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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

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 ◆ 3342号(3月3日発売号掲載)

体験を聞く歴史の世界

――身体的、対面的な関係に含まれる聞き取りの豊かな可能性
インタビュー:大門正克氏

 ■先ごろ大門正克氏の『語る歴史、聞く歴史――オーラル・ヒストリーの現場から』(岩波書店)が刊行された。文字史料中心の歴史学とは異なる、体験の聞き取りによるオーラル・ヒストリーの可能性に着目し、みずからの聞き取り体験を交えながら、幕末明治期から現在までの歴史を跡づけた一書である。ここには文書中心の枠を越える、新たな歴史学の沃野が見える。本書を手がかりに、語る歴史、聞く歴史の可能性をめぐって大門氏に話をうかがった。(1月15日、横浜市にて。聞き手・米田綱路〔本紙編集〕)

 ■生身の人間と相対する歴史

 ――本書『語る歴史、聞く歴史』では、歴史のなかで語ることと、聞くことの場面を〈現場〉と捉え、「語る歴史、聞く歴史」と表現されています。語り手と聞き手が相対する時空間を、歴史学の現場と据えるに至られた経緯についておうかがいします。

 大門 この本は、これまで文書史料中心の歴史学との関わりのなかで考えてきたことと、聞き取りを通じて考えてきたことを重ねるようにして書きました。

 まず歴史学についてお話しすると、一九八〇年代以降、歴史学はそれまでの史料と歴史家の関係が大きく問われました。たとえば言語論的転回というかたちで、言語(史料)と歴史学の関係が問われたわけです。それは今日まで続く問いです。

 歴史学は戦後、史料を通じて事実を大事にしようとしてきました。研究が発表される際に、どのように格闘して史料を読んだのか、史料と史料の関係はどうなのかといった史料の読解過程は、意外なことに書かれることが少なく、史料の根拠は注に記載し、本文は史料にもとづく歴史過程を叙述することが多かった、歴史家はそれを見て、ああ、なるほど、こうやって議論するのだな、エビデンスは注をみてなかなかいい論文だとわかる。つまり、そういう論文の書き方をするのが歴史学の作法だったわけです。

 それに対して聞き取りの場合はどうでしょうか。いまはたくさんの人たちが聞き取りをしていますが、ある人から聞いた話を書くときに、その人が非常に豊かな語り手で、何を語ったかということを中心に書くことが多い。ですが、聞き取りのもうひとつ大事な点は、語ったことを聞き手の側がどう受けとめたのかということです。つまり、この本でも強調したように、askだけではなくてlisten、耳をすますことが大事です。

 聞き取りをする聞き手に重心をおいてみると、聞くということをめぐる思考過程を書かないと、聞き取りの説明は成り立ちません。ですから思考過程を明らかにしなければならなくなります。聞き取りでは、語り手が語ったことだけを書くだけでは足りないのではないか、このように考えてきました。翻って、文書史料を使う場合も、注にあげてその思考過程を閉じこめてしまうのはダメなのではないか、史料を読解する過程をもっと開示する必要があるのではないか。九〇年代から二〇〇〇年代にかけて、そのことが私のなかで問題関心として高まってきました。

 語ることと聞くことは、文字史料を読むこととは根本的に違う行為です。中国史・ベトナム史の研究者で聞き取りにとりくんだ吉沢南さんは、聞き取りで聞いたことを「生きた資料」と呼びました。聞き取りは、語り手と聞き手がある話題を共有しながら、語る―聞くをくりかえしますが、そのような聞き取りは表情やしぐさを含めて成り立っているはずです。聞き取りは、身体性と対面性に重要なポイントがあります。

 ――取材や調査では、聞き手が聞きたい話や事実を語り手に根掘り葉掘り聞き、取材という字のごとく話の材料を取ってくるような、ときには追及調にすらなる聞き方になりがちです。

 大門 ある事実だけを引き出してくるような聞き方では、「生きた資料」という側面をそぎ落としてしまいます。それでは聞き取りの特徴を生かしていないと思います。

 この本では聞き取りの特徴として、身体性と対面性をかなり強調しました。聞き取りでは生きた生身の人間同士が相対しているからです。そのことも含めて聞き取りを理解すると、いままで思っていた以上に、はるかに豊かな世界がそこには含まれている。

