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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

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 ◆ 3327号(11月11日発売号掲載)

アナキズムとマーシャルプランの同盟の実験への想像力

環境保護プロジェクトが進めば進むほど、再生可能エネルギーへの転換が困難に
評者:渋谷望

 ■気候変動否定派のバックラッシュ

 日本が震災と原発事故によって揺れていた時期、反原発のうねりと再稼働の圧力のせめぎ合いのなかにあって、化石燃料消費による気候変動の問題は、争点となりにくかった。しかし、本書の提供する視座は、反原発運動と反化石燃料エネルギー運動の双方を貫く射程をもつ。

 気候変動は2000年代半ばまで超党派で問題とされていた(アル・ゴアを思い出そう)。だが、その後、それが新自由主義の枠組を問題にするものであることが明確になるにつれ、気候変動否定派イデオロギーが強くなり、この不都合な真実は「受け入れられない真実」へと変わっていった。

 現在、在来型原油は先細りであり、化石燃料企業は、こぞって非在来型の化石燃料の掘削に飛びついている。たとえば、オイルサンド鉱床の採掘、今まで以上の深海や北方海域での掘削、天然ガスのフラッキングによる抽出など。

 だが、これら非在来型エネルギーの利用は、温室効果による気候変動以外にも、大きな環境汚染リスクを抱えている。2010年にはBPのメキシコ湾石油掘削施設で壊滅的な流出事故が起きたが、汚染を除去することがまったくできなかった。オイルサンドの掘削と精製は、温室効果ガス排出量が大幅に大きい。フラッキングによるシェールガスの抽出は、メタン漏出を伴い、温暖化を加速し、地下水を汚染する。

 これらは在来型燃料に比べてはるかに高額で複雑なプロセスを伴う。たとえば、インペリアル・オイル(エクソンモービルが株式の70%を保有)は、カナダのアルバータ州のオイルサンドの露天掘りプロジェクトに約130億ドルを投入し、総面積はマンハッタンの3倍を超える。また長距離のパイプラインの建設もワンセットであるが、漏出のリスクが高くコストもかかる。

 こうした投資では、初期費用を回収するためには、その企業が数十年にわたって採掘を続けられなければならない。これらのすべてのプロジェクトが長期の時間設定のもとで計画されているが、それは化石燃料業界が今後、25~40年間は、各国政府が本腰を入れて排出量削減に取り組むことはないと確信しているからにほかならない。

 しかし気候変動の専門家のコンセンサスによれば、気温上昇を2℃未満に抑えることが必要であり、そのためには、先進諸国は2010年代のうちにエネルギーシフトに着手し、2050年までにほぼ完全に化石燃料から脱する必要がある。だが、もし、世界各国が炭素資源を地中にとどめておくことに本格的に取り組むようになれば、これらの巨大プロジェクトは「座礁資産」となり、それを保有する企業の株価は、当然下落する。現在、化石燃料企業は、生きるか死ぬかの瀬戸際にあり、気候変動対策を必死で阻止しようとする最大の理由がそこある。

 リベラル派の抱き込み

 化石燃料産業による気候変動運動への攻勢として、クラインは二つの戦線を示す。一つは保守・右翼からの攻勢。たとえば、クラインが焦点を当てるのがハートランド研究所であるが、こうした研究所はもっともらしいタイトルの会議を開催し、反気候変動派の「有名人」を招き、気候変動対策は、資本主義を終わらせ、アメリカ的な生活様式を変容させるものだとし、気候変動関連法案を廃案に追い込むことを目論む。これらのシンクタンクや団体は、保守系財団や化石燃料企業から資金を得ている。

 しかし、それ以上に興味深いのは、もう一つの戦線であるリベラル派である。クライン自身も驚いたというが、「ビッグ・グリーン」と呼ばれる大規模環境保護団体のいくつかは、「パートナーシップ」の名の下に、化石燃料企業に抱き込まれている。たとえば、これらの大規模環境保護団体はクリントン時代にNAFTAの支持にまわるようになった――周知のように多国間自由貿易協定は、環境に配慮した国内規制を、この規制によって投資が妨げられた企業が提訴し、補償を要求し、それを撤廃することができ、後述の下からの運動の足かせとなっている。

