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 ◆ 3325号(10月28日発売号掲載)

不変と変化、この30年

レイシズムとナショナリズムの不可分な力関係
評者:酒井隆史

 ■文化研究とポストコロニアリズムが日本語世界においてもひとつの知的風景を形成してから、かなりの時間がたった。本書は、本来そのような知的営みの源泉のひとつであるはずのポール・ギルロイの主著の遅ればせながらの翻訳である(本書のオリジナルの刊行は1987年である)。

それにしても、現時点からこの書の話題になった時代をふり返ってみれば、それほどの時間がたっていないものの、隔世の感は否めない。最大の要因は、本書の主題をなすレイシズム(本書では「人種差別」と訳されている)とナショナリズムという二つの要素の力関係である。日本語圏でギルロイが話題にのぼりはじめたとき、人文社会科学の領域では、「ナショナリズム」、「ネーション」、「ネーションステート」の批判に異様ともいえるほど力が注がれており、それに引き換え、レイシズムへの注目は弱かった(クラスとなるとさらに絶望的であった)。それがいまでは完全に逆転している。「レイシズム」――レイスというより――という言葉は耳にしない日はないぐらい流行しているが、ナショナリズムへの批判は弱々しい、どころか無条件の肯定への傾向が強まっている(クラスの位置の低さは安定して揺るぎない)。たとえば、この時代から20年近くたち、保守政権への反対集会では「国民」を主体としたスローガンが連呼され、「反レイシズム」を掲げるデモでは日の丸の表象が肯定的に利用されるという状況があらわれているが、そうした趨勢が、知的状況の変貌と密接にからみ合っているのはあきらかである。

 このナショナリズムへの全面的傾斜に対して批判があらわれるのは、ごく当然である。ところが、それは一部の運動志向の研究者たちによる強烈な反撥によって迎えられた。運動を阻害するいいがかりである、というような主旨である。学生であろうがなんであろうが世代問わず主体として認め、容赦なく批判し合うという作風を建前とした「反権威主義的」な運動の作風ないし知的環境を当然としてきた者にとって、異様な光景であった。運動の力学で批判的な知的共同体の作法が圧迫されるという、それ自体はとりわけかつてよくみられた風景であるが、それにしても変われば変わるものである(あるいは骨がらみのナショナリズムはなにも変わっていなかったというべきか)。

 本書の翻訳がこのように一変した状況のもとに公刊されたことは、なんとなくの流行のなかでのなんとなくの「ネーション批判」のようなものとして受け流されるよりは、むしろよかったかもしれない。

 本書は、社会的文脈としては、1,ポスト帝国的状況、2,1960年代後半以降の民衆闘争、3,戦後福祉国家の危機~ネオリベラリズムの擡頭、知的文脈としては、4,イギリス・ニューレフトにおけるアルチュセールの受容以降のイデオロギー論、言説・表象分析の流れ、5,それ以前からの独特のイギリス左派の知的伝統、6,移民経験をもつあたらしい急進派知識人の擡頭、このようなもろもろの合流点で生まれた記念碑的著作である。

 本書や本書に表現される知的営みの成果は、いまこそ日本語環境においてもより理解されるはずである。というのも、ネオリベラリズム、レイシズム、反レイシズム、ネーション、権威主義的ポピュリズム、福祉国家の解体、治安取締強化といった諸要素が騒々しくたがいに作用しながら、累乗効果でその危機を深化させていくといった状況が、その分析を囲繞する風景であるからだ。これらの諸要素は、時系列を無視すれば、いまの日本ではすべて「わかりやすいかたち」で出そろっている。

 このギルロイの分析するイギリスの過程と本書の分析の力点を理解するために、まず「ニューレイシズム」(日本語訳では「新しい人種差別」)という概念をとりあげよう。本書の内容を集約するひとつの概念が、「ニューレイシズム」であって、生物学にかわる文化による「レイス」の再定義を指している。みずからをそうとはみせないレイシズム、ナショナリズムと独特のかたちで浸透し合うレイシズムへの変貌である。かれら「ブラック」は、生物学的に根ざした素質ゆえに問題なのではなく(それが「差別」であることは認める――われわれはもうやらかさない)、このイギリスというネーションに、とりわけそのブリティッシュネスの真髄である法の文化になじまないから問題であるというわけだ。本書第三章「無法な異邦人たち」で、犯罪政策、警察戦略、メディア表象、移民の抵抗の複合的過程を通して「ブラック」が犯罪者のニュアンスを帯びていく過程が分析されるのも、このようなレイシズムの機能転換が重要だからである。この意味転換こそ、犯罪と重ねられることで他者化された他者を、その庇護者としての「官僚」「左派」「リベラル」「労働組合」などと連結させ、ひとしく「一般大衆」と対立させる戦略、サッチャーにおいて頂点に達する「権威主義的ポピュリズム」の戦略の要なのである。ちなみに、レイシズムという概念が、生物学的には差異をいうのに困難な他者、東アジアの諸民衆に対する差別をめぐって日本において用いられるとき、その条件はこの「レイシズム」の意味転換であろう。その意味では、日本において、レイシズムは、かねてより「ニューレイシズム」であったともいえる。

