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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

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作家である哀しみ

ボラーニョの小説の中心には常に詩がある
鼎談:久野量一×松本健二×野谷文昭

 ■ラテンアメリカ文学の新たな旗手として国際的に名声を高めつつあった矢先、五〇歳で死去したチリの作家、ロベルト・ボラーニョ。その没後一〇年にあたる二〇一三年に白水社から〈ボラーニョ・コレクション〉が刊行を開始し、一七年一〇月『チリ夜想曲』によって完結となった。全八巻からなる本コレクションの完結を記念して、これまでボラーニョ作品の翻訳に携わってきた野谷文昭氏、久野量一氏、松本健二氏のトークイベント「訳者たちが語る〈ボラーニョ・コレクション〉――その意義と読み解く愉しみ」が一二月一六日、下北沢の本屋B&Bにて行われた。本稿はその採録である。(村田優・本紙編集)

 ■小説の可能性を試している作家

 野谷 僕が最後に訳した『チリ夜想曲』で〈ボラーニョ・コレクション〉は完結となりました。まずはそれぞれどの作品を担当したか、自己紹介を兼ねてお話しください。

 松本 私は本コレクションでは、もともと白水社の〈エクス・リブリス〉シリーズから単独で出ていた短篇集『通話』の改訳をしました。ボラーニョは一九五三年に生まれて二〇〇三年に亡くなっていますが、小説を書き始めたのは八〇年代で、九〇年代に書かれたものと二〇世紀にかけてのものに分けると、この『通話』は初期作品に当たります。それから、晩年に書かれた短篇集『売女の人殺し』、さらに若書きの中篇小説『ムッシュー・パン』を訳しました。『ムッシュー・パン』は本人も一体なにを書きたかったのかよくわからない作品らしくてそんなものを訳していいのかと思いつつ(笑)、個人的に自分が昔からずっと読んでいた詩人が小説に出てくるので思い入れがありました。また、本コレクション以前に訳したものでは柳原孝敦さんとの共訳『野生の探偵たち』があります。

 久野 僕はコレクションのなかでは『鼻持ちならないガウチョ』の訳を担当しました。この短篇集はアルゼンチンの作家や作品に対する愛着に基づいて書かれたものが多く、表題作である「鼻持ちならないガウチョ」も、アルゼンチンのカウボーイという消えゆく文化への思いを描いた短篇です。一方でこの短篇集はボラーニョの最初の遺作と言いますか――ボラーニョは亡くなってからもたくさん本が出続けています――最初に出た没後出版でありながら、ボラーニョ自身が完成原稿として出版社に手渡した、未完のものではない最後の作品でもあります。また、コレクションとは別に、これも遺作と言えば遺作ですが、野谷さんと内田兆史さんと一緒に『2666』の訳も手がけました。

 野谷 短篇集のタイトルを「鼻持ちならない」と付けていますが、これは訳していて苦しみませんでしたか。すっきりこの言葉が出てきましたか。

 久野 いや、これは最後まで悩んだのですが、〈エクス・リブリス〉シリーズ版の『通話』のあとがきで松本さんがこの短篇集を『鼻持ちならぬガウチョ』と訳していた例があったので、それを超えるタイトルが思い浮かびませんでした。

 野谷 僕が本コレクションで最初に訳したのは『アメリカ大陸のナチ文学』です。これは以前、都甲幸治さんが『南北アメリカのナチ文学』というタイトルで紹介していました。日本でアメリカというとすぐにアメリカ合衆国のことを考えてしまいますが、ここではあえて「アメリカ大陸」と訳し、大文字としてのアメリカあるいは南北を含むアメリカスを表すようにしました。これも短篇集ですが、掌篇集と言ってもいいぐらい短い作品が多く、どれも架空の作家について描いています。これには前例があり、アルゼンチン出身のフアン・ロドルフォ・ウィルコックという作家が『偶像破壊者たちのシナゴーグ』という架空の作家たちの伝記みたいなものを書いていて、その形式を踏まえている節があります。それから最近、国書刊行会から全集が出たマルセル・シュウォッブ、ボルヘスやスタニスワフ・レムにも同様の架空の本や作家を描いた作品がありますね。本書の登場人物はナチの悪党というより、自分だけが作家だと思っている男や全然売れない作家といったマージナルな人々で、SF作家や詩人はもとよりサッカーのフーリガンの親玉さえも混じり、いわゆる純文学で大家になった作家は一人もいない。そうした周縁的な人やものに対する愛着はボラーニョ文学の一つの特徴と言っていい。そして、最終章に出てきた物語を膨らませて書かれたのが本コレクションで斎藤文子さんが訳した『はるかな星』です。

