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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

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「日本会議」本を斬る!

「日本会議」は氷山の一角。
右派系大衆運動は私たちの生活に迫っている
鼎談 斉藤正美×能川元一×早川タダノリ

 ■国政に大きな影響を与えているといわれる保守系運動体「日本会議」。昨年から今年にかけて「日本会議」に関する本が多数刊行され、一般にも「日本会議」の存在は浸透したと言えるだろう。そんな「日本会議」本ブームが一息ついたところで、保守系団体の活動を批判的にウオッチしてきた斉藤正美、能川元一、早川タダノリの三氏が、各本の功績と問題点を総括。「日本会議」研究の〝これまで〟と〝これから〟を明らかにする。

■「日本会議」本ブームから一年

 早川 二〇一六年から一七年にかけて、「日本会議」に関する本が、ムックも含めると一〇冊ほど刊行されました。

 言うまでもなく日本会議とは、神社本庁など反共右派宗教団体が結成した「日本を守る会」と、右派文化人や郷友会などを組織した「日本を守る国民会議」が、一九九七年に統合してできた保守系運動体です。第二次安倍内閣の閣僚の多くがこの日本会議国会議員懇談会に所属していたことや、改憲に向けて「美しい日本の憲法をつくる国民の会」などを立ち上げ大々的に大衆運動を展開したことが話題になりました。

 二〇一六年九月五日に、朝日新聞が夕刊一面で「日本会議」本ブームを取り上げ、菅野完『日本会議の研究』が約一五万部、上杉聰『日本会議とは何か――「憲法改正」に突き進むカルト集団』二万二五〇〇部、成澤宗男編『日本会議と神社本庁』約一万部と報じていました。

 能川 全部合わせれば三三万部は超えているでしょう。

 早川 これは、売れない人文書を作っている私からすると驚愕の数字です。それだけ日本会議――安倍政権の背後にあるらしい不気味な組織はいったい何なのかということが話題になったのでしょう。いま、安倍政権の支持率が下落する一方、日本会議国会議員懇談会の副幹事長だったこともある小池百合子の「希望の党」が自民党とともに憲法改悪への動きを現実的に強めている中で、この「日本会議」本ブームについて改めて振り返る必要があるのではないでしょうか。

 そもそも右派系運動体に関する書籍は、七〇年代にはたくさん出ていました。例えば、日韓癒着やロッキード事件を契機にして、政治権力に侵入する右翼・旧軍人などの人脈を暴露した、政治評論家の山川暁夫、ジャーナリストの茶本繁正らの仕事がそうです。また八〇年代には管理教育との関連で、林雅行『天皇を愛する子どもたち』(青木書店)、『「国民学校の朝」がくる』(柘植書房新社)などの優れたドキュメントもありました。

 九〇年代以降になると、歴史教科書問題がクロースアップされたこともあり、俵義文や上杉聰たちが、「新しい歴史教科書をつくる会」内部の右派人脈についての詳細なルポを継続的に出していました。しかし、残念ながら歴史教科書プロパーの問題と読者に受けとめられたのか、日本の右派運動総体の実体構造を解き明かすという問題意識までには社会的に広がらなかったのではないでしょうか。

 そして二〇〇〇年代に入ると、保守派からの「男女共同参画」「ジェンダーフリー」「性教育」バックラッシュが起こり、それに対する、フェミニズム的観点からの反撃が起き、『ジェンダーフリー・性教育バッシング』(大月書店)、『「ジェンダー」の危機を超える!』(青弓社)、そしていちばん有名な『バックラッシュ!』(双風舎)などが立て続けに出版されました。

 他方、二〇〇三年には小熊英二・上野陽子『〈癒し〉のナショナリズム』(慶應義塾大学出版会)という、「新しい歴史教科書をつくる会」などの右派運動に惹かれる人たちを追った本も出ています。また二〇一二年には山口智美・斉藤正美・荻上チキ『社会運動の戸惑い』(勁草書房)が出ました。これはフェミニズムの観点から、日本会議を構成している部分だけでなく、統一教会(現‥世界平和統一家庭連合)系の草の根保守運動の一端を明らかにした本です。

 斉藤 私たちの『社会運動の戸惑い』は、二〇〇〇年代の日本会議や統一教会からの男女共同参画や性教育バッシングをしていたのは誰なのか、なぜ批判したのかを実際に保守サイドに話を聞きに行って検証したものでした。事後的な検証という限界もありましたが、保守側がそれぞれの地域や現場で実際にどういった動きをしていたかを明らかにしました。必ずしも、言われているような「中央の司令塔」があって、そこから指示を出す事例だけでなく、メディア、議員、活動家などさまざまな保守ネットワークを活用しつつ地域で運動を繰り広げたり、ほかの地域と連携して運動を拡大したりするなど、さまざまな運動のやり方があることを指摘したものでした。ただ、日本会議の本体については調査が及びませんでした。

