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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

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「図書新聞」の紙面で紹介した書評や、対談記事をご紹介します。【週1回更新】
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 ◆ 3344号(3月17日発売号掲載)

官僚制、くそったれ。

――この世界は複雑さに満ちている
評者:森元斎

 ■この世界は大変複雑にできている。官僚制は、この複雑な世界を反映させた仕方で展開されているように思えるものの、やはりこの世界とはずれており、民衆の生きる秩序とは異なる仕方で、複雑に展開されているものだ。だから複雑さに複雑さが重なって、とにかくややこしい代物なのだ。この世界の複雑さと、官僚制の複雑さは異なるということだ。官僚制の複雑さに対応できるのは、それを制度設計した者であり、いわばお受験で勝ち上がった人が操作できる。官僚制による複雑さで縛り上げられるのは、私たち民衆であり、体制側は縛られることがほとんどない。グレーバーが述べていないことかもしれないが、グレーバーの見立てから、こう考えることができる。官僚制の複雑さは私たちのそれとは異なる。だた、多くの国家の統治者やかれらを取り巻く官僚の眼には、この世界はシンプルなものに見えていると思う。かれらがバカだからではない。この世界にコミットして支配しているから、彼らの思うツボなのだ。だから、私たちとは異なる。私たちは二重の複雑さにあえぎ苦しむのだが、かれらは一重の複雑さ、しかもその複雑さを作り出している側であるがゆえに、この世界の自由を最も謳歌できるのだ。決まった形式を編み出し、その鋳型に流し込んでいさえすれば、支配は完了する。あとは懇親会で、うまいワインやら和牛やらを食べて談笑し、ロビー活動と対話が重要ですね、とのたまっておればいいのだ。くそったれ。

 本書の冒頭からショッキングな事例があげられている。官僚制と書類作成と業績評価なるものが、一九四〇年代と現在を比べると、莫大に増殖しているのだ。莫大に増殖しているのにもかかわらず、今やこれらは空気のような存在にすらなってしまっている。大学の末端にいてもそれはひしひし理解できる。研究費を得るために、大量の書類を書いたことがある。落ちることもあれば、通ることもある。通ったら通ったで、いちいち研究費の使途を記述しなければならない。一番馬鹿馬鹿しいと思われたことが、書籍を買う際に起こった。書籍一冊一冊に、自分の研究との関連性を記せと言われた時には、さすがに腹が立ち、事務室のカウンターで小一時間吠えたことがある。またこんなこともあった。ふと思い立ち、幼い頃に離婚してしまった父がたの祖父と曽祖父の名前を思い出したいがために、戸籍だか住民票なるものを取りに行ったことがある。子どもから祖父の名前と曽祖父の名前を聞かれたのに答えられなかったからだ。私はこれまで十数回引越しを重ねているので、いちいちその役所に問い合わせて、戸籍やら住民票をたどらねばならないそうだ。もう面倒臭くなって、結局自分探しならぬ、先祖探しはやめた。

 枚挙にいとまがない。皆さんも経験があるかと思う。本当に馬鹿馬鹿しい。しかしこれらすべて、私たちを縛り上げるために編み出されたものだ。官僚制の発端はもちろん軍隊の管理体制にあるのだが、それを今の複雑怪奇な官僚システムと密接な仕方で郵便制度が発展したとグレーバーは述べている。今となっては一見無害に見える郵便制度は、官僚制の温床だ。ここから触発されて、レーニンはロシア革命ののちに、強大な官僚機構を作り上げていった。ボリシェヴィキにとどまらず、現在の企業や国家にまでこの官僚機構の在り方が拡大し、私たちを締め上げていくことになる。

 私たちを締め上げる一方で官僚制には夢が満ちている。もちろん、レーニンの革命後の世界の制度設計の際にユートピアが作られるものとして官僚制は機能した。また加えて、これは驚くべき視点だと思うのだが、官僚制はゲーム形成する。ある一定の規則の中にこそ、自由を垣間見させることで、私たちはその迷宮に入り込んでしまう。自由はもはや規則の内側からでてくるものとして本書では余すところなく語ってくれている。そして規則もまた空気のようになってしまい、不可視のものとして存在するようになる。フーコーによる分析が想起された。権力の在り方が古典主義時代からフランス革命以降になるにつれ、身を潜めるようになったという分析だ。ここには歴史の断絶がある。グレーバーもまた、事細かに、官僚制という一つのあり方を、様々な文脈でそれぞれ断絶させつつ、両義性をもたせながら、豊富な事例を盛り込み、官僚制のアレンジメントを語ってくれている。

