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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

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 ◆ 3326号(11月4日発売号掲載)

「歴史的な岐路」に立つ憲法9条と日本国民

平和主義をめぐる市民ネットワークと日本政府との埋まらない溝とは?
評者:岡 克彦

 ■先日の衆院選で、与党は全議席の3分の2以上を獲得した。安倍政権は“信任”を得たとして憲法改正へ向かう構えだ。投票前日の10月21日夜、東京・秋葉原での演説で安倍首相は北朝鮮の脅威を煽り、アベノミクスなどの政策を自画自賛した。日の丸が林立し、戦争前夜を思わせる好戦的、排外的な光景は、まぎれもない日本の現実だ。憲法、核兵器、選挙制度、社会運動……。改めてその意味を確認したい。関連する書評の特集を1~2面に掲載する。(編集部)

■北朝鮮による核実験および中・長距離弾道ミサイルの発射実験が実施され、これに対抗するべくアメリカ・トランプ政権の強硬措置をも辞さないチキンレースが、朝鮮半島での軍事的な緊張関係を極度に高めている。その一方で、最近、国連では「核兵器禁止条約」が採択され、核保有国やこれから核兵器を持とうとする国に対してその廃絶を求めることで「核なき平和」の実現を目指そうとしている。まさに相矛盾した世界の流れが北東アジア地域のなかに濁流している。

 今回、衆議院総選挙で自民党を含めて改憲勢力が議席のおおよそ8割を占めたことにより、憲法の改正がいよいよ現実味を帯びるようになった。本書は、タイムリーにも憲法9条の改正をめぐって、アジア地域を含め国際社会に対して日本がどのような「平和」のあり方に取り組もうとしているのかを直截に問うている。

 日本国が憲法9条について政府の破天荒な動き(憲法改正の発議要件緩和の前倒し論、集団的自衛権容認の解釈改憲など)をこれまで見せてきたのは、本書によると同9条の制定経緯とその規定に込められた平和主義に対する憲法思想に当初からズレが存在したところにその遠因があると示唆する。制定当時、「武力によらない平和」を9条で採用したのは、憲法制定権者たる日本国民の積極的な総意(決意)によるものではなかった。GHQと政府の交渉過程で、天皇に対する戦争責任を回避させると共に、天皇制を何とか存続させんがための最低限の条件として日本の再軍備を禁止する非武装化を憲法に明記するに至った。日本政府にとって憲法の制定は、平和主義にではなく、天皇制の持続にこそその重きが置かれていた。9条の成立は、GHQと日本政府との極めて戦略的な産物だったのである。

 戦後、憲法制定のズレは、現憲法がアメリカによる「押しつけ憲法」だと批判しつつ、直ちに自民党を中心に自主憲法制定の動きとなって現れた。現在、安倍政権の憲法改正論はこの流れに由来する。しかし、その一方で9条の非武装平和主義の思想は、史上初の原爆投下による「ヒロシマ・ナガサキ」での被爆および激戦の沖縄戦など、非戦闘員たる一般市民によるおびただしい戦争体験とが重なり合って70年という歳月の流れと共に国民に広く浸透していった。と同時に、この平和主義の憲法思想は、被爆・戦争体験者の高齢化とその減少で風前の灯のごとくいつ消えるかもしれない悲しい脆弱さをも内包している。

 皮肉にも「武力によらない平和主義」の考え方は、日本国内ではなく、国境を越えて各国の市民が結集する国際的な平和運動に強く受け継がれていった。そのなかで大事な取り組みが、本書によると「武力紛争を予防するためのグローバルなパートナーシップ体制の確立である」という。今年7月に国連で122の国と地域による賛成多数で「核兵器禁止条約」が採択されたことは、その試みのひとつの現れであった。その成果を生み出した主役が、国家ではなく、国際的なNGOなのだ。ICANという市民組織が、核兵器の廃絶を推進する国際的なネットワークづくりに尽力した。注目すべきは、そのネットワークの中心にある哲学や推進力がヒロシマ・ナガサキの被爆者たちによる地道な平和活動にもとづいていることである。そこには「武力(核兵器)によらない平和」の構築という憲法9条2項の精神がその根底に脈打っている。