 能川 二〇〇八年には俵義文『「つくる会」分裂と歴史偽造の深層』(花伝社)という本も出ましたが、一部でしか読まれなかった。だからいまだに「つくる会」が分裂して右派系の教科書が育鵬社と自由社から出ていることを知らない人は多いです。

 早川 今回の「日本会議」本ブームは、私から見ると意義は大きかったと思っています。改憲運動を中心に安倍政権に深く食い込んでいる右派集団についての関心を、多くの人々に喚起したからです。「日本会議」本の読者だけでなく、「日本会議」という名前を聞いたことがあるという人も含めるとかなりの数になるでしょう。だから、二〇一七年二月以降問題になった森友・加計事件に際しても、「これも日本会議なんじゃね?」という目で見ることができるようになったのだと思います。

 能川 特に教育勅語の問題がそうでしたね。

 早川 「日本会議」本のほとんどで、谷口雅春(「生長の家」創始者)時代の旧生長の家系活動家たちが日本会議のコアメンバーとなっていることが指摘されていることもあり、森友学園での教育勅語問題を擁護した稲田朋美防衛大臣(当時)の過去の発言が次々と暴露されて、「やっぱり谷口雅春原理主義者か!」という見方がぱっと広がりました。森友学園の籠池理事長についても、日本会議大阪が「彼は会員ではありません」という声明を即座に出したのも興味深い現象でした。

 能川 「日本会議」本ブームの前に、安倍首相や参議院議員の山谷えり子が、在日コリアンに対する差別的な街宣を行ってきた「在日特権を許さない市民の会(在特会)」の元活動家と一緒に写っている写真が出ました。しかし徹底した追及はされずに忘れ去られてしまった感があります。これがブームのあとだったら、また違ったことになっていたでしょう。

 早川 二〇一四、一五年の段階では、いちばんの鼻つまみは在特会だったわけです。しかし、安倍政権の背後には日本会議という、もっとエスタブリッシュメントなでかい運動があった、そのことに多くの人が気づいたきっかけとなったと思います。

 斉藤 小池百合子東京都知事が、希望の党の当初の政策協定書に「外国人地方参政権反対」を入れたり、関東大震災時に虐殺された朝鮮人犠牲者を慰霊する式典への追悼文を断ったりするなど、排外主義的傾向を出し始めたことが話題になりました。俵さんの『日本会議の全貌――知られざる巨大組織の実態』では、日本会議が二〇一〇年に外国人地方参政権に強く反対するなど、排外主義的な主張を展開していたことがしっかりと書かれていました。その後の政治への予見性という意味でも重要な記述でした。

 能川 俵さんの本は「全貌」と銘打っているだけあって、論点の欠落は少ない。この本のいちばんすごいところはほかの本に出てこない名前がたくさん出てくる点。「日本女性の会」のメンバーもちゃんと出ている。逆に言うと、初めて読む人には分かりづらく思えるかもしれない。

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なぜ日本は琉球国が米仏蘭と締結した三条約を持っているのか、それが「琉球処分」を阻止する力とならなかったのはなぜか

三条約を対象とした本格的歴史研究の先駆け
評者:後田多 敦

 読者のみなさんは、日本国が所持する最古の条約原本はどこの国との条約なのか知っているだろうか。日本初の条約は、ペリーが来航し一八五四年三月に結んだ日米和親条約だが、その日本側原本は江戸城火災で焼失し存在しない。現在日本が持つのは、そのアメリカ側原本の複製である。

 では、最古の現物はというと、琉球国がアメリカと一八五四年に締結した琉米修好条約(著者の表記に従う)の琉球側原本で、日本が締結した条約ではない。それではなぜ、日本は他国の条約を持っているのか。簡単にいえば、奪い取り、そのまま所蔵しているからだ。それはまさに略奪を行った近代日本の物証でもある。

 その点で琉米修好条約原本の存在は、現在でも日本の喉元に刺さった棘のようなものだ。原本の存在や価値を説明すれば、主体として琉球国の名が表に出て、略奪等の歴史も明らかになる。返還した場合、文化財にでも指定され、または別の形で利用されでもしたら、琉球併合の評価にも影響を与えかねない。日本が持っていること自体、琉米修好条約をめぐる問題がいまだ未決であることの証明でもある。