 表情やしぐさを含めて語り手を理解することをはじめとして、語り手にはそれぞれの語り方があり、時間の流れにそって語る人がいれば、同じ話に何度でももどって語る人もいます。そこからは、語り方の特徴にとどまらず、語り手にとってとても大事なことがあり、そのことにこだわりながら生きてきた生き方が垣間見えることもあります。かつて聞き取りに対して問題にされた、事実や信憑性を問うような次元では見えない、聞き取りでしかなしえないような側面が浮かび上がってくるわけですね。そのことが聞き取りにとって大事なことではないかと思います。

 それからこの本では、文書史料中心の歴史学に対しても、何度も問題提起をしました。ひとつは、洗練された研究スタイルでいいのかという問題提起です。先ほどいいましたように、もっと史料を読む過程を明らかにしてはどうか、ということです。

 史料読解の過程を含めて明らかにすることが、文書中心の歴史学においても大きい課題になっていると思います。つまり、史料をどう読むのかという葛藤の過程を明らかにする、そうすることで文書史料のなかに生気を吹き込むことができるのではないかということです。

 そうなるとなおのこと、洗練された注にのみエビデンスを押しこむような、いままでの歴史学の研究発表のスタイルが問題になる。文字史料と研究者の関係もエスタブリッシュされたところに行っているからかもしれませんが、本来は史料自身がもっていた生き生きした側面を見落としているのではないかと、歴史学に対してボールを投げたのです。

 私自身は、聞き取りをしながら同時に文書史料も読みますから、それらの両方を行ったり来たりしているわけですが、今回は聞き取りの側から、歴史的な事柄を明らかにしていくというのはどういうことなのかを、聞き取りの特徴である身体性、対面性をひとつの拠点にして書いてみました。

 そうすることで、過去とそれを語る現場が生き生きと蘇ってこないだろうか。いまはグローバル化や新自由主義などによって過去と現在が切断されているように見えるかもしれないけれども、過去や歴史には、いまを生きる私たちを照らし出す力がまだあるのではないか。

 聞き取りをもとにしながら、文書史料中心の歴史学にボールを投げると同時に、いまを生きる人たちにも、語ること、聞くことに豊かな可能性があることを問題提起する。そのことを意識しながら、この本を書いてみたのです。

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進化を無視しては栄養学を語れず、最適な食事法も決定できない

――祖先の習慣のいいとこ取りをして日々の暮らしに取り入れよう
評者:大野秀樹

 ■グルメ漫画『美味しんぼ二一』(雁屋哲・作、花咲アキラ・画、小学館)に、〈辛子明太子は苦手で・・・食べたあと、舌がしびれるんですよ〉と若いカメラマンが呟くシーンがある。多量の化学調味料のため、と主人公・山岡士郎が解説している。リン酸塩、亜硝酸、有機酸塩などたくさんの添加物がスケソウダラの卵巣に投入されており、化学調味料の量は明太子以上のものはない、といわれている。本書の横糸は、明太子を代表とする加工食品と昆虫を代表とする自然食品の対比だ。

 縦糸は、例えば、ロラス島(サントメ・プリンシペ民主共和国)で、原始的な漁業と年中可能な果実採集による狩猟採集生活を続ける原住民と隣接するリゾートホテルの観光客の対比(「グレートネイチャーSP赤道直下四〇〇〇〇キロ 光と影の物語 (1)」BSプレミアム二〇一八年一月二〇日)のように、歴史(進化)の流れだ。〈霊長類の間で肉食が流行るずっと昔に、果実がエネルギーと栄養の魅惑的な供給源としてこの世に現れ、それらは、昆虫をバリバリ食べていた先祖たちを、より頭も体格もいい、新種の霊長類へと進化させるのに十分なエネルギーを内包していた。およそ六千万年前にビタミンCの合成能力が失われた事実は、熱帯多雨林で暮らしていた我々の祖先は間違いなく十分な果物や昆虫を手に入れられる環境にあった、ということを意味する。今からおよそ六千万年前から三千万年前は、果実と我々の一族が最もラブラブだった時期だ〉。