 本書は面白い小話に満ちているが最後に二つほど。一九八〇年代から、金融界や企業世界に奇妙な概念が跋扈するようになったという。「ヴィジョン、クオリティ、ステイクホルダー、リーダーシップ、エクセレンス、イノベーション」などなどだ。これらの語は、気づけば様々な領域に拡大している。大学の末端にいる人間からすれば、イノベーションという概念が学科の名前についていたり、大学のアドミッション・ポリシーだったりにあるのを見ると、正直、笑ってしまう。しかし笑っていられないのが現状だ。それともう一つ。「もしジル・ドゥルーズやミシェル・フーコー、あるいはピエール・ブルデューの生まれ変わりが現代の合衆国の大学世界にあらわれたら、かれらは大学院すらうまく修了できないだろうし、もしそれができたとしてもテニュアにかんしてはほとんど確実に拒否されるであろう。うすうすそれをわかっていて罪の意識を感じながらも、わたしたちの大部分がスコラ学者よろしく、一九七〇年代以来のフレンチ・セオリーに、いつはてるともない注釈を施しているわけである」。

 勧善懲悪の議論ではなく、常に両義性の中を行きつ戻りつすることで、わたしたちはようやく官僚制批判を始めることができる。この世界は複雑さに満ちている。官僚制、くそったれ。

 (哲学・思想史)

世紀末の終末幻想を描く

――麻田浩展(@練馬区立美術館、2017年9月28日~11月19日)とそのカタログ世界
評者:小野沢稔彦

 ■私は、昨年十一月に東京・練馬区立美術館で開かれた「麻田浩展」を観ながら、ヨーロッパ中世の人々にとっての「画」とは――そして、麻田の世界もまた――、現代の「映画」と同様な機能と運動性を持つメディアなのであることを思ったものである。麻田の一枚、一枚の「画」はその全景とぬきさしならなくある細部が構成する運動構造によって、その「画」を観る者はそれぞれの内なる願望に合わせて、それぞれの「物語」を創ることが可能であるのだ。つまり麻田の画は、そのタイトルが指示し、その意味の裡に自己完結するものではなく、観る者の心性に向かって開かれており、観る者はその画のなかで自己の物語を紡ぐことが出来る。彼の画の多くには、常に画のなかに矩形の、あるいは円形の空間が開かれており、そこにはきわめて具象的な人物や小さな動植物が、ほとんど麻田の内面とは別の独自な存在のように生成しており、それらの細部は主題とは別(の如く)に独自の存在性を誇る。そうした幻想の風景や具体性としての細部とが、画の主題とは独自に一つ一つのイメージを形成し、その画の不確かさ、多様さが、私の物語に結実することで紛れもなく、私の裡に沈殿していた私のある物語を形成し始める。

 麻田の世界に決定的影響を与えただろう、彼の長いヨーロッパ体験とは、実に中世ヨーロッパ人が「画」に向かい合う運動性を追体験すること――中世幻想絵画への愛――ではなかったのか。その体験こそが、麻田の方法となって、私たちを挑発し、私たちの物語を創らせる、開かれた運動体としての麻田の「画」を生み出す根拠となったのではないのか。

 中世の人々は、例えば教会の四壁を成すフレスコ画や祭壇画の世界に、教会という抑圧的な権威が教唆しようとする“聖なる教え”とはまったく別に、それぞれの人間がその立場や置かれた情況によって、それぞれ独自な想像力をもって、民衆の内面に歴史的に蓄積された民衆的イメージを使って、それぞれの「物語」を紡ぎ、その物語を愉しみとして民衆世界の世界イメージ(像)を形成してきたのではないのか。私たちが暗黒のなかの白いスクリーンに浮上するイメージを縒り合わせて「映画」を作り出すように。中世幻想絵画世界は民衆の権威を超えるイメージ生成のスクリーンであった。そして、麻田浩の世界もまた、ヨーロッパ中世絵画体験のなかで、彼が追体験した運動性の今日的再提出なのではないか。麻田の一枚、一枚の「画」は時代と私たちに開かれており、観る者はその全景ときわめて繊細に仕立て上げられた細部とを媒介に観る者なりにそれぞれの世界を再構成し、自らの物語を紡ぐことが出来る。廃墟の風景画のなかの開かれたスクリーン(窓)のなかにきわめて具象的に描き出される、海中生物や植物や小動物――人間出現以前の生命体――の実在などが、幻想のなかに具体性として生きてある時、ここには宇宙的時空が展がり、観る者はこの世界の不確かさを超えたまったく別なイメージ界をのぞき見る。