 本書はそのような琉米修好条約と、さらに琉球国がフランス(一八五八年)やオランダ(一八五九年)と締結したものを合わせ、米仏蘭三か国との修好条約に光をあてて「琉球処分」を検討している。この三条約は、日本史教科書ではほとんど扱われないが、近年の沖縄では、地元の「琉球新報」の取り組みもあり関心は高い。本書は、その三条約を対象とした本格的な研究の先駆けだ。

 本書が三条約を通して検討する「琉球処分」を簡単に説明すれば、日本による琉球国併合のこと。米仏蘭からみれば、国際法上の主体だった琉球国が滅ぼされた事件が「琉球処分」となる。三条約を通して、琉球国滅亡は東アジア史の枠を越え「世界史」上の事件となった。事件の「国際化」である。これは当時も、日本が恐れていたことだ。その点だけでも、本書の問題設定がビビットな意味を持つことが伝わるだろう。

 本書の問いの一つは、琉球国が米仏蘭と締結した条約(米は批准、仏蘭は批准はしていない)が、なぜ日本の「琉球処分」を阻止する力とならなかったのか、というものだ。その問いに答えるため、本書は一八四〇年から七〇年代までの時期にフォーカスしている。

 「琉球処分」以前の琉球は、清国と明の一三七二年以来の冊封・進貢関係にあり、一方で島津氏の侵略を受けた一六〇九年以降は、その実行支配のもとに置かれていた。琉球・薩摩・幕府関係の変化を琉球使節の江戸参府、幕府の外交などを取り上げながら追う。江戸幕府は琉球を「異国」としながら日本の「属国」(薩摩の領分)と位置づけ、琉球側は自らの独立性を維持し、権力制度を維持するためなどに使節を活用していたと本書は整理する。

 関係は変化しながらも安定していたが、それを揺さぶるのが一九世紀半ばに登場した西洋列強だ。本書は条約の交渉過程や内容、実行性を分析し、琉球は米仏蘭の三か国に対し異なる政策をとったとする。一方、欧米列強は清や日本との関係を認識しつつ、琉球を国際法上の独立国として認めていたという。

 琉球王府にとって、条約体制に入ることは、清の冊封体制から離脱することではなかった。しかし、幕府は琉米修好条約が締結されたことで、琉球が「取ラレル」ことを恐れ始めた。本書は「琉球処分」のターニングポイントをアメリカの琉球開国要求に見る。十九世紀後半の琉球は、清・薩摩(日本)・欧米(米仏蘭)の力がぶつかり合う中にあった。そして、一九世紀末、日本に併合解体された。

 日本の動きに対し、琉球は当然ながら、米仏蘭に条約締結国としての支援を求めた。日本は早い段階で、三条約書を奪い取り、アメリカには条約の「御維持」を伝える。アメリカはそれを受け、事実上「琉球処分」を承認した。三条約の国は動かず、琉球を支援することはなかったのである。

 本書はさらに踏み込む。フランスは支援しないことを選び、アメリカの立場は中立的ではなく、日本との関係を維持・強化することを選択したと考える。そして、一八八〇年の「琉球分割条約案」へとつながる元米国大統領グラントの調停が、琉球問題を清国と日本の二国間の問題へ押し込め、琉球の独立性を証明できた三条約の「法律上の価値を無効にさせた」と指摘する。

 琉米修好条約の価値を失わせたのは、一方当事者のアメリカだった。本書のテーマはここで終わるが、米仏蘭に見放されると、日本へ抗う琉球の運動は、古く長い関係の清国へさらに収斂していく。多くの亡命者を生み出した琉球救国運動の本格化だ。日本側からすれば、周辺諸国地域への侵略の始まりである。

 従来の「琉球処分」研究の多くは、東アジアの枠組みの中でなされてきた。しかし、「琉球処分」は、いわば東アジアの冊封体制と欧米の条約体制、近代日本の成立過程がぶつかりあう場での出来事であり、琉球を取り巻く日本、中国、欧米の動きを踏まえなければ全体像は浮かび上がらない。その点でも、本書が欧米からの視点と情報を提供し、「琉球処分」を「世界史」の事件として位置づけた意義は大きい。一般読者にとっても、歴史観を揺さぶられるものとなるだろう。

 日本政府は二〇一八年を「明治150年」と位置づけ、各種の取り組みを行うという。そこでは、琉球国の三条約を日本が持っている意味や来歴も問われるのだろうか。なぜ、日本は他国の条約原本を持っているのか、と。日本政府はともかく、日本社会としては少なくとも、そのことを問う程度の向き合い方はしてほしいと思う。

 (神奈川大学准教授)

