン三部作のような大予算映画の場合に、嘘は内容の面で生起するが、『フォロイング』や『メメント』のような低予算映画では、嘘は形式の面で前景化されると、トッド・マガウアンは言う。ここでいう「嘘」とは構造的なフィクション性と言い換えればわかりやすいだろう。特に形式面での「嘘」を刷新している『フォロイング』や『メメント』では、観客は最初から誤認に導かれるように映画を観るのである。ただし、映画の途中で観客はこの誤認が仕組まれたものであり、ある時点を過ぎると自分の認知を劇的に変更して、最後には真実を見出すといった、M・ナイト・シャマランの映画に典型的な構造(ツイスト、どんでん返し)を取るわけではない。

 トッド・マガウアンによれば、ノーランの映画が明確に支持しているのは、西欧哲学の根幹にある「起源にあるのは真実である」という認識に対する批判的な態度である。例えば、『メメント』では、「観客は、起源となる真実を目撃するのではなく、起源となる嘘を目撃するのである」(一〇一頁)。また『インソムニア』は、プロットの上ではフィルム・ノワールに酷似している。一般にフィルム・ノワールは、事件の解決を、知られるべき対象の真実というより、知る主体の真実のなかに位置づけようとする映画である。つまり、対象の知を求めていると思っていた探偵が、いつしか反転して自己の真実に直面するというプロットである。ところが、『インソムニア』は、またしても、事件の解決を知る主体の真実ではなく、知る主体の虚偽のなかに位置づけようとする。

 ところで、映画の主人公とは映画の重点が折り返されて見いだされるような折り目、襞のようなものであろう。その重要度が出演時間に換算されるようなキャラクターのことではない。だから、映画では表向き主人公だと思われた人物が実はそうではなく、敵役や端役にこそ重点があったということがたまにある。ノーランの映画にはこのような仕掛けがほぼ全作品に亘ってある。

 『メメント』の場合、観客は短期記憶を保存できない病に罹っているレナード(ガイ・ピアース)の内面=時間性になんとかついていこうとするので、当然レナードを主人公だと思っている。この病のために復讐の相手を次々と替えてゆくレナードには、健康者以上により純粋な未来志向が見出される。本書からすれば、未来の目的に汲々とするレナードは真の主人公ではなく、ノーランが肯定しているのは、フィクションの中で反復的な享楽に身を委ねている亡き妻だということになる。亡き妻はレナードの回想のショットに数度登場するだけなのだが。

 まったく同じことが『インセプション』にも当てはまる。自己の欲望の対象を誤認し、父権的幻想に同一化しようとするコブ(レオナルド・ディカプリオ)は、偽りの主人公であり、彼の幾重にも入り組んだ夢のなかにしか登場しない死んだ妻モル(マリオン・コティヤール)こそが、コブの欲望の障害として、正しい対象を体現している。

 『ダークナイト』では、主人公はある程度まではバットマン(クリスチャン・ベイル)だが、提出している倫理的な課題の重大さから考えればジョーカー(ヒース・レジャー)が真の主人公であることは、誰もが気づくところである。ジョーカーはバットマンと拮抗しつつ、バットマンには直視できない恐るべき真実、善と悪は構造的には区別できないという真実を、ジョーカー自身の純粋に虚構的な在り方(「嘘」そのもの)によって示してしまう。

 ここから、トッド・マガウアンはノーラン映画の倫理的な核心に迫る。人々が結果主義的につく「いい嘘」は、どんなことをしても功利主義的な倫理を越えられない。そうではなく「結果なき嘘」こそが、ノーランにとっては倫理的な嘘となる。倫理的な嘘はフィクションを創造する行為であり、フィクションを迂回することによってしかひとは自己と世界の真実に到達できないというヘーゲル的な考え方が、ノーランの映画世界の基礎にある。フィクションを創造することによって、ひとは別の在り方から自己の欲望の誤りを検討することができる。

 さて、トッド・マガウアンの読みでは、『ダークナイト・ライジング』においても、重点は意外な人物に置かれている。執事というものの歴史的・存在論的な起源をたどれば、〈主人〉に仕える〈奴隷〉に行き着く。バットマン三部作を通じて、ブルース・ウェインに自己の出自(啓蒙的資本家)への帰還を再三求めるのは、あのわずらわしい執事アルフレッド(マイケル・ケイン)なのであり、『ダークナイト・ライジング』でバットマンに真の欲望の対象を忘れさせる力を発揮するのは、執事の〈奴隷〉的誘惑(「引退してハリウッド的カップルになりなさい」)である。左派からみて『ダークナイト・ライジング』が革命的イメージの産出に失敗し、例外状態の生起からファシズム的総動員へ至る内戦のイメージにしかならない理由を、トッド・マガウアンはこうしたラカン的な欲望の論理から説明している。そうだとすると、評者には、そもそも映画の最重要人物を〈奴隷〉に設定しているところに、『ダークナイト・ライジング』が革命を回避する口実をあらかじめノーランが与えているように思えてならない。ここにはノーラン自身の欲望の誤認があるかのようだ。

 本書のような読解に対してある層の読者は、いかにも外挿的なものだと思うかもしれない。トッド・マガウアンの現代思想的な分析が正しいのであれば、なぜクリストファー・ノーランは映画を撮り続けているのか、いっそ自分で解説を書けばいいではないかと思うかもしれない。しかし、そうではない。ノーランはある媒体によって、すなわち映画という精妙な「嘘」の装置を介してしか思考しないのだ。これこそ芸術による迂回というものだ。トッド・マガウアンのやっていることはまた別のタイプの迂回なのである。

 9月9日にはいよいよクリストファー・ノーランの新作『ダンケルク』が公開される。本書の読者にとっては、トッド・マガウアンの読解法を新たな対象に適用してみる絶好の機会になろう。どのような驚くべき「嘘」が設えられているのだろうか。

 (日本映画大学・現代思想)