 麻田の現代映画への嗜好の強さは、御子息の証言でも(カタログによる)明らかなのだが、麻田の画には確かに映画的世界――特にヨーロッパアヴァンギャルド映画――との相互性があるように思う。そして何度も言うが、麻田の画そのものが、私たちに映画の運動と同様な媒介=運動性となってある。具体的に彼の画で見てみよう。ただし紙数の関係で私の心象に強く残った三点にのみ絞って見てみよう。

 初期(七二~七三年)の明らかにヨーロッパ中世絵画の「聖家族」を想い出させる『家族』という画を見てみよう。確かにここには、マリアと幼子キリストと洗礼者ヨハネと同定出来る人物が、生命を生成する以前の原初の桎梏の如き土のなかに封じ込められており、その桎梏のなかで呻吟している。この三者と原初世界のなかに形成される世界は、しかし、「聖」なる関係性とはまったく逆に、「空無」と「出口なき」世界のなかに呻吟する私たちの現実以外の何ものでもない。その世界が、くぐもった白い「画布」(スクリーン)の如き空間を背景に、画のなかの画のように宙吊りされ、実体を奪われた空の時空の如く、この暗鬱な世界を飛び出すことへの飛翔願望を現すかのように浮遊物質としてある。

 マリアはある強制力によって、まったく見ることを奪われており――勿論、後の死すべきキリストを見すえたイメージの暗喩としての関係ではあるが――、まったくこの生の世界を見ていないのである。そしてイエスもヨハネも茶褐色の重い色彩の中に埋め込まれ、まったく出口のない情況に封じ込められている。ヨハネはもはや眼をつむっており、イエスという幼児のみが私たち――このイエスを殺した――を凝視している。このまったく希望の視えない「死」の光景こそが「聖」家族であることこそが、この現代そのものの光景ではなかろうか。

 同時に、その制作年代から、実はこの画は、まさに左翼運動の終末の現実である“同志殺し”に至った、わが〈新左翼〉の一つのアレゴリー、物語を想わせるものがあり、後の麻田の自死をさえ予兆的に語ってはいないのか。ただ同志殺しのアレゴリーは、「政治」的な謂ではなく、人間を殺すという人間のあり様の闇への深い問いであり、麻田は常に人間の暗部にイエスのように眼を向け続けている。この麻田の初期作品の喚起力は、以後の彼の作品の総てを覆いつくす。麻田の「画」は時代と状況と無縁ではなく、紛れもなくこの時代と状況との切実な切り結びの営為なのである。

 予兆の絵画を描き続けた麻田の「画」については、今回の麻田展のカタログに載せられている多くの作品から(彼の晩年。自死の直前のもの)、あと二点のみを考えてみたい。まず一点は『四方』と題された何点かの連作のうち、『四方・影』(九五年)である。

 例によって、画のなかの矩形の空間が開かれており、その矩形のスクリーンの如き空間を囲んで、暗黒の帯状の幅がそれを囲んでおり、その暗黒の四隅に天球が――宇宙――浮かんでおり、開かれた矩形の底部は海底でもあるのだろうか――アンモナイトやエビのような水中の生物が沈澱(死)している――、死が沈澱し堆積し、それが暗黒のなかに虚無の世界を形成している。ここには生の輝きはなく、ただ世界の終末の闇が展がっている。

 それでいて、光る物質状の原生物のような形状が原初の生を確かに告示している。その原初体のみが、終末の、あるいは創世記の混沌の世界のなかで歴史の証しとなって実在している。麻田の終末の光景の絶対的暗黒世界性こそが、私たちの現実であり、近未来そのものであるのだ。その地底には穴が至る所に口を開け、生命そのものを吸収し虚無空間を構成する。ここには「三・一一以後」の黙示録的世界が予兆的に現出し、私たちはその予兆性に撃たれるのである。

 さて、自死を直前にして九七年に描かれた『沼・月』という作品の衝撃性をなんと言えばよいのだろうか。画面全体は、地上界なのか海底なのか、聖書の世界創造の物語の混沌の風景なのか、ともかく世界の終末の空間のなかに、名付けようのない空間がのぞき、その中央に真っ黒い沼がただ暗黒の口を開けていて、この穴はどこに通じているのか。そして空中(水中)には真っ黒の月が宇宙の無限の闇に通じているかのように暗黒の穴を開けて浮かんでいる。

 中央の空間のなかには地球の滅亡後、取り残された枯木が奇妙な残映をなして残っており(あのフクシマ原発の残骸のように)、それが沼と月との空間に漂っている。しかし不思議なことに、地表(海底)に生きる植物だけは幻想の風景とは異質に、確かに実在として生き続け生を誇っている。画面全体はどうしても現実とは思えず、幻想のなかに黒い沼と月とがぽっかりと暗黒に向けて空いており虚無をも有しているのだが、植物はなぜ生きているのか。ここには世界のなかで、生を拒否された虚無の時空の形象だけがあり、その全景は私たちの今日そのものの幻想そのものである。