 大規模環境団体の変節の典型例が、1951年に設立されたアメリカ最大の自然保護団体TNC(ザ・ネイチャー・コンサバンシー)である。TNCは、自然保護のため土地を購入し保護区にする活動で知られているが、テキサスの保護区で、絶滅危惧種の野生動物の棲息を困難にする天然ガス掘削を行った。この土地はモービル石油が所有していたが、絶滅危惧種動物の繁殖地でもあり、掘削が憚られていた。晴れて自然保護区となったこの土地でTNCはこともあろうに天然ガス採掘を開始したのである。これによって、TNCの懐に多額の資金が入ることになる。さらに、TNCは非在来型の採掘方法(フラッキング)による天然ガス抽出が「クリーン」であると主張することも怠らない。たしかに在来型の天然ガスはクリーンと言えるかもしれず、当初、再生可能エネルギーへの「つなぎ」と期待されていたが、フラッキングによって岩盤を破壊し深部から採掘される天然ガスは、「クリーン」であるどころか、メタン漏出を伴い、温暖化を加速し、地下水を汚染する。TNCはフラッキング業者への大口融資者であるJPモルガンから寄付を受けている。

 鳴り物入りで導入されたカーボン・オフセット・プロジェクト(温室効果ガスの削減活動への投資により、排出される温室効果ガスを相殺するプロジェクト)は、先進国の排出を相殺するために、途上国の先住民が犠牲になるという構図を生んでいる。先住民が先祖代々守ってきた土地が「炭素吸収源」と見なされるや、先住民はそこから閉め出され、なかには「不法侵入」した先住民が銃撃された報告もある。とはいえ、この方式の最大の問題は、クリーンな環境保護プロジェクトが、増加するというよりも文字通り相殺(オフセット)される点である。環境保護プロジェクト――あやしげなものも含めて――が進めば進むほど、化石燃料プロジェクトも着実に進み、再生可能エネルギーへの転換が困難になっていく。

 ビッグ・グリーンのエリートがビジネス・エリートと「パートナー」となるというリベラルなアプローチは根本的な問題を孕む。クラインによればそれは「上からの」アプローチであり、「出来のいい人たちが上から与えてくれる」という考え方が含まれる。そして、そのエリートによる大規模環境団体の気候変動「対策」はあまりにも中途半端であった。それはあたかも「肺ガンで死んでいく人たちの生々しい画像」を見せながら「一ヶ月に吸うタバコの数を一本減らしましょう」という禁煙キャンペーンのように馬鹿げたものだという。大規模環境団体がCO2排出規制に本気で取り組む姿勢を見せず、企業が今まで通りCO2排出を続けられるような経済メカニズムを構築しようとした。気候変動を真に憂いているはずの専門家がこのような中途半端な態度であるなら、人々は、気候変動とはその程度の問題であり、深刻な問題ではないのだというメッセージを受け取ってしまう。

 「抵抗地帯」――闘争の新しい戦域

 90年代から2000年代にかけてのこのような気候変動をめぐるせめぎ合いは、保守派の巻き返しとリベラルの抱き込みが功を奏し、化石燃料ビジネスが勝利を収めたかのようにも見える。しかし、クラインが本書の取材を始めてしばらくした2010年頃から、情勢は急激に変わってきた。「誰も助けてくれない」ことをはっきりと知った人々による、いわば「下からの」変化の出現である。「抵抗地帯(ブロケディア)」と呼ばれる世界の化石燃料開発の最前線では、住民たちは環境汚染に直面し、自前で抵抗運動を組織し始めた。なかでもクラインが焦点を当てるのは、カナダのアルバータ州のオイルサンド鉱床からアメリカのメキシコ湾までが計画されているキーストン・パイプライン阻止のための抵抗運動である。重要なのは、先住民のコミュニティの抵抗運動と、牧場経営者の同盟――「カウボーイとインディアンの同盟」――が生まれたことに象徴されるように、従来の運動の枠を超えて広がっている点である。

