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 ◆ 3339号(2月10日発売号掲載)

脱ロマン化の革命像

二〇世紀初頭の非ヨーロッパ世界の運命を象徴的に担ったロシア
池田嘉郎 インタビュー

 ■今年は第一次世界大戦の終結から一世紀を迎える。ボリシェヴィキは第一次大戦のさなかにロシアで権力を掌握し、二〇世紀を画する一党独裁体制を築いた。一方、それ以前に自由主義者や社会主義者の臨時政府は、革命のはざまでボリシェヴィキとは別の政治体制をつくろうと苦闘した。彼らの軌跡はボリシェヴィキ史観によって否定され、私たちは長らくその史観の影響のもとに、十月革命を頂点とする歴史像をえがいてきたのである。

 ロシア史家の池田嘉郎氏は昨年刊行の『ロシア革命――破局の8か月』(岩波新書)で、臨時政府を軸に、革命を崩壊と破局の過程としてえがいた。こうした歴史像をめぐって、池田氏に話をうかがった。(11月27日、東京都文京区にて。聞き手・米田綱路〔本紙編集〕)

 ■崩壊と破局のロシア革命

 ――ロシア史家の和田春樹氏との対談「革命はいかに語りえるか」(「現代思想」二〇一七年一〇月号、特集「ロシア革命100年」所収)でも述べられていますが、非常にロマンチックなものとして捉えられてきた一九一七年のロシア革命を、脱ロマン化することを念頭に『ロシア革命』を書かれたそうですね。

 池田 これまでの十月革命像は、主に当事者であるボリシェヴィキが出してきた像でした。ですから『ロシア革命』を書く上で、まずそれを解体しなければいけない、さらにいえばロシア革命史から距離を置いてノーマライゼーションしなければいけない、という気持ちが強くありました。

 その点で私はフランス革命史を意識しました。『ロシア革命とソ連の世紀1――世界戦争から革命へ』(岩波書店、二〇一七年)の「総説 ロシア革命とは何だったのか」でも書きましたが、フランソワ・フュレがフランス革命二〇〇周年の少し前に、フランス革命を相対化しなければいけないと言い始めた。もう近代そのものが見直されているのだから、フランス革命で民衆が立ち上がった、というような史観を捨てるべきだと。

 そもそも人民闘争的なフランス革命史自体がボリシェヴィキの影響を強く受けていましたから、フランス革命の脱構築、脱ロマン化があった以上、ロシア革命も一度ロマンチックなオーラを剥がして、他の歴史的な事象と同じ一個の対象にしておかないとまずいと私は考えました。

 実は欧米や日本、ロシアでも研究者の間では、ロシア革命がボリシェヴィキのつくり上げたあんなロマンチックなものではないし、民衆をそんなに理想化できるものではないという考えが共有されていました。もちろん、民衆がアナーキーで暴力的だったというだけでは、冷戦時代のアメリカの反共史観とあまり変わらない。けれども、そもそもロシア帝国自体が二〇世紀初めにもう統治の限界に来ていて、社会秩序が崩壊したという議論は、一九八〇年代から研究者の間では出ていたのです。

 ただ日本の場合、手軽に読めるロシア革命の本には、そうした議論がまったく反映されていなかった。半世紀前に出された菊池昌典『ロシア革命』(中公新書、一九六七年)以降、ロシア革命を一冊で読める新書はなかったですから、研究史の進展との大きなずれができてしまっていた。ですから、とりあえずこれを埋めなければいけないと思いました。

 それでは、これまでの革命像を解体して、何を出していくか。今回の『ロシア革命』では、一九一七年に起きていたことはもう破局に他ならないということを、前面に出したのです。

 ――ソ連崩壊から四半世紀以上を経て、ロシア革命を歴史的に対象化し、従来の革命像を相対化して新たな像を提示することができたといえるでしょうか。

 池田 まだ一九九〇年代には、社会主義は間違っていたのかどうかといった議論がなされていました。ですからロシア革命をえがくにも、社会主義とは何だったのかという議論に取り込まれてしまいがちだった。ですがそれじたい、ソ連共産党が自分たちを位置づけるために出した物語に我々が乗っかって議論していたところがあった。とりわけよくなされた、思想から運動へ、そして体制へと発展するという捉え方も、結局はソ連に至る発展史観のようなところがあるのですが、研究者はついそれを使ってしまった。