 今年10月には、ノーベル平和賞がICANに授与された。これは単に受賞した事実だけでない。世界に最も甚大な被害をもたらす核兵器そのものを根絶させ、核による紛争を事前に食い止めるシステムをつくり出す上で、特に核保有国に国際的な世論の圧力を喚起させる効果をもたらす点に受賞の意義を見出し得る。

 ところがその一方で、同条約の採択やノーベル平和賞受賞に冷淡な姿勢を示したのが、意外にも唯一の被爆国であり、その恐ろしさをいずれの国よりも体現しているはずの日本政府であった。平和主義をめぐって市民社会と日本政府のねじれ切った、この温度差はどこに起因しているのだろうか。

 もちろん、その理由は、「核の傘」の下で同盟国たるアメリカの核兵器なくして日本の防衛が成り立たず、その兵器の全面禁止に直ちに踏み切れないところにある。より本質的な問題は、憲法9条2項の非武装平和主義が定められているにもかかわらず、日本政府は自ら核兵器の保有を憲法が禁じていないとの立場に立っていることである。今後の改憲動向からすると、9条2項そのものが書き換えられるのか、あるいは3項が加憲されることで「武力による平和主義」(積極的平和主義)へとシフトチェンジする危険性が高まっている。その原因は国際情勢の変化など、様々なことが考えられるが、やはり日本国が天皇制を存続させる前提条件として非武装平和主義を便宜的に憲法に定めたに過ぎず、国民の積極的な総意によるものではなかったとの憲法制定時のズレが、今になって露呈していることである。

 これから直面する憲法改正の議論は、このズレをどのようにリセットするのかが我々、日本国民に問われている。9条2項の「非武装平和主義」を改めて我々の総意とするのか、あるいは「武力による平和」へと日本の舵を切るのか、そうした歴史的な岐路に立たされている。今までアメリカを中心に欧米諸国から日本国に軍事的な国際貢献が求められてきたが、アジア地域からすると「日本は武力をもたなかったことこそが国際貢献であった」との著者のことばが重く響いてくる。

 (福岡女子大学教授)

日本が核廃絶のリーダーシップをとるために

世界的視野で核問題を考え、理解するうえで欠かせない一書
評者:勝田忠広

 日本は、原爆や水爆、そして原発の問題を「理解している」とは思えない。確かに私たちは核問題について世界に類のない国に住んでいる。広島や長崎への原爆投下に続き第五福竜丸による水爆実験を経験したが、現在、唯一の戦争被爆国という自負のもと、広島や長崎では被爆者の体験が語り継がれ、平和祈念式典が毎年開催されている。また近年では核の平和利用での苦い体験、つまり東京電力福島第一原発事故をも経験してしまった。

 しかし「理解している」という言葉を使う時、それは必ずしも体験のみを意味するわけではない。もちろんそれは想像を絶するもので、後世に残そうという不断の努力は並大抵のものではない。ただ一般の人々や政府はどうだろう。体験者の苦労を十分に共有し、彼らに代わり、さらなる洞察の上で普遍的な解決策を見いだす努力をしているといえるのだろうか。私にはそうはみえず、本書は私の考えを確かなものにしている。

 米国プリンストン大学の「科学とグローバル安全保障」プログラムに関わる研究者達によって本書は執筆された。ハロルド・ファイブソンとフランク・フォン・ヒッペルはこの分野における世界的に著名な研究者で、彼らから師事を受けた研究者は世界各地で活躍している。彼らの活動はInternational Panel on Fissile Material(IPFM,http://fissilematerials.org)にも詳しい。これは世界の政治家や政策立案者などを対象に、主として理系の研究者らによって核物質の管理動向など科学的な情報を提供する取り組みだが、本書もその構想に基づいているといえる。核物質――すなわちウランとプルトニウム――を軸として、保有や生産技術に関する様々な問題、そして削減方法について科学的かつ技術的に述べている。国際政治学や歴史学の視点にとどまらず、科学者らしい定量的な評価を冷静に示しつつ議論を展開しているという点で、従来の数多くの類書とは異なっている。