 そこにはいくつかの必然性はある。たとえば、「犠牲区域」の広範囲化。従来、汚染は限定的であり、一般に政治的に力を持たない貧しいものたちが住む地域が汚染を引き受けてきた。しかし化石燃料産業は、フラッキングなど非在来の採掘や長距離のパイプラインに頼らざるをえなくなったため、この限定は解除され、これまで特権を享受してきた者にも災難が訪れることになった。加えてこれらが全て燃やされると、気候変動の悪影響は地球上の誰にも訪れる。こうしていたるところで、パイプライン建築阻止、精製所建設阻止の直接行動が同時多発的に生じ、パイプラインの操業――つまりシェールオイル・シェールガスの燃焼――を困難にしている。クラインはここに、ソルニットが『災害ユートピア』で示した変革の可能性を見る。

 この点で、カナダの運動は興味深い。カナダではかつて先住民と入植者政府とが結んだ条約があった。これらの条約は死文化していたが、これらの運動に後押しされて息を吹き返したのである。これらの条約には、「インディアンは、譲り渡した地域全域で、彼らの職業である狩りや漁を行う権利を有する」などの条文があった。これは、入植者と先住民双方がその土地を利用するという平和共存を意味し、それゆえ一方の当事者が、共有地を取り返しがつかないほど改変し、汚染した場合、この平和的共存が不可能になることを意味する。90年代後半からこの条約が最高裁の決定などによって「先住民としての権利」として実質化し始めた。当初、非先住民の住民(たとえば漁民)は、条約によって守られた先住民の慣習的な漁業は「法を免れている」として非難し対立していた。しかし、この条約がシェールガス採掘を無効にする力を持つことが認知されるにしたがい、非先住民が先住民主導の運動に参加し、それとともに、先住民の伝統的な世界観に触れ、それを理解し始めたのである(2014年にニール・ヤングは「条約を守れ」ツアーを行い、この運動に一役買っている)。これらの運動は、相互扶助や直接民主主義という在地社会に根づく原理を尊重するという点で、生きられたアナキズムの世界観に近いと言えよう。

 採取/搾取主義からの転換

 さらに、これらの運動は、「採取/搾取主義」と呼ばれるものからの世界観の転換を促す。本書でもっともスリリングなのは、エコフェミニズムとの接点とも言えるこうした主張であろう。クラインによれば、「採取/搾取主義(エクストラクティビズム)」とは、「人間には、何の報いも受け取ることなく際限なく採取/搾取する権利」があり、「複雑な自然システムを自分たちの意のままに従わせる能力」があるという考え方や経済モデルのことである。これは、近代資本主義(と中道左派ケインズ主義とかつての社会主義)の条件である「物質主義」を構成する。クラインが指摘するように、この考え方は、17世紀にフランシス・ベーコンによって導入されイギリス産業革命のイデオロギーとなった。クラインは明示的に示唆してはいないが、この指摘はエコフェミニスト、キャロリン・マーチャントのものである(たとえば、マーチャント『自然の死』参照、またこのプロセスが、共同体内の女性の力の抑圧、すなわち魔女狩りとして現われたことは、フェデリーチやマリア・ミースの議論を参照)。

 とはいえ、クラインの議論は、産業革命前に戻れというような極端な主張――しばしば気候変動運動に対する誤解に基づく――ではなく、エネルギー消費に関して「1980年代に消費が狂乱のレベルに達する以前の1970年代のライフスタイルに近い形の生活に戻る」ということにすぎない。この主張は、松下竜一の「いまある電力で十分」とする主張を想起させる(『暗闇の思想を』)。松下は、70年代に豊前の火力発電所建設反対闘争において、電力需要急増の主因は、鉄鋼、非鉄金属、セメントなどの大手産業であるにもかかわらず、大手産業のニーズと人々のニーズを一体のものと錯覚することから、私たちは「電気がとめどなく必要なのだ」という現代の神話に巻き込まれてしまうのだと指摘する。