 ともあれ、麻田浩の終末風景については、私たちは改めて眼を向け、その幻想世界に向き合うことが、今日こそ要請されている。麻田浩の世界は、この二一世紀の今日にこそ、その強い喚起力によって私たちの「今」を照射するだろう。

 (プロデューサー)

いわさきちひろの思想は未来に通じる

――ちひろを多角的に解釈して論考している
評者:宮田徹也

 ■二〇一八年は、五五歳で没したいさわきちひろの生誕百年に当たる。七月には東京ステーションギャラリーで大規模な展覧会が開催される(十一月に美術館「駅」KYOTO、二〇一九年に福岡アジア美術館を巡回)。昨年、安曇野ちひろ美術館は大幅に改修し「子どもの展示室」を整備、松山村村営の「トットちゃん広場」がオープンした。東京館は四〇周年、安曇野館は二〇周年を迎えた。ちひろの息子である松本猛(一九五一~)の『いわさきちひろ 子どもへの愛に生きて』の刊行は、絶妙というよりも必然であったに違いない。

 松本だけではなく黒柳徹子や研究者、ジャーナリストとこれまで多くの人々によってちひろは語り継がれてきた。その量は、語り尽くされてしまったのではないかというほどである。しかし、一人の人間とその人間が創作した作品を語り尽くすことなど不可能なのだ。美術、文字、文学、戯曲、音符、舞踏譜など、作者から手に離れてしまった作品は途端に冥府の国へ吸い込まれてしまい、二度と戻ってこない。作者ですら、一度手放した作品に手を加えることは出来ない。只、その作品に様々な解釈を施すに過ぎない。

 本書はちひろという人間を膨大な資料に基づいて客観的に研究しているだけではなく、松本本人の記憶も加えて、娘、母、女、社会人、アーティストといった、様々な面を持つちひろを多角的に解釈して論考している。松本は「プロローグ」で母としてのちひろを簡潔に語り、第一章でちひろの父である倉科正勝(一八八六~一九五三)と母の岩崎文江(一八九〇~一九七七)について多くの頁を割く。第二章では幼少のちひろの時代が、子どもの本の黎明期であることを論証する。第三章は東京府第六高等女学校の校長である丸山丈作(一八七五~一九七一)、画家の岡田三郎助(一八六九~一九三九)、書家の小田周洋(不詳)といった、ちひろの人格形成に重要な役割を果たした人物を考証する。

 四章から六章までは戦時と終戦の記録である。松本は、ちひろが宮沢賢治(一八九六~一九三三)の思想に出会ったことを重要視する。第七章から最後の十四章までは、ちひろの戦後の人生と制作活動の詳細を検討している。共産党入党、夫である松本善明(一九二六~)との出会い、結婚と猛の出産、母文江との同居などの生活の変遷を巡ると、ちひろという人間像が如実に浮かび上がる。名門女学校を卒業した後、東京芸術大学、女子美術大学などを目指さずに二〇歳で一度目の結婚をしたちひろは、だからこそアカデミックではない自由な発想を携えることが可能になったのであろう。

 生家を出て神田で苦難の一人暮らしをしながら人民新聞の記者、ヒゲタ醤油の広告の挿絵の仕事をし、一九五〇年度の文部大臣賞を受賞した『お母さんの話』から紙芝居、絵雑誌の仕事が徐々に増え、一九五六年に『ひとりでできるよ』を発刊して以来、絵本の仕事が中心となる。一九七二年、ベトナム戦争、画家ベン・シャーン(一八九八~一九六九)の思想が切掛けとなり名作『戦火のなかの子どもたち』が生まれる過程を松本は克明に描いている。

 ちひろは絵本作家として評価されている。ちひろの作品を見れば、絵本作家が画家に劣るなどという発想はありえないことが理解される。本書で松本の個人的な思いがその枠を乗り越えて、普遍化された。松本は自己の子供については記していないが、祖父、祖母、母、父という人の命が繋がっているという感動を、我々はここで読み取ることができる。そしてちひろの存在が、これからの希望のない時代にこそ最も必要であることを教えてくれるのだ。ちひろの思想は未来に通じる。

 ちひろの大ファン、美術や絵本の愛好者だけではなくちひろを全く知らない世代、美術や絵本に興味がない方も是非とも本書を読み、ちひろを通して自らの、家族の、生活の歴史を振り返り、この国がどのようになればいいのかを一緒に考えて戴けると、ちひろもまた嬉しいだろう。

 (京都嵯峨美術大学客員教授)