 それから先ほど言いました『チリ夜想曲』。タイトルだけ見たら非常に美しく、音楽の話なんじゃないかと思われるでしょうが、最初にボラーニョが考えていた題は『糞の嵐』でした――このタイトルだったらみなさん買いますか(笑)。もっともこれは鳩の糞かもしれませんが。ただ、内容はある意味で一番チリの現実を踏まえた作品になっていて、主要な登場人物たちはチリの批評家や詩人、作家で、主人公自身もまた詩人で書評家です。この作品は主人公の一人語りで物語が進んでいきますが、特異なのはやはりその文体ですね。最後の一行以外まったく改行がないので、読み始めたら最後まで読み進めなくてはなりません。だから、ストーリーや筋ということになるとなかなか説明しづらいですね。

 こうして本コレクションの小説だけ見ても、ボラーニョはいろいろな小説の可能性を試している作家だと言うことができますが、計画性はあまり感じられません。つまり、あらかじめこういうスタイルで書いていこうと思っていなかったような気がするのですが、そのあたりはどう考えますか。

 松本 そうですね。たとえば堅固な構造の小説を書いている、ボラーニョより前の世代のラテンアメリカの小説家たちは綿密な取材に基づいて事実を一つ一つ積み上げていくタイプの書き手が多い。これはジャーナリストあがりの人が多いこととも関係していて、それぞれ自国で直面した困難な現実をなんとか記憶にとどめたいという欲望がありました。

 久野 ただ、長さという面ではどうだったのでしょうか。これは中篇、これは短篇というふうにはじめから書き分けていたのでしょうか。たとえば、『ナチ文学』の最後の章が中篇小説『はるかな星』として発展していますよね。

 松本 短い作品では最初からそういうものをつくろうと思って書いていると思います。そこで消化しきれなかったアイディアが自身の残したフロッピーディスクに溜まっていって、あるときにそれが別のかたちで現れていったのではないか。

 野谷 『ナチ文学』は最初、もう一人友人だった作家と共同で書こうとしました――実際には断られましたが(笑)。共作での『ナチ文学』がどういうものになっていたかはわかりませんが、このエピソードから考えると、ボラーニョは創作でのオリジナリティというのをそれほど意識していなかったのかもしれません。

 久野 そもそもボラーニョは一人の小説家になってからの時間よりも、詩人や共作などで活動していた時代、つまり小説家として知られる前の年数のほうが長いです。詩の運動に従事していたころはオリジナルというものにこだわっていなかったのでしょうか。

 野谷 ボラーニョはメキシコでインフラリアリズムという独自の詩の運動(『野生の探偵たち』では「はらわたリアリズム」)をやっていましたが、その運動はどうも全体としての、集団としての活動であったような気がします。その経験から、小説に移っても作品の共作をやろうと考えたんだと思います。

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声をあげる

詩織さんが闘いを挑むのは、被害者が泣き寝入りをさせられている、日本社会の現状そのものだ
評者:望月衣塑子

 私が菅義偉官房長官の会見に出るようになったきっかけは、森友・加計疑惑への疑問や疑念が募ったこと、政権私物化への怒りとあわせて、何よりもジャーナリストである伊藤詩織さんの勇気ある司法記者クラブでの告発会見に衝撃を受け、背中を押されたからだった。

 性犯罪被害者が実名告発するだけでも、日本ではかなり珍しいが、同時に詩織さんの訴えた相手は、元TBSのワシントン支局長であり、安倍晋三首相に最も食い込む男性記者として有名だった。告発と同時に元記者と仲の良い安倍首相や政権側を敵に回すだろうことも覚悟の上で、詩織さんは会見の場に立ったのだと思うと、考えただけで足が震えた。「自分ならできるだろうか」。その後に押し寄せるだろう、数々の誹謗中傷と目に見えない圧力を前に、怖じ気づき、告発を断念したのではないか――それほど衝撃を受けた会見だった。

 しかし、何が彼女をあそこまでの勇気で駆り立てたのか。そのことを取材で何度か聞いてはいたが、詩織さんの著書『ブラックボックス』(文藝春秋)を読むまで、その根底に流れている思いを、はっきりと掴むことができていなかったことを知った。

 詩織さんは、昨年末より元記者に慰謝料を求める民事訴訟を始めたが、彼女自身が一番闘いたい相手はもはや元記者ではない。彼女が闘いを挑むのは、被害者が泣き寝入りをさせられている、日本社会の現状そのものだ。その思いの強さを本を読み、何よりも感じることができた。