 では、その時から40年以上たった現時点でこの神話に巻き込まれないためにはどうすればいいか。クラインは、運動の想像力のなかから様々なヒントを引き出す。たとえば、化石燃料企業に投資しないよう投資家に圧力をかけるダイベストメント(投資撤退)運動が広がりつつあり、大学や自治体など、投資の倫理性を気にする投資家は、株式を売却しつつあるという。さらにこれに加え、分散型の再生可能エネルギーのインフラのために、「抵抗地帯」の貧しい先住民にまっさきに投資する再投資戦略が必要だと言う。このインフラを住民たちが管理可能なものとすることで、雇用、技術訓練、安定した収入、そして、きれいな水の提供が可能となり、オルタナティブな地域経済の核をつくることができる。これは原発反対運動から、再生可能エネルギーのコミュニティによる生産管理を可能にする政策を政府に求めたデンマークやドイツの経験から言えるという。このような投資撤退=再投資戦略は、カーボン・オフセット・プログラムのように再生可能エネルギーを黒煙で相殺することはない。

 かつて公民権運動は、隔離政策など制度的な差別の是正には成功したが、それはたいしてコストや税金がかからないものであった。真にコストがかかる質の高い教育、雇用の創出の要求は頓挫した。第二派フェミニズムのなかでもとくにラディカルであった「家事労働に賃金を」要求する運動――主婦による子供のケアや高齢者のケアが市場経済を補助する以上、それに見合った賃金を要求する運動――、それが文字通りのものとして実現すれば、ニューディールを凌駕する富の再配分になるが、これも頓挫した。クラインは20世紀の社会運動はこのように、経済的領域における再配分を求める運動としては、いわば宿題を残していたのだという。気候正義運動は、化石燃料産業の資産を「座礁」させ、その株主が莫大な利益を上げるシステムを終わらせ、「抵抗地帯」のクリーンな経済に投資するという、まっとうであるが、新自由主義にとっては埒外の要求をする。彼女はこれを「やり残された解放の仕事」とし、「地球のためのマーシャルプラン」と呼ぶ。本書がわれわれに試そうとするのは、いわばアナキズムとマーシャルプランの、今までありえなかった同盟の実験への想像力ではないか。

 (社会学)

ジャンルをまたいで新たなる芸術運動へ

負けても負けてもへたばらないのが運動の極意
評者:小沢信男

 本書の第Ⅰ節第1章は、いきなり「わたしは活字人間である。」と書きだす。生来引っこみ思案な少年が、映画館の暗がりで人生の多々を予感して育ち、やがてその映画の批評文を書き綴る大人になった。その活字人間が、ちかごろカメラを持ちだした。私的公的なその動機に時勢の波頭があって、こう書き結ぶ。「ビデオカメラがわたしのペンになった」。

 ははぁ。かなり大胆な本だぞ。そんな飛躍を、やっぱりペンで書いたんだ。

 次章「学生が立ち上がった」が実践篇で、2015年6~9月の国会周辺へ。シールズの登場、活動ぶりを写真入りで、また老弱の参加者たちにも目をくばる。この25ページは、あの湧きたつ日々の、まさに臨場的な記録です。

 カメラ携えた著者の、金曜日ごとの国会周辺通いは続く。次の章は、その現場でたびたび出会う小熊英二教授が監督の『首相官邸の前で』を論じる。べつだん撮影の様子もなかったのに、じつはさまざまな自主映画から無償提供を受け、自身のインタビューも併せて編集した作品なのだった。「映画もお金をかけずにつくられる時代になった」。そうか、思いがけぬ可能性が展けているのだな。

 「シールズはどこへいく」という章の、むしろ半世紀前の回想が、興味深い。新宿駅地下道で反戦の歌声集会が盛りあがったころ、若かりし著者は「新日本文学」誌上に、こんなものはすぐポシャる、と書いて「大方の好評」を得た。党派的立場からは泡沫のごとくにも見えただろう。すると、不意に花田清輝からたしなめられる。あんなふうに書くもんじゃない。そのときは面食らったが、やがて気づく。ポシャろうが、声をあげて立ちむかおう。負けても負けてもへたばらないのが運動の極意だぞ。その種が根ざし、育ち、本書の極意ともなって、ここに花田清輝が生きております。