 いまや日本の人びとはソ連を完全に忘れているし、社会主義を現実の可能性として考える人もごく一部に限られています。それでもロシア革命が大事件であるということは、誰も否定できない。ましてやソ連のような非常に強大な謎めいた国家を生んだのですから。

 社会主義とは何だったかという議論とは別の、ノーマライゼーションの立場から、ロシア革命とは、ソ連とは何だったのかという問いを立てて、ボリシェヴィキがつくったものとは違う歴史像を出すことができた。その点では、ソ連崩壊から四半世紀たって本を出したタイミングはよかったのかもしれません。

 ――ボリシェヴィキにとっては世界革命への発火点であったはずのロシア革命が、内戦を乗り切り、やがて一国社会主義へと至る過程は、ノーマライゼーションの観点から見ると、ボリシェヴィキがロシア・ナショナリズムと手を結ぶに至る過程と捉えることができるのでしょうか。

 池田 その点は丁寧に説明する必要があります。ソ連は社会主義とはいっているけれども、昔からのロシアが残っているだけだという議論は、冷戦時代のアメリカの反共的歴史家がよくいっていたことです。要するに皇帝がいなくなってスターリンに代わっただけだ、という議論ですが、ロシア本質論に持っていくとまずいと思います。ロシアとは所詮こういう世界だ、という話ではなく、なぜロシアで社会主義があれだけ展開したのか。なぜロシアで出てきた社会主義や思想が、ロシア産であるにもかかわらず、あたかも人類史の普遍的な目標のように提示され得たのか。なぜあの体制が普遍的なインパクトを持ち得たのか、というふうに問題を設定する必要があります。

 私の考えでは、ロシアはやはりヨーロッパ文明の周縁ですから、普遍性に対する意識がすごく強い。自分は普遍性の端っこにいて、そこに入りきれないけれども、その一部であるという意識がある。ですから、ヨーロッパ人はフランス革命で政治的民主主義や自由民主主義まで行った、だから我々はその先の社会民主主義や社会主義まで行く、というふうに、ヨーロッパよりも普遍的なものを打ち出そうとする考えが強まるのです。それは個別のナショナルなものというよりは、普遍的な文明の歴史の中の、さらに先を行っているという論理として出てくるのです。

 その一方で、実際に社会主義が実現してしまったのは、ロシアがヨーロッパではないからです。一九世紀以降のヨーロッパには、中産階級が厚い層をなして存在し、議会と政党による利害調整もできたから、根底的な変革にはならなかった。そうした条件が整っていないロシアだったから、理念的にヨーロッパの先を行くと唱えるだけではなく、なおかつそれを現実化できてしまったのだろうと私は考えます。強大な専制権力が倒れたときに、政治を安定させる仕組みがなく、むしろ社会対立が昂進する一方になってしまった。それにまた、ボリシェヴィキという、極端な理想主義を唱える一握りの勢力が、権力につこうと思えばつける状態が生じてしまったのです。

 ヨーロッパ中心の世界の一体化、グローバル化が、一九世紀後半から二〇世紀初頭において、帝国主義的な度合いを強めながら進展したときに、非ヨーロッパ社会の日本はいろいろ苦心しながら対応したし、近代化はうまくいったけれども、拡張主義という裏面を伴った。ヨーロッパ文明に対抗して何らかの対応をしなければならないという点では、ロシアも非ヨーロッパのすべての地域と同じような課題に直面したわけですが、ロシアの場合、それを最も普遍主義的な装いのもとにやりきった。

 問題はどういう枠組みを使えばいちばん動員力が発揮できたか、ということですね。最初からロシア・ナショナリズムを内面化していた旧ロシア軍の将校たちなら、単純に「ロシアを救え」でよかったと思います。事実、ロシアの分裂を防げるのはボリシェヴィキ政権しかないと考えた多くの将校が、新政権に協力しました。他方、広範な住民、民衆層についていうと、ロシア・ナショナリズムは二〇世紀初頭には彼らのあいだにまだ広まっていませんでした。人々は身分制に分かたれていましたし、国の主人公は国民ではなく皇帝だとされていたからです。そうなると、一般の労働者や農民にはむしろ階級的な言葉や、世界革命のような超越的な世界観のほうが、かえって動員力を発揮できる。あるいは、少なくともそれを唱えている当の共産党員たちが、もっとも納得して普遍主義を唱えられたのでしょう。