在日コリアン研究のピースを埋める

戦後「外国人=在日朝鮮人」はいかに生み出されてきたのか
評者:佐々木てる

 「密航」。この言葉自体の印象は一般的に悪く、そしてあまりに暗いイメージがある。移動する人々にとっては必死の逃亡や移動であり、まさしく命がけの行為と捉えられる。そしてそれは国境が定まった地域においては、取り締まりの対象であり、厳しい管理を必要とするものである。「密航」という行為の重さは、処罰を覚悟のうえで、生死をかけた行動であるが故の重さであり、それがその言葉に深く暗い響きをもたらす。

 在日コリアン研究においてこの「密航」というテーマはタブーだったように思える。というのも密航で日本に渡ってきたことが明らかになれば、その人は最悪強制送還になり、また不法入国者としてのレッテルを張られる可能性があったからである。そのため「密航」で渡日したことは、永く語れないことだったのかもしれない。しかし同時に、在日コリアン研究に携わるものであれば、一度は「私は密航してきたんですよ、みんなそうでしたよ」といった語りにであう可能性は高い。そしてその時深く聞いてはいけないと感じると同時に、語り口から特段変わったことでもなかったのではないか、といった矛盾した感覚を味わうことになる。この違和感の正体を本書は見事に明らかにしてくれている。

 本書は『外国人をつくりだす』というタイトルで、朝鮮人を外国人として定めた経緯、すなわちどのように「外国人」として登録し、入国管理の対象とすることができたかを問うものである(3頁)。というのも、戦後直後の日本においては朝鮮人と日本人の区別は、簡単に見分けはつかなかった状況があり、その中で制度として朝鮮人を「外国人」として登録させていく作業は混乱した社会状況の中では大変な困難を伴うものであったからである。実際本書が指摘しているように、存在しない人の登録、二重登録なども行われ、制度の正確な適用の難しさは想像に難くない。ではなぜこれまで、「日本人」としてあつかわれていた朝鮮人を見分け、そして「登録」させる必要性があったのか。そしてそれが可能であった社会的背景、もしくは社会意識はなにか。本書の読みどころはまさしくこの問いに対し、「密航」という現象から迫る点である。

 著者が述べるのは「外国人登録」という制度が成立する背景には、戦後日本に朝鮮半島から日本に渡ってくる人々を取り締まることにあった点である。というのも渡航してくる人々が社会不安をもたらしたり、「コレラ」を蔓延させたりするという理由で、取り締まる必要があったと指摘する。このため日本にいる外国人=朝鮮人と朝鮮から渡ってくる「密航者」を区別するために、日本の朝鮮人の登録がはじめられた。つまり「外国人登録証」を携帯していないことが=「密航者」として認識する手段となったのである。しかしこのことは、朝鮮人が外国人として制度として定義される以前に、彼はもともと日本人でないから、外国人として登録しなければならないという、ある意味矛盾した遡及的判断が一般に認識されていたことになる。この点を著者は大沼保昭の言葉を借りて、「表見的一致」と指摘する。国籍や登録制度以前に、日本社会においてよそ者として「認識され」、そして当人も「認識していた」という大前提があってこその社会現象だったわけである。このことは密航の際に様々な工夫が取られることでもわかる。例えば、密航の際にはできるだけ日本人と「みられるように」ふるまう。家族で来ても、子供はできるだけ日本人の大人のそばにおいて、行動させるなどである。こうした法令や社会状況のダイナミズム、「法令と前提と状況とカテゴリーの円環」(217頁)こそが戦後の「在日朝鮮人」を生み出したというのである。

 また本書では戦後直後の混乱の中で、どのように制度が運営されていったかも描いている。例えば外国人登録を積極的に行う背景には、食糧配給台帳(米穀通帳)を前提とした食料配給制度があったこと。それが自らすすんで登録を行うことの一つのモチベーションになっていたことだとわかる。そして同時に外国人登録の際には、無籍者でも見知った人であれば登録書を発行する、貧困期の日本社会においては「そでの下」で登録書が発行される、また民族団体による集団登録によって架空の人も登録され登録書が偽装されるなど、様々な抜け道=工夫によって登録が行われていた。これらの現象を「ずさんな」制度運営と指摘するのは簡単である。しかし、著者の描写からはむしろ戦後日本の混乱期の知恵と工夫、そして時には「民族」をこえて助け合ってきた人間くささが嗅ぎとれる。

 本書は在日コリアン研究の中でもこれまで中心的には扱われてこなかったテーマであるとともに、人が外国人や国民、民族として創り出されるダイナミズムを具体的な事例をもとに提示した作品だといえるだろう。そしてそのダイナミズムはミクロな日常の中での人々の相互作用によって徐々に創り出されてきたことを見事に描いた作品といえる。

 (青森公立大学経営経済学部地域みらい学科准教授)