 一方、人類の歴史のどの時代を見ても、果実はメインディッシュとなることはなかった。クマや鳥類に果実中心の餌を与えると急激に体重が減少する。人間も、果実ばかり大量に摂る食事を続けると体重が減る。でも、それはあまりよい減量法ではない。果実に含まれる主要な糖であるフルクトースの血中濃度の高さは、過剰な脂質の生成やインスリンの抵抗性、膵臓がん、尿酸値の上昇、痛風、心臓血管系の疾病、その他の代謝異常とのかかわりが指摘されている。アップルの創業者、スティーブ・ジョブズの膵臓がんは、彼が実験的に行っていた極端な果実主義と関係があると推測するブロガーもいる。

 本書の主な主張は、現代に数多くの健康の問題が浮上してきたのは、祖先が守ってきた食習慣やライフスタイルを変えたことや環境の変化が原因ではないか、ということだ。また、我々人類の祖先がどのように食べ、どのように暮らしてきたかを明らかにし、重大な慢性病の発症を抑え、あるいは遅らせるために、どのような祖先の習慣のいいとこ取りをし、日々の暮らしに取り入れるべきかについて、具体的な助言を行うことが目的だった。

 本書の特徴の一つは意外性だ。例えば、ココナッツは、その飽和脂肪の含有量の多さを理由に、多くの栄養学者から好ましくないとされている。他方、地中海料理は、飽和脂肪が豊富な恐るべき「西洋風の食事」に比べて、心臓疾患の発生率を下げる効果が高いといわれている。しかし、飽和脂肪と心臓疾患を結びつける証拠は乏しいままで、飽和脂肪への耳障りな中傷を証拠立てる根拠も見つかっていない。それどころか、ココナッツに含まれているラウリン酸と呼ばれる飽和脂肪は、実際「善玉コレステロール」(HDL)を増加させる働きがありそうだ。しかも、伝統食にココナッツが欠かせない国々で慢性病が目立って増加したのは、西洋の食べ物やライフスタイルが紹介されて(そしてココナッツが徐々につかわれなくなって)からだ。

 例えば、南太平洋にあるトケラウ諸島の住民は、主にココナッツや魚、パンノキ中心の食生活を送ってきた。つまり、高脂肪食で、カロリーの半分を脂肪、それも飽和脂肪から摂っていた。人口増加のためニュージーランド本土に移った住民は、いわゆる「西洋風の食事」をするようになり、脂肪の摂取量が実際に減っていたにもかかわらず、移住した住民に、肥満、2型糖尿病、心臓疾患、痛風などの生活習慣病の増加が認められた。ココナッツの高脂肪の成分が、脂肪のほとんどない魚や野菜中心の食事を補っていたのだ。ココナッツが身体に悪いという思い込みが、揚げ物などの脂肪や油脂を多く含む新たな代用品の乱用を招くことになった。

 現代の欧米人のほとんどが野菜は健康にいいと考えている。しかし、食物や栄養についての欧米の概念は、広い視野で見ると間違っていることがよくある。欧米の栄養学者は、植物性食物が抗酸化物質やビタミンAやE、食物繊維、多価不飽和脂肪酸や一価不飽和脂肪酸、カリウムを含む点、またはコレステロールやナトリウムを含まない点をしばしば熱狂的に褒め称えるが、それを証明しようと大変な努力をしてきたにもかかわらず、実は、植物を食べることが人のより健康的な将来を約束する決定的証拠はまだない。むしろ、適量のアルコールと適度な塩分を摂取すること、あるいはちょっと太り気味であることが、人の総合的な健康により明確な効果がある。植物中心の食物が人類の食事の中心をなすようになったのは、人々が新たな植物性食物を下処理し、調理し、選択的に育てる方法を身につけたからなのだ。ゴリラや牛のような草食動物が、加工されていない植物を大量に噛み砕き、消化するために所有している特別な消化器官や歯を人類はもっていない事実は、植物が人類本来の食糧源ではないことを示している。

 従来の栄養学的研究の主な瑕疵は、進化理論がもたらす洞察を無視してきたことだ。人類の背後にある進化の歴史を理解せずに最適な食事法を決定しようとするのは、難しい論文をたった一ページだけ読んで理解しようとするようなものだ。進化の理論だけが、栄養や健康も含めて、生物体の構成要素のすべてがどのようにつながり合っているかを理解する方法を提供してくれる。本書の結論は明快だ。〈適切な食べ物を食べ、よく歩き、あとのことはすべて自分の身体にまかせておけばいい〉。