 日本では性犯罪被害者が警察に被害届けを出す割合は4%。百人「被害者」がいても4人しか被害届けを出せない、出さないという状況だ。司法の壁は高く、彼女のように「酩酊状態で強姦された」ことを示すためには、事件中の第三者の証言や動画が必要となる。酩酊状態でどう動画を撮れというのだろうか。だからといって諦めるしかないのか。法律の在り方や社会の制度は、世論の声を政治や行政の場に反映してこそ変えていける。「なら、自分が声をあげよう」。彼女の決意が本に溢れていた。

 詩織さんが、昨年取材したスウェーデンでは、性犯罪被害を受けたと思った人々がまず駆け込める「被害者救援センター」なるものがある。センターにまず被害者が駆け込むと、レイプキットと呼ばれる検査薬を使い、体液や血液などを採取し、性犯罪被害を事件化する際に必要な物的証拠を残しておく。その後、被害者には、半年間かけてカウンセラーがつき、加害者の相手を警察に訴えるのか、訴えないかを含めてじっくり議論していくのだという。結果、全体の58%が被害届けを出すという状況が生まれている。昨年6月に国会では「性犯罪については被害女性の心情に配慮して捜査を行うべき」と日本は議決しているものの、何たる差だろうか。

 「いま自分が声を上げなければ、十歳ほど歳が離れた妹やその友達が、10年後に同じような被害を受け、同じように泣き寝入りを強いられるかもしれない」。詩織さんは、そういう思いに突き動かされて、会見の場に立ったのだ。

 本の発売後、再び詩織さんに会った。かつての張り詰めたような表情が、すっかり和らいでいた。「取材では切り取られることも多く、全てを伝えきれてないと感じていたが、本には自分のおもいの全てを込められた。だからすっきりした」。文藝春秋から執筆依頼を受けた時は、もう一度事件のことを振り返ることを含めて、戸惑いが強かったという。

 「途中、何度か事件を思い出し、書きながら行き詰まることもあったが、なんとか書き切った。書いたあとは、もう絶対に本は読み返せないと思っていたが、本ができると、案外すんなり普通に読み返せた自分に驚いた」

 自分の経験を吐露し、様々な視点から取材を試み、書き続けたことで、彼女の胸の奥のつっかえが一つ取れたのではと感じた。本には、日本の性犯罪における司法や支援制度の欠陥について、客観的な数値を根拠に的確に触れられている。「社会を少しづつ変えて行きたい」、本に溢れていた詩織さんの思いに応えられるよう、自分もまた、これからも記事や講演などを通じ、いまの社会や政治の問題を浮き彫りにし、人々に伝えていかねばならない、と改めて心に誓うことになった一冊だ。

 (東京新聞記者)

人間と万物全体の「相互依存的な全体」を認識し、その豊饒で無際限な関係性を構築する「宣言」

経済合理性の仮定によって自明視されがちな「自他の境界線」にメスを入れる
評者:若森みどり

 「貨幣経済(お金を使わずには生きていけない経済モデル)」にいれば、生きるために必要な財やサービスなどを可処分所得で購入して消費し、さらには将来の消費のために貯蓄したりお金を増やすために投資をしたりして生計を立てるのが普通であり、お金がなくては生きるための必要最低限すら満たすことはできない。

 本書のタイトルである「無銭経済」は、「人命だけを尊重する経済ではなく、ヒトから土壌微生物、野生動物まで、地球上のありとあらゆる生命を尊重する経済」として定義されている。著者によれば、「無銭経済」とは、モノやサービスの無償の分かち合い(すなわち、明確な交換条件を定めない分かち合い)によって、参与者の肉体的・情緒的・心理的・精神的なニーズを、集団としても個人としても満たすことのできる経済モデルである。分かち合うモノやサービスは、参与者が徒歩圏内で調達できるのが理想である(それは必須ではない)。このような経済の実現には該当地域の生きとし生けるもの(将来の世代を含む)のニーズを考慮に入れてあらゆる生命にひとしく気をくばること、そして各成員の繁栄と総体的な繁栄とが不可分の関係にある「相互依存的な全体」と認識すること、が肝要である。

 さて、19か国で刊行されて大きな反響を呼んだ前著『ぼくはお金を使わずに生きることにした』で、著者は、①幣経済に拠らない生活のノウハウ、②お金を使わずに生きる方法、③お金に頼らずに生きる条件、④お金に拠らず、何によってどう生きるか、の輪郭を提示した。本書では、①から④の各情報(働き方や必要不可欠な物品やサービス――土地、住居、食料、水、教育、健康、清潔・衛生、衣類、寝具、移動手段、通信機器、電気エネルギー、娯楽など――の入手方法)が更新され、金銭への依存を減らして地域コミュニティや周辺環境とのつながりを増やす方法(フリーエコノミーや贈与経済)の考察も深められている。