 ――ロシア革命とソ連においては虚構の体系性、訴求性が際立っていたと書かれています。一国社会主義のソ連と世界革命を志向するコミンテルン、ナショナリズムとインターナショナリズム、国家死滅のユートピアと国家主義の強権支配といった二面性も、虚構の訴求性と関わっているのでしょうか。

 池田 虚構の訴求性の強さということについていえば、ひとつには、ボリシェヴィキの世界観はマルクス主義的な世界観に乗っかっているから非常に体系立っている、ということをいいたかったのです。また、マルクス主義、そしてソ連は「世界史」の発展という長期的展望にのっとって語りますから、歴史家のものの見方とも共通したところがあるのです。というか、マルクスが打ち出して、ソ連が体系化した世界史像が、自覚されるかされぬかは別として、少なからぬ歴史家のものの見方に影響を与えていたことも否定できません。

 実際の歴史に即して考えると、ロシア革命は破局や崩壊であったということとは別に、もっと長いスパンで見るならば、後進国であったロシアが短期間に近代化を遂げて強大化していった、しかもそのなかで、身分制を廃止してある種の大衆社会的な性格を強めていったということは歴史的な事実でしょう(もっとも階級によって住民を区分するような、身分制に似た要素は残りましたが)。当然そういう要請が二〇世紀初頭の時点でロシアにはあった、それをしなければ、二〇世紀に生き残ることができなかったのです。

 ある後進国が、開発独裁によって近代化・工業化を遂げた。実態としてはそういってしまっても間違いではないのですが、当事者であるボリシェヴィキはその過程を、世界史の使命を先導して担っているというストーリーとしてえがきだした。しかも、みんながそれをある程度納得するぐらいには説得力があった。

 その説得力は、急進勢力が一九一七年に権力をとれた、それに、市場経済を一九三〇年代までに廃絶できた、ということに担保されていたのでしょう。こうした急進性・徹底性のゆえに、ロシア革命、また社会主義ソ連とは、広く普遍的と目されていたヨーロッパのさらにその先を進んでいる、それ自体普遍的な事象なのであると、自らをえがきだせたし、外部の多くの人もそう捉えた。ですが、実際には、先にいったように、そうした急進性・徹底性は、ロシアが非ヨーロッパ的であったからこそ生じたものでした。

 さらにいえば、二〇世紀の前半は、先進地域でもそうでない地域でも、世界史は進歩するものだという見方が、多かれ少なかれ受け入れられていたということも、ソ連の対外発信力を高めたといえます。近代や人権や民主主義、進歩など、ヨーロッパ産のタームをソ連はどんどん使って、自分たちの歩み――実は非ヨーロッパ的な歩み、あるいはまた、後進国の開発独裁というナショナルな歩み――をえがきだしました。ヨーロッパの周縁であるロシア=ソ連は、そのようにして、自らの歩みをヨーロッパ産の大文字の概念に接続し、自分たちはヨーロッパを引き継ぎ、越えていくと理解していたともいえます。

 世界史の使命を先導するといったソ連の自己描写は、人類共通の世界史の課題(とりわけ進歩)といった考え方が、多かれ少なかれ世界大で共有されていた時代の産物です。すでに一九七〇年代頃から、進歩や、近代や、ヨーロッパの普遍性といったことが疑問視されるようになりましたが、それと同時に、「ヨーロッパの先をいく普遍的な歩み」といった語り自体、力を失いました。今日のロシアは依然としてヨーロッパに対するコンプレックスをもってはいますが、もはや自分たちのことを普遍主義的な課題の実現者として喧伝することはありません。アメリカの覇権に対抗する場合でもそうです。これはロシアだけでなく、中国についてもいえます。欧米への挑戦者は、普遍主義の言葉ではなく、個別のナショナルな利害を前面に押し出し、自分たちの独自の道という言い方をします。もはや近代や進歩や人権という言葉自体の訴求力が、二一世紀になってかなり建前化してしまったのでしょうね。