 残念ながら、日本は核問題において世界情勢から取り残された旧態依然の見識しか持ち合わせていない。例えば、ほとんどの人々は真に受けてはいないことではあるが、日本も核兵器を持つべきだという意見を語る人々がいる。しかし本書による世界の実情をみれば、これらがいかに世間知らずで恥ずかしい考えであるということが理解できる。最大約7万発から現在の約1万5000発まで核弾頭の削減にようやく成功し、高濃縮ウランと分離プルトニウムのさらなる削減について制度的・技術的な努力を行う世界の状況、言い換えれば核兵器を持つことの苦労を目にすれば、今更この核兵器コミュニティに日本が参加することに意味がなく、また世界と逆行する動きであることが痛いほど分かるだろう。余談だが、日本は核を保有しない、製造しない、持ち込まないという非核三原則を持っているが、実は法的拘束力はなく、その法制化をかたくなに拒んでいる。

 日本は平和利用の問題についても鈍感であるといえる。政府は「平和利用」のためのプルトニウムを積極的に生産しようという計画を1950年代から持ち続けている。来年には青森県の六ヶ所再処理工場を稼働しようとしているが、実現すれば原子力発電の運転で使用した燃料から毎年数トンのプルトニウムが抽出され、原発での再利用が可能となる。しかし日本は過去に海外で再処理を委託していた関係で、既に約50トン弱のプルトニウムを保有してしまっている。これは非核兵器国では最大量だ。福島事故の影響もあり、この危険で高価なプルトニウム利用について需要や正当性は今やない。本書ではこの懸念だけでなく、米国によるプルトニウム処分研究の事例も示されており、現在においてプルトニウムを持ち続けることの意味のなさを示している。なおやや技術的なことではあるが、原発から抽出するプルトニウムは核兵器には使えない(だから問題はない)、と主張する一部の日本の政治家や自称専門家がいるが、これについても明快に科学的な知見から反論している。いずれにせよ、平和利用と軍事利用について技術的な違いはなく、だからこそ世界は苦労していることが明らかにされる。日本のように原子力と核は別々の問題だといった無邪気な考えはない。

 核問題は遠い国の過去の話ではない。今年7月には、国連において核兵器禁止条約がようやく採択された。これにより核兵器は正式に違法となったが、日本政府は米国の核兵器に守られていることから不参加を表明し世界から失望された。また北朝鮮は数発分のプルトニウムを保有していると考えられており、既に6回の核実験を行っている。日本はよくて北朝鮮は駄目といえるのだろうか。世界的視野で考えるために本書は欠かせない。

 私たちが「核兵器を持たない」という一番の説得力により世界の核廃絶のリーダーシップをとることが今、世界から待ち望まれている。そしてそれこそが核問題を「理解している」ということではないだろうか。

 (明治大学法学部准教授)

奥平憲法学を実践として継承する

理論と実践の到達点と現況を俯瞰し、表現の自由の根拠を問い直す
評者:駒村圭吾

 本書は、そのタイトルとサブタイトルに全体像や狙いのすべてを語る“しかけ”がほどこされている。ある意味でありふれたこの書名にピンときた方もいると思う。そう、この書名こそは、憲法の理論と実践の双方で大きな足跡を残し、先年逝去された奥平康弘氏の主著『なぜ「表現の自由」か』(東京大学出版会、1988年)を踏まえたものである。編者三名を含む執筆陣の中には奥平の謦咳に直に接した方も多いように見受けられるが、本書はもはやモダンクラシックスに属する奥平作品と同じ書名を冠することによって、奥平憲法学を理論的な水準のみならず、まさに実践として継承しようとするものである。つまり、「なぜ表現の自由か」を、1988年に続いて、2017年の状況下で再問すること、かかる同じ問いの反復によってこそ、表現の自由に生命を吹き込み続けることになる、というわけである(はしがき)。