 本書において、レイスは「レイス」とカッコにくくられる。その理由は、レイスの定義が規定的な意味内容をもたないこと、権力と闘争、とりわけ階級闘争や反レイシズムの闘争との力関係の磁場におかれて揺れているからである。第四章「反人種差別のふたつの側面」では、1,ロックという大衆文化を舞台とした反レイシズム、2,反ファシズムの反レイシズム、3,大ロンドン市の行政による反レイシズムの三つの事例の検討を通じて、そのタイトルの通り、反差別の両義性が考察される。おおざっぱにいうと、こうした現実のなかでさまざまな意味作用との相互作用のなかにあって具体化された意味内容のレベルを射程に入れない反レイシズムは空振りするということである。それはとくにナショナリズム(もうひとつは資本である)との関係であらわれる。たとえば、反ファシズムを旗頭にし、レジスタンスの記憶を活性化させながら、ナショナリズムの神話に依拠して対抗しようとする反レイシズムがある。また左派知識人のなかには、ナショナリズムを右派から奪回しようというかけ声も根強くある。こうした傾向、すなわちレイシズムとナショナリズムの不可分の関係の軽視の傾向にギルロイはきびしい。それは特定の時間と特定の地理をもった具体的なレイシズムの作用や経験を重視せず、レイシズムの機能転換もみず、そのため「真のネーション」を語る「文化的レイシズム」と重要な点で思考の型や世界観を共有してしまっているのである。この分析を「反安倍」の旗印のもとにネーションの神話を賦活させてやまない日本語環境における知的趨勢を重ねてみるのはやさしい。しかし、ただ重ねることが重要なのではない。もし本書が15年前に翻訳されていたら、このような批判は自明のものとして波紋を起こすこともなかっただろう。だが、もしまじめに読まれるとするならばだが、いまの日本における政治的スペクトラムの真ん中から左にかけての少なくとも主流には波紋を及ぼさずにはいないはずだ。そこではじめて、流行の勢いで首をたてにふるのではない、いまある場でギルロイらとの実質的な知的課題の共有がはじまるだろう。

 ところで、本書の白眉は第五章「ディアスポラ、ユートピア、資本主義批判」である。ここでかれは、英国において「黒人性」とはどのような「黒人性」であるのかという問いを提起し、それに応じていく。その応答がどういうものかは、よく知られている。国境と大洋を横断して反響し合うブラック・ディアスポラ世界のひとつの局所的磁場である、というものだ。20世紀、とりわけ大戦後の黒人音楽を、アフリカ、カリブ、北アメリカ、イギリス、あるいは世界中の諸都市の黒人共同体との呼応の過程とみなす第五章におけるディアスポラ詩学には、感動を抑えるのはむずかしい。打たれてもいくども起ち上がり、遠い同胞の言葉にはげまされ、生き生きと応答しながら音楽という美しい結晶をつむぎだしていく過程を追うこの章のモチーフは、のちの主著『ブラック・ディアスポラ』に結実していく。

 とはいえ、刊行からの30年をふり返りながら、その間の不変と変化が語られる本訳書によせられた序文を支配するのは陰鬱な響きである。生き生きとしたブラックの共同体はもはやなく、ひとの絆はほぼ解体され、マイノリティはマイノリティと戦っている。いまでは、ユニオンジャックにブラックはある。おそるべき「企業的多元主義」の時代なのである。レイシズムは「ニューレイシズム」から、さらに質を変える徴候を示しながら、より強固に、より浸透をみせている。すなわち、状況はより深刻で、より困難なものである。わたしたちの課題も、おなじである。

 (大阪府立大学教員)

絵と言葉のみごとな融合

苦しみながらも前に進もうとする人間の姿
評者:下田明子

 ナンシー・キーファーが絵を描き、レベッカ・ブラウンが物語を書く――そう聞いただけで、わくわくする。

 十五枚の肖像画と、それにインスピレーションを得て書かれた十五編の短い文章からなる本書は、題名にもなっている「かつらの合わない女」の絵と「彼女」から始まる。

 内面に傷を抱えて生きている「彼女」は、何かから、この世界から、逃げ出してしまいたいと悩む。苦い記憶をたどり、自分の心の奥深いところを見つめ、苦しみながら彼女が出した結論は、ここにとどまることだった――。