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風刺言語で連想を刺激する戯画と諧謔のロシア革命史

描写の妙と毒舌のユーモア満載で実におもしろい一冊
評者:新庄孝幸

 本書はロシア革命以降のソ連内外のアネクドートと風刺画で跡づけた、ユニークな一書である。革命から一世紀を閲した今日読んでも、描写の妙とユーモア満載で実におもしろい。収録された豊富な図版は、プロパガンダは消えても風刺画とアネクドートは人間味をくすぐり続けて残ることを実感させてくれる。

 十月革命に関して外国で描かれた風刺画は驚くほど少ないという。どうせボリシェヴィキ政権はすぐに倒れると見られていたからである。それがブレスト・リトフスク条約あたりから一挙に増大する。ソヴィエト・ロシアが国際舞台に登場したからだ。しかもその前段で、レーニンとジノヴィエフやラデックら一行が、亡命先のチューリヒから封印列車でロシアとの交戦国ドイツを通過して革命のペトログラードへと帰還した事実は、ドイツのエージェント云々という恰好の風刺ネタを対戦国や政敵に提供することになった。「すべての権力をソヴィエトへ!」対「レーニンはドイツのスパイ!」の大合唱だと著者はいう。

 アネクドートをいくつか挙げてみよう。本屋で客が「レーニンの本はどこにあるかね」と訊ね、「幻想文学のコーナーは左手の奥にございます」と答える店員。あるいは「十月革命のために犠牲になった思想は何か?」、「共産主義」。なかでもおもしろいのはやはりスターリン・ジョークで、ひねりが利いているのはたとえばラデック絡みのものだ。

 「同志ラデック。君は私(スターリン)のジョークを広めているのかね?」

 「冗談を言ってはいけないのかい?」

 「内容が悪い! 私は社会主義の理想を体現する、ソ連の偉大なる指導者だ!」

 「……そんなジョークは広めてはいないよ。誰か他の奴が広めているんだろう」

 ラデックはレーニンやトロツキーに次いで風刺画によく登場する革命家だそうだ。戯画化しやすい風貌もさることながら、稀代の皮肉屋で寸鉄人を刺す風刺を好んだジャーナリストの面目躍如である。たとえば次も彼の作。「スターリンと議論するのは困難だ――私が彼の言葉を引用すると、彼は私を流刑にする(ロシア語で流刑と引用は同じ「ススィールカ」)」。ラデックの舌鋒はスターリン派に抗して共闘したトロツキーにも容赦ない。「彼(の姓)はレフだが、左派(レフ)ではなく、むしろ右派(プラーヴ)で、しかし正しく(プラーヴ)はない」など。

 ソ連の党機関紙「プラウダ(真実)」に真実がなかったのはあまりに有名だが、ラデックが編集部に引き入れたのが、のちにソ連ジャーナリスト・ナンバーワンと呼ばれるコリツォフだった。ラデックの衣鉢を継ぐ皮肉と風刺と諧謔好きの彼は、ソ連を代表する風刺雑誌「クロコジール」の編集長もこなした。そんなコリツォフの弟がソ連を代表するカリカチュリストのボリス・エフィーモフで、本書には彼の一九三七年のトロツキー風刺画が収められている。

 風刺の矢はイデオロギーや体制の壁を貫く。トロツキーが『文学と革命』で高く買ったドイツの風刺雑誌「ジンプリチシスム」とその常連ヴィルヘルム・シュルツが二八年、シベリア流刑のトロツキー派の姿を描いた本書所収の一枚にも、革命の流転を思わずにはいられない。「ごらんよ、兄弟。すべては嘘と欺瞞だったと今、我々は知ったのさ。父なるツァーリはまだ生きているのだ」とのキャプションは示唆的である。「革命まで何をしていましたか?」、「獄中にいて待っていました」、「では革命後は?」、「待って獄中にいます」というラデックの一作を髣髴させる。ちなみにトロツキー派だった彼は流刑で屈服し、スターリンの走狗としてアネクドートにますます磨きをかけ、ついには三七年の粛清裁判で全世界を相手に、ファルスの成果を披露するに至るのである。