 (社会医療法人財団大和会理事長・杏林大学名誉教授)

たんにミステリー小説という枠内には収まらない豊饒な物語性

――様々な事態にも恋人との不安定な状況にも、対峙し進んでいく様相に共感できる
評者:黒川類

 ■本書の著者は、イタリア出身の法医学の専門医で二児の母であるという。2010年、28歳の時、本書を刊行し、好評を得て、シリーズとして六巻まで刊行され、イタリアではテレビドラマ化もされたという。実は最近、法医学とは何かということを、わたしなりに、ようやく理解したばかりだった。端的に引用すれば「裁判など法の運用の際に必要な医学的事項について研究する医学の一部門。特に、死体鑑定による死因・死亡時刻の判定や血液型・DNA分析による親子鑑定など、裁判上の事実認定のための証拠を医学的見地から確定することを任務とする」(『大辞林』第三版)となる。推理ドラマ・推理小説などで検視官というものが登場するわけだが、検視官はもちろん医者ではなく、法医学を習得した警察官であり、詳細な死因を判断する解剖等を行うのは法医解剖医ということになる。医者ではあるが、患者を治療する医者ではないということになる。「本書を訳すにあたり、ある外科医に法医学の専門医について聞いてみた」ところ、「僕らは人の命を救うために仕事をしているのであって」という応答がまずあり、自分たちの領域と明らかに違う世界に法医学者がいることを示唆されたと「訳者あとがき」に記されていたことからも、法医学医師とは、不可思議な有様ということになるのだろうか。日本のテレビ番組で1994年から2017年まで、断続的に放映されてきた『法医学教室の事件ファイル』というドラマがある。放映されていたのは知っていたが、わたしは一度も見たことがなかった。しかし、今年の一月期からの新番組で法医学ミステリーというキャッチコピーに惹かれて、『アンナチュラル』(演出・塚原あゆ子他、脚本・野木亜紀子、主演・石原さとみ)というドラマを欠かさず見ている。タイトルは、不自然死を暗喩しているのだが、まさしく不自然な死に方(事件性があるかないかも含め、病院や自宅だけでなくあらゆる場所でということになる)をした死者の死因を明らかにすることで、死者の無念さとその家族の彷徨う感情を救うことが法医解剖医の仕事なのかと、納得し、それもまた心身の治癒といえるはずだと思ったのだ。本書のモチーフ、つまり主人公の法医学の研修医・アリーチェの熱い思いにも、そのことが貫かれている。

 アリーチェは、「痛みから衝撃を受けることがないということもあって、法医学を選んだ。死体が解剖台に横たわっているとき、痛みはすでに過ぎ去っている」からだと考えている。しかし、実際、作中のアリーチェは繊細過ぎる感性を持っているから、死体とはいえ、心の痛みまで払拭できるわけではない。それでも、彼女なりの矜持はあるのだ。恋人のアーサーに「ずっと法医学の仕事をしたかったの?」と聞かれ、「法医学の医師をするのではなくて、私は法医学の医師なの」と毅然として答える。まるで、訳者が例示していた外科医の偏見に対し、わたしたちも医師なのだと、宣しているかのように。

 このように素描しただけでも、本書が、たんにミステリー小説という枠内には収まらない豊饒な物語性を持っていることを理解できるはずだ。モチーフとしては、「静脈注射したヘロインに混ざっていたパラセタモールによるアナフィラキシーショックで死亡した」ジュリアという二十一歳の女性の事件の真相を追っていくものであるが、本来なら謎を次々と解いていくのものとしてミステリーの本領はあると思うのだが、この作品はまるで事件を包み込むようにして、アリーチェが所属する法医学研究所の人々や友人たち、さらにはジュリアの家族、事件を担当する警部といったように様々な関係性を織りなしながら物語をかたちづくっていくのだ。

 研修医としては落ちこぼれのアリーチェだが、自らの感性を切実なものとして、様々な事態にも、恋人との不安定な状況にも、対峙し進んでいく様相に、わたし(たち)は共感できるはずだ。

 もちろん推理小説としても高い水準を示していることを強く付言しておきたい。

 (評論家)