 また、サブタイトルとして付された「理論的視座と現況への問い」も気が利いている。本書は表現の自由の“理論”の現時点での到達点を総括する「第Ⅰ部」と、表現の自由そのものが置かれている現在の問題状況を素描する「第Ⅱ部」に分かれているが、それをサブタイトルは反映している。書名がきちんと構造化されているのである。かつて評者も『表現の自由Ⅰ――状況へ』『表現の自由Ⅱ――状況から』という二巻本を鈴木秀美教授と共編で出版したことがある(尚学社、2011年)。実はこれも奥平のもうひとつの大作『表現の自由Ⅰ――理論と歴史』『同Ⅱ――現代における展開』『同Ⅲ――政治的自由』(1983~84年、有斐閣)へのオマージュであり、かつ、表現の自由の学説と実務の橋渡しを狙ったもの(その意味で「理論的視座と現況への問い」を分冊したようなもの)であったわけで、本書と相似的な企画であったのである。ことほどさように表現の自由はその原理論にさかのぼって再問されざるをえない課題である。まさに研究者をしてeternally vigilantにさせずにはおかないシロモノと言えよう。

 さて、本書が奥平のレガシーないしは問題意識をどのように継承しているのか、またしていないのかについては読者各位にお委ねしたいが、本書は奥平憲法学を特に知らなくとも楽しめるし、また有益である。先にも触れたように、理論的到達点の確認を行う「第Ⅰ部」と、現代的論点に対する概観を行う「第Ⅱ部」からなる欲張った構成であるにもかかわらず、実にコンパクトなボリュームになっている。扱われるカレント・イシューも、忘れられる権利、ヘイトスピーチ、ろくでなし子事件、朝日誤報問題、国会周辺デモ、ダンス規制に匿名表現と網羅的だ。表現の自由の理論と実践の到達点と現況をまずはざっと俯瞰してみたいという向きには絶好の書であろう。

 その上で、次のような感想をもっていることも記しておきたい。「なぜ表現の自由か」という問いを反復することは、表現の自由の根拠を問い直すことであった。再問のたびに、この権利の原理論を構成する諸概念も再確認されてきた。本書でもおなじみの概念がずらっと顔を出す。しかし、表現の自由を取り囲む現状は、原理的根拠や概念の健在ぶりを確認することも大切だが、それ以上に、そのような根拠や概念がそもそも可能なのかを問う水準での考察を要求しているように思われる。

 そのような考察のきっかけになりうる伏線は本書のなかにも発見できる。いくつかあげておきたい。思想の自由市場の想定する「真理」概念が完膚なきまでに相対化されているが(阪口正二郎論文)、それが果たしてきた規整的役割を今日何が代替できるのか、という視点もほしい。非権力者の自由な議論こそ理性の苗床となるであろうが(毛利透論文)、権力者と非権力者が共振して理性への反逆をくわだてている今日、それはどのようにして可能か。大学、放送、選挙などの諸制度ごとに表現の自由の制度論を精緻化し、この自由のカスタマイズが求められているが(横大道聡論文)、そろそろ具体的な提案を見てみたい。仲介者、三面関係、共同規制という新たな規制のアクターとフォーマットが浸潤しているが(曽我部真裕論文)、この点にスポットライトを当て、まさに「憲法構造のあり方を再検討する」(同論文)ような考究がなされてもいい時期ではないか。

 さて、奥平版『なぜ「表現の自由」か』は今年5月に新装版が公刊された。まことに本書と奥平作品はシンクロしている。ところで、その後、奥平は表現の自由の「歴史」に関心を移した。本書の著者たちのうちにも、そのような方向に出そうな論者がいないではない。評者としては、その前にまず、上にあげた諸点の考察に進んでもらい、根拠論・原理論の足元のゆらぎ、すなわち表現の自由の可能性自体のゆらぎに迫る続編を期待したい。ぜいたくな注文か。

 (慶應義塾大学法学部教授)