 さらに本書は、金銭が必要でない社会を創りあげるための「理念の進化(POP)」モデルの枠組みを紹介し、「移行」のスケジュールや課題についても論じる。著者によれば、POPモデルの構造は複雑さと分け方に応じて八つのレベル(段階)に区分しうるが、本書では六つのレベルで紹介されている。レベル1は「100%ローカルな贈与経済/贈与経済に基づく完全な共同自給」で、移動手段の例で表現すれば「大地とのつながりを感じながらはだしで歩く」。このレベルは「純粋な無銭経済」が実現されており、「贈与経済」と「100%ローカルな経済」の合流点でもある。

 レベル2は「全面的なローカル経済圏内での地域通貨/バーター取引に基づく共同自給」で、そこでは自作の靴または無償で贈与された靴(地元産の素材を使用)をはいて歩く。レベル3は「贈与経済+貨幣経済への最低限の依存」の段階で、「バーターで入手した靴(地元産の素材を使用)をはいて歩く」。レベル4は「LETS(地域交換取引制度)、タイムバンク(時間銀行)、地域通貨+貨幣経済への最低限の依存」の段階であり、「中国の工場で製造されたスニーカーをはいて歩く」。レベル5は「環境に配慮したグローバルな貨幣経済の段階」で、移動手段は大量生産の自転車である。レベル6は「100%グローバルな貨幣経済」で、ハイブリット車で移動する(本書106―110頁)。

 POPモデルのほか、著者のような「カネなし仲間」たちによる実践例も示唆に富むが、評者が感銘を受けたのは、貨幣経済だけでなくその外側の世界を捉えた著者が本書の随所で示している、自己認識や人生観、あるいは生命観である。それらについて語られる箇所は新たに発せられた言葉のようで新鮮で瑞々しく、創造的でさえある。いわば、著者はお金を使わない生き方の実践を通じて非貨幣経済の哲学者になったのだ(それは、前著には見られなかった、本書の革新さだ)。

 彼がメスを入れるのは、経済合理性の仮定によって自明視されがちな「自他の境界線」である。諸悪の根源ではなかったお金に破壊的な力を与えているのは、お金が介在することで隔たりが増していく私たちと消費する物との距離であり、そのために私たちが負うことになった「ほかの生き物から切り離された感覚」である。ボイルによれば、貨幣経済のなかにとどまるかぎり「皮膚に閉じ込められた狭い自己」の利益しか見えなくなっており、その結果、「万物全体(広い意味での自己)の利益」の破壊に大きく加担してきた。そのことが、私たちの生き延びることの可能性を壊しているという事実にうすうす気づきつつ、目を背けながら。しかし、「自他の境界線をどこに引くかは、昨今の個人的・社会的・生態的な諸問題と大いに関係」している。それは、貨幣経済を乗り越え未来の経済を展望することにおいて、決定的な事柄なのである。本書は、皮膚に閉じ込められた狭い自己からの解放と、それによって可能になる、人間と万物全体(広い自己)との豊饒で無際限な(希少性の概念とは正反対である!)関係性を構築することの「宣言」でもあるのだ。

 著者のメッセージにもう少し耳を澄まそう。万物全体を自己であると認識したら、「私利私欲で動く」ことの意味範囲も広がって、自分自身の心配をすることが「私」の物理的要素である水素・酸素・無機物を与えてくれる、河川や大気や土壌や森林の保護を意味するようになる。「自己の境界」を拡張してみると、自分が世にもたらす贈り物――もとを辿ればきっとそれも誰かから受けた贈り物のはず――の代償として、他人にお金を請求する仕組みの滑稽さが見える。自己中心主義のレンズも人間中心主義のレンズも人間本性に従っているわけでもないのに、そこから現代文化、つまり、自己の境界を自然や他者と分離する土台に組み込まれた文化が生まれて、その思考回路や皮膚感覚のなかに閉じ込められ孤立させられている。この文化での「唯一の連れ」は「お金がないと生きられないという不安」である。生き延びるためにこの種の不安と決別しよう。そのためにも、無銭経済の実践に参加してみよう。そして、生きとし生けるものの連関と相互依存性が私たちの生に活き活きと蘇ってくる感覚を、存分に楽しもう。

 (大阪市立大学教授)