 第Ⅱ節の冒頭は、『湯を沸かすほどの熱い愛』について。チャーミングな題名だな。「わたしは涙ボロボロになった」。映画批評にこう書くやつはめったにいないね。事態の記述は、むしろドライだ。意外また意外な展開を、てきぱき作業衣で処理するように綴ってゆく。

 次の「がんと生きる話」に、この文体が効力発揮。わが身のガン体験を、ベルトコンベアで運ばれる素材のごとくに述べてゆく。そして沖縄基地反対闘争の映画『標的の島――風かたか』へ。米軍基地がガンのごとくはびこるのへ、ガン患者のリーダーを支えて不退転の闘いだ。これぞ非暴力抵抗です。

 次の「〈いのち〉を奪い返す」は、『地球へのラブレター』と、『大地を受け継ぐ』と。タイトルが大袈裟なのは、地球上の人類どもが破滅的だからだろう。それでも芽ぐむ希望たち。そういう映画が、つぎつぎにつくられているのだな。「ジャーナリストの生き方」の章は、長谷川三郎監督『広河隆一 人間の戦場』について。報道写真家広河の多年の足跡を追うドキュメンタリーで、カメラで現実に立ちむかう二人の猛者の、共同制作のごときものか。とりわけ、若き広河が期待をこめて飛びこんだイスラエルのキブツの、荒廃の現状を行くあたりに、胸打たれる。あのキブツが、パレスチナの村を奪ったまでの現実だった。ナチスと同じではないかと、著者は怒る。私は、戦前の日本の満蒙開拓の夢と現実も思いあわせた。そんな来し方の直視からこそ、前途はあるのだろう。

 それにしても。つぎつぎに語られる映画たちの、どれも私は観ていない。ちかごろの上映法は観るのも一苦労ながら。こうして次々に創られているさまは、観ていなくても壮観だぞ。

 作品の勘所が掴める紹介ぶりは、多年の修練であろうが、映画好きの少年期からの生得かもしれない。『さぶ』や『モダン・タイムス』や『キャラメル工場から』、往年の名作たちとの随意な照応も楽しい。大人の知恵と少年の感受が合体した、けっこう素直な文体なのだ。

 第Ⅲ節。いよいよここらが、木下昌明『映画世がたり』の趣きです。さきごろ天皇がめずらしくもテレビ出演の「お言葉」をめぐって。これもさきごろ首相官邸の屋根に落ちたドローンから、未公開映画『ドローン――無人爆撃機』について。各地に継起する民族闘争を、日常的次元で捉える映画の数々について。南京事件を描く独・仏・中合作の『ジョン・ラーベ~南京のシンドラー~』について。等々々。

 私は赤鉛筆で傍線ひきつつ読み、とりわけ『みんなの学校』のくだりに打たれた。大空小学校という大阪の公立学校へ1年間かけて撮ったドキュメントで、画一教育のこんにちに、こんなケタはずれの学校もあるのだな。札つきの問題児が融けこんでゆくエピソードなど、著者自身の少年時の憶いもあわせて、短篇小説の味わいがある。それはペンの力だが。カメラという道具は、扱う人たち次第では、おそるべき表現力を切り拓く。映画産業の衰退は、映像が民衆自身の表現力となってゆく道筋なのでありますなぁ。

 第Ⅳ節は、やや趣きが変わる。「芸術運動――先駆者たちの仕事」と題して、引っこみ思案な少年がどうして活字人間になったかの由来記であり、「とくに影響を受けた三人」について語る。武井昭夫。大西巨人。石黒英男。

 1945年夏の敗戦の焦土から、民主主義文学運動が巻きおこる。新日本文学会あたりを一中心に。そして1960年代の多様な展開の時期がくる。ベ平連。60年安保闘争。そのさなかに、ビン工場の検査工の若者が日本文学学校に入学する。木下昌明。若き日の著者です。そして三人の逸材と出会った。出会いはひとつの運命で、その若者も、みるみる運動の担い手の一人となったのでした。