 本書はそんな連想をも風刺言語で刺激する、ロシア革命再考のまたとない一冊だ。

 (ノンフィクションライター)

巻物=絵巻の力を伝承している書

人間と自然の科学では解明できない業を描いている
評者:宮田徹也

 今日、絵巻は当時の社会状況を伝える重要な史料として研究所や資料館に、または耽美な美術品として美術館や博物館に収められている。しかし巻物自体は本来、もっと不思議な力を持っていたはずだ。例えば江戸期の忍者が忍術伝書という巻物を咥えて印を結んで変身する、巻物を奪い合うというのを、空想として笑い話にしてはならない。巻物=絵巻に仏教の秘伝が記されているのだから、仏教が日本に伝来されてからずっと神秘的な力を携えているといえよう。

 この巻物=絵巻の力を伝承しているのが、本書であると私は考える。縦26.5×横16×幅2センチの縦型の本書を開くと「90度左に回してお読みください」という註が扉に書かれている。頁を捲ると「網野善彦さんとの思い出に」という西山克の言葉が中央に記されている。次の頁から目次、本文と続くのであるが、本の角度を変えるという行為自体が、現代の書誌から中世の絵巻に引き戻される魔法である。今は亡き網野との「思い出に」という一言が拍車をかける。

 西山の論考は、現代、中世すらも乗り越えて、人間と自然の科学では解明できない業を描いている。章は「妖」「怪」「化」に分かれる。北野天満宮の怪鳥、クサカゲロウの卵、虹を飲む夢といった寓意は、怪奇や漫画のモチーフのように思われてしまうが、西山は史実に基づき解説していく。「妖怪は元来は不思議なモノを指す言葉ではない。それはヨウケと発音し、不思議な現象を指し示す言葉であった。(中略・引用者)中世社会において不思議なモノを指すのは妖物や化物であり、これらはともにバケモノと発音したと考えられている」(14頁)。今日、怪奇な現象は、そうは起こらない。しかし例えばどうしようもない大飢饉と日食と暴風雨が重なったとき、私達は平静を保てるのであろうか。それを「幻覚」と片付けることができるのであろうか。

 「普通ではない現象は「怪異」とみなれていたからである。怪異はただの不思議なできごとではなかった。それは近未来におこる凶事の予兆と考えられていたのだ。喧嘩や刃傷沙汰があるかもしれない。いや戦争だっておこりかねない。疫病はどうか」(48頁)。未来への不安は、中世に生きる者よりも現代の我々こそ考えなければならないであろう。すると人間は常に恐れ、怯み、脅えて生きていることをいま、ここに理解することができる。

 それにしても西山の研究者という正面よりも、語りべとしての側面が充分に引き出されていて面白い。お堅い研究でも、面白おかしい物語でも、気取ったエッセイでもない魅力が光っている。

 それを支えるのが、北村さゆりの画である。見開き2頁の西山の文章の後に、やはり見開き2頁で北村の画が呼応する。北村の画は西山の文章に合わせているようでそうでもなく、かといって離れて独立しているわけでもない。文章と画の差異が、絵巻に迷い込んだ者達を更に魅了する。つまりこの絵巻は、文章と画という二つの異なる要素によって成立しているのである。挿画でも画の解説でもなく、詩画集とも少し違う。

 北村は挿絵画家としても人気が高いが、鋭利な日本画もまた描き、発表を繰り返している。日本画としては珍しく影が描かれ、エーゲ海に注ぐ陽射しのような色も特徴だ。具象ではあるのだが、まるで抽象絵画のような形が入り混じる。

 現代の日本画家は今日の動向を明確に押えると共に、古画の研究も綿密に行う。北村もそのような、優れた日本画家の一人である。そのため、今回のような特異なケースに対しても迅速に対応し、可愛らしいイラストに思えても、鎌倉時代の《北野天神縁起絵巻》や平安時代の《地獄草子》、更には諸々の仏画を基に、現代的に、北村独自の見解で描いていることがこの絵巻の魅力なのである。

 あらゆる不安を乗り越え、我々は生きていかなければならない。それは、故事の本来の知恵でもあるのだ。それを、現代に引き寄せて、考えていかなければならないのだ。

 (京都嵯峨美術大学客員教授)