 この最初の短編も含め、すべての物語には明確なストーリーは設けられていない。絵から受ける印象をつかみとり、それに言葉を与えて文をかたちづくっていく、ある意味、極上の詩集を読んだ後のような気持ちになる。

 しかし、本書の素晴らしいところは、絵からの印象をそのまま写し取っただけではなく、そこにひとつの大きなテーマが貫かれていることだ。冒頭の「彼女」をはじめとして、目が見えず、しゃべれず、「二十四時間の世話を必要とする」赤ん坊として生まれ、やがて自立ののちにやがてまたその状態に戻る人間を描く「老いている」や、「すごくいいやつ」で、不平も言わずに頑張っている人が、いいやつでなくても恵まれた環境や資質を持った人間がすべてを手にする不条理な世の中で踏みつけにされる様子を描いた「何も」などに共通するのは、苦しみながらも前に進もうとする人間の姿だ。

 また中盤の「キャビン」では、童話を下敷きにして人間の肉体が滅びるさまや、互いに傷つけあうさまが、容赦ない言葉で描かれ、「灰色」や「誰か」では、拷問や犯罪の匂いすら感じさせる。ここにも、肉体の滅びや精神的な苦しみにうちのめされそうになりながら、どこか冷静な目でそういう自分を見つめ、その先を見据える人間の姿があるように思える。

 次の「仕事」で、その冷徹さはいっそうきわだつ。この短編の元となる絵の題名は「青い壺」。しかしこの壺は目も鼻も口もそろっている人間の顔であり、その瞳の中に映っているのは小さな人物のようだ。目の前にいる誰かほかの人なのか、それとも自分自身なのか。そんなことを考えながら文を読むと、これは囲い地で死体を焼く仕事をする「私」を描いた作品なのである。積み上げられたたくさんの死体、これはかつてどこかの収容所で亡くなった人々の死体をほうふつとさせる。ここでひとり作業をする「私」には他の記憶はいっさいないという。はじめからずっとここにいたかのように淡々と死体を処理し、それでも時々何かの記憶のかけらが頭の隅をかすめる。それはおそらく、思い出したくないできごとの断片で、心の中に押し込めてしまいたいのだ。もうそこには戻れないと知っているから。

 そしてまた、この「絶対にもどれない」「どうにもならない」という感覚も、本編のモチーフの一つであろう。続く「何か」でも、自分の顔についた「何か」圧迫するものに悩まされる人が登場する。絵の方は「ピンクの線」という題名がつけられ、顔の真ん中に淡いピンク色の縦線が入った女性(だろうか)の肖像画である。女性は目をつむり、薄く口を開いてどことなく苦しそうである。その印象は、「こいつを切り落としてしまいたいと思うけれども」という文によってさらに強まるが、ここでも最後は「そうは行かない」という、あきらめにも似た言葉で締めくくられる。

 けれど、ここで描かれる「どうしようもなさ」や諦念のような感情は不思議に明るく力強さを持っている。絵と文章の両方で描かれる苦しみもがく人たちの姿に息を詰めながらも、この不思議な明るさに一筋の光明を見出しながら読み進めていくと、最後に到達するのが「いつかある日」である。ここには一転して、残虐な行為も醜いものもない、美しい世界が広がっているのだ。そして最後の一文、これを書くために作者はそれまで、醜く暗い世界とそこで苦しむ人の姿を描いてきたのだと思わされるような力強い言葉。これを読むとまた、最初から絵と文を見比べ、読み比べてみたいと思う。まさに訳者が言うように、「絵を見て、文を読んで、また絵を見て…と往復していると、いつまでも抜け出せなくなるような呪縛力のある」(訳者あとがきより)作品である。

 (翻訳者)