 あれから幾星霜。戦後文学運動は幾多の稔りのうちに役割を果たしたか。新日本文学会も先年解散した。ペン一筋の文学運動なんて、古臭いよなぁ、もはや。漫画を描くペンもあれば、カメラを回し、楽器を鳴らし、ジャンルをまたいで新たなる芸術運動へ。その広大な沃野へむけて、草叢がざわざわ動いている。その現場からイキのいい実践的報告のひとつが、ここに! 本書からうけた感銘です。

 (作家)

自分自身の中に「認知の歪み」がないだろうか

〝平凡な〟背景を持った男たちが痴漢に向かう目的とは
評者:泉 ゆたか

 〝痴漢は、依存症です。〟

 最初に帯に大きく書かれたコピーを目にしたとき、正直なところ身構えた。

 著者は性犯罪者の再犯防止プログラムに取り組む、精神保健福祉士だ。

 〝患者〟に〝治療〟を行う立場である著者の主張は、痴漢加害者の心情に寄り添ったものなのではと邪推した。本人の意思に反して罪を犯さざるを得ない〝患者〟の苦悩を伝え、より多くの人に理解を求めるものであったらどうしよう。

 評者は女性である。痴漢事件においては、加害者よりも被害者になる可能性が圧倒的に高い。たとえ綿密な考証を経て論理的に述べられた事実だとしても、何の罪もない女性を傷つけた加害者の苦悩など、ふざけるなと感情的に切り捨てたくなる。

 しかし本書『男が痴漢になる理由』を読み進めていくうちに、最初の想像は大きな杞憂であったとわかった。

 本書では、これまでに多くの人の固定観念の中にあった「異常なほど強い性欲を持つ、女性に相手にされない男」という痴漢のイメージを、データを示して覆していく。痴漢のリアルな生態が「四大卒で会社勤めをする、働き盛りの既婚者男性」と聞いて、我が身のことかとぎくりとする人は相当数いるに違いない。

 そんな〝平凡な〟背景を持った男たちが痴漢という性犯罪に向かう目的は、肥大した性欲の解消ではない。

 彼らは日常生活で溜まったストレスの捌け口として、自分よりも弱い存在である女性に対して理由のない暴力を振るっているのだ。痴漢たちは過度のストレスによって〝スイッチ〟が入り、痴漢行為をすることでそれを発散せずにはいられない強迫観念に駆られる。

 学校生活のストレスに晒され続けた子供たちが、異常な執念を持って大人の目をかいくぐり、集団で弱い者イジメをしている構造と同じだ。

 この観点を知ることができた時点で、本書がこの国の痴漢に対する意識を大きく変える一冊だと確信を持った。

 著者は、痴漢行為を過度に〝病気〟扱いして、痴漢が自ら犯した罪の責任逃れをすることにはっきりと警鐘を鳴らしている。その上で何とかして、痴漢が抱えた〝認知の歪み〟を元に戻す方法を模索する。

 身に降りかかったストレスを解消することだけに囚われている痴漢には、被害者の心情への想像が完全に欠落している。痴漢にとっては、被害者は自分のストレスを解消するためだけに存在するファンタジーだ。妻も子供も持つ身でありながら、アダルトビデオの〝痴漢行為をされて喜んでいる女性〟の存在を本気で信じていたりする。

 痴漢がストレスから逃げようという生存本能に従って行う攻撃は、ぞっとするほど強固な思い込みと自己弁護の上に成り立っている。

 著者は、痴漢のそんな人間性に時に大きな怒りを覚えながらも、被害者を一人でも減らすための再犯防止教育に尽力している。

 自分自身の中にも、切実な思いで妄信する〝認知の歪み〟がないだろうか。思わずそんなことを考えさせられた。

 最後になるが、最終章の痴漢冤罪事件に対する著者の考察は、今までに見た痴漢冤罪に関するどんな論よりも冷静かつ真摯な姿勢を感じた。「自分よりも下に見ていた存在に騙される」恐怖は、年齢性別に関係なく、自己嫌悪を呼び起こす感覚として実感することができるだろう。

 誰かよりも優位に立ちたいと思ってしまったことのあるすべての人の心に、重い課題を残す一冊となるに違いない。

 (小説家)