    • 『人間の運命』
    • ラインホールド・ニーバー/著
      高橋義文/訳
      柳田洋夫/訳
    • 聖学院大学出版会

裁かれるという感覚

ニーバーの主著が翻訳されたことを喜びたい
評者:福田隆雄

 ラインホールド・ニーバーは、アメリカを代表する神学者、政治思想家であり、本書は、その主著である。丸山眞男による言及や「神よ、変えることのできるものについてそれを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについてはそれを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを識別する知恵を与えたまえ」[ニーバーの祈り]で、その存在を知るかたも多いであろう。しかし、手に入る肝心の翻訳書も少なく、我が国ではあまりなじみのない人物である。まずは、その主著が翻訳されたことを喜びたい。ちなみに本書は、『人間の本性と運命』二巻本のうち第二巻である(ちなみに第一巻は、翻訳で二冊出ている。『キリスト教人間観 第一部 人間の本性』[武田清子訳、新教出版、一九五一年]、『人間の本性と運命 第一巻 人間の本性』[野中義夫訳、産学社、一九七三年])。ニーバーは、アメリカ前大統領バラク・オバマが、尊敬し、その名を挙げているように、歴代大統領や知識人、冷戦時以降の現代アメリカの精神、現実政治に多大な影響を与えている(トランプ現大統領については寡聞にして知らないが)。さらに著名な国際政治学者で、現実主義者の代名詞ハンス・モーゲンソーとの交遊などで知られるように、キリスト教現実主義の代表者とされる。

 肝心の内容だが、キリスト教信仰と神学の教養がなければ(まして興味がなければ)最後まで読み通すことはできない。永遠と時間、愛(アガペー)と正義、原罪と原初的義(Justitia originalis)、贖罪、恵み、そして十字架の出来事と再臨などなどキリスト教と信仰ワードがめくるめく満載で、じつに難解だ。

 だが、あえて、大胆に、要約しよう。一つは、歴史の意味を考えること。それは終末までの「中間時」を我々は生きるという歴史的現実のヒリヒリする“気”のようなものを感じることだ。つまり、「歴史の栄枯盛衰と、歴史に必ず立ちはだかる死の事実によって束の間の安寧が絶えず破壊されることに気づく視点」という「終わりなき日常」(ちょっと古いか)ではない、まさにこの世の終わり、「終末」(Eschata)という歴史感覚(あくまでも本書は、新約聖書における“終末”であることに注意!)。

 もう一つは、個としての人間の生の意味、すなわち自由であることと、(原)罪と死から逃れられないという限界を見極める視点だ。人間は、自身を超越する能力をもち、自然の必然性から自由であり、自然を利用し、歴史を潜在的に創造できる主体である。しかし、「過剰な自己執着に表れる人間の悪が人間の本質的な自由の堕落であり、自由とともに増大」する。“有限”であり、自らの手では、“永遠”を把握できず、罪からも逃れることはできない。「歴史あるところに自由があり、自由のあるところに罪がある」のだ。

 それゆえにこそ、神による救済という究極の“外部”が必要となる。神の恵みにおける悔い改め、つまり歴史と個人の生の意味は、神の愛とキリストの十字架の出来事によって、成就される。「歴史の究極的完成は、単に繰り返される審判ではなく、歴史を生かす神の憐みにおいてでしかありえないのである」。

 だが、キリスト教信仰をもたない、神の恵みと憐みと力を信頼しない、「キリスト教的答えとは、キリスト教において啓示され、生も死もキリスト教の愛からわれわれを引き離すことができない神への信仰」、「キリスト教の歴史は、人々が真理と見なすものと絶えず戦う、キリストの真理の歴史なのである」という考えに同調できないものからすれば、本書の主張には、ただただ疑問あるのみだろう。

 では、そのような違和感をもつ読者にとって本書がもつ重要なメッセージとはなにか?

 それは、裁かれるという感覚。自由な存在である人間が己の限界を自覚しない“傲慢さ”を、さらに徹底して歴史の「永遠ノ相ノ下」で問われるということである。地位あるものが責任を放棄し、人種差別が蔓延し、むき出しの暴力と吹き荒れるフェイクニュース。この千変万化する現実世界において、この感覚は、私たちがもつべき世界観と歴史観に大いなる示唆を与えてくれる。

 さらに敷衍すれば、いまだ核の脅威におびえ、早朝から“Jアラート”が喧しい、我々の〈いま・ここ〉において、第二次大戦前、ヒトラーの台頭と日本の軍国主義の時代に行われた講義をもとにし、刊行後、核戦争危機の時代の超大国アメリカに多大な影響を与えた本書の意味は、はてしもなく重いのだ。

 「善と悪は歴史の中でともに増大するものであり、悪は独自の歴史を有するわけでなく、より大きな悪は常により大きな善の堕落である」、「われわれの運命についての知恵は、われわれが自らの知識と力の限界を謙虚に認めることができるかどうかにかかっている」という本書のことばとニーバーの祈りを、ロシア革命一〇〇年、宗教改革五〇〇年、大義なき総選挙、「希望」とあえて党名にし、何事か策す時代のなか、希望を持つということの意味を問うことと、共に、今一度かみしめたい。

 なぜなら、冷笑主義者でも、理想主義者でもなく、「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」る堅固な意志をもつ人々によって〈新たな世界〉は、建設されるはずだから。フィニス。(作品社編集部)