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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

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 ◆ 3345号(3月24日発売号掲載)

時代の最先端は常に少数派だ

――時代が動いていく、それが面白いと言って拍手しているだけではダメだった
鼎談:四方田犬彦×福間健二×大島洋

 ■四方田犬彦編著『1968 [1]文化』が筑摩書房より刊行された。三巻本のアンソロジーの第一巻である。いまからちょうど五〇年前の〈1968〉とは、特にその文化とは、いったい何だったのだろうか。それを考えるにあたって、本書刊行を機に、編著者の四方田氏と、詩人・映画監督の福間健二氏、写真家の大島洋氏に鼎談していただいた。(鼎談日・1月29日、東京・高田馬場にて。須藤巧・本紙編集)

 ■一九六八年当時、何をしていたか

 四方田 わたしが『ハイスクール1968』を発表したのは二〇〇〇年代になってまもなくのことでした。それが最近、中国語版が刊行されたり、パリで関心を持ってくれたりして、二年前にはわたしを追放しようとした母校(現在の筑波大学附属駒場高校)の文化祭で演劇部の芝居に上がるということになりました。顔を隠して(?)観に行ったのですが、真面目な舞台だという印象がありました。そのとき感じたのは、現在の高校生が五〇年前の高校生の政治行動や文化的環境に強い関心を持っているという事実でした。もちろん一部かもしれません。けれどもこの舞台に接したとき、ああ、高校時代の自分にとっては自明であった文化を、つまり写真や映画、文学、舞台、漫画をキチンと残し、年少の世代に受け取ってほしいという気持ちに駆られたのです。二〇一八年は一九六八年から五〇年目です。アンソロジーとして、資料を残しておきたいという気持ちがありました。生き延びた、有名なものだけではない。泡沫で消えてしまった、無名の者もできるかぎり、後世のためにキチンと残しておかなければならない。それがあの時代にたまたま高校生であった自分の使命であると考えるにいたったのです。今回の企画は三巻本で、文化・ステージ・映像などの第一巻、二巻目は文学、三巻目は漫画です。もちろんわたし一人ではその全領域をカバーできませんので、様々な方にご協力いただきました。特に第一巻では、当時の何千枚という写真や映像から、二百数十枚を大島洋さんに選んでもらうという気の遠くなるような作業をしていただきました。福間健二さんには当時の小説と詩について第二巻で責任編集していただきました。第三巻の漫画は中条省平さんに協力してもらいました。また、昨年には国立歴史民俗博物館で一九六八年をめぐる大きな展覧会が行われ、千葉市美術館では今年の後半に「一九六八年 激動の時代の美術」という展覧会が開催される予定です。そのように様々なところでもう一度六八年を検証しよう、再確認しようという動きが出てきています。

 今日は大島さんと福間さんに来ていただいたのですが、お二人は六八年の段階で既に活動をスタートさせていて、それから五〇年、活動を続けている。これは、わたしにとっては内田裕也か沢田研二です。五〇年やっているのはすごいことだと思います。まずお二人にお聞きしたいのは、六八年から七二年ごろにかけて、何を考え、何をされていたのかということです。

 大島 ぼくは一九六七年に初めての写真展「ひかり」を新井克英と二人でやりました。ぼくは中学で写真を始めたのですが、ずっと上の世代の人たちの写真に対する批判をどうやるのか、そこに関心がどんどん強くなっていきました。「ひかり」の案内状を、新幹線のひかり号の乗車券と本当にそっくりにつくりましたら、有価証券偽造で捕まってしまいました。初めての写真展で新聞の文化欄に載るつもりでいたら、社会面に載ってしまった(笑)。それが最初です。当時の新幹線ひかり号の顔(先頭)の部分を写真に撮って、その同じ写真を二四枚、紀伊國屋画廊の壁面に並べました。展覧会開始の前日くらいには新聞に載ってしまっていたので、最初の客は紀伊國屋書店の当時の社長、田辺茂一さんでした(笑)。

 四方田 逮捕されたわけですか?

 大島 結果的には書類送検でした。ぼくは闘うつもりでいたんですが、いろんな人に相談したら、瀧口修造さんが「とにかく謝れ」と言うんですね。なぜなら、赤瀬川原平さんが千円札裁判をやっていなかったら、もっといい芸術家になったはずだからだと。……ぼくはそうは思わないんですが(笑)、瀧口さんはそう言っていました。瀧口さんは、それでももし裁判で有罪になってしまったら、徹底して特別弁護人を引き受けるから、とにかくそこまでは謝ったほうがいい、時間の無駄だと。国鉄の局長レベルは「国鉄を侮辱した」と、かなり強硬な態度でしたし、日本写真家協会の当時の会長は、「あいつらは写真家になる云々以前の問題として失格だ」と言っていました。あんなジジイたちに負けてたまるかと思っていました(笑)。

 六八年には、「ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールに捧ぐ」という写真展をやりました。画廊の壁を複写して原寸大にプリントするというものです。これは、写真雑誌には無視されたけれども、それなりに評価されました。同時期に、イギリスのコンセプチュアル・アーティストのヴィクター・バーギンという人が、やはり同じように床を原寸大に複写して貼るということをやっていたんだそうです。そんなことは当時まだ日本に紹介されていませんでしたが、ほぼ同時期にやっていた。ただ、ぼくの場合はコンセプト云々というよりは、「決定的瞬間」だとかいったものに対して、「もうそんなことを言っている時代じゃない」と否定したかったんです。「ひかり」も「ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールに捧ぐ」も、それまでの写真を一回否定してしまいたいという思いでした。決定的瞬間や組写真といったことに拘泥している写真界はもう終わりなんだ、その先に行かなければならないという感覚がありました。ぼくの一九六八年は、中学からずっと対象に向かって写真を撮ってきたのをやめた時期です。

 四方田 自然に撮っていた「幸運の町」の写真家に、ある種の断絶が起きた?

 大島 そうだね。対象との信頼関係で撮っていた写真を一回脇に置いておいて、六七、八年当時の写真の世界の価値観に疑問を呈したいという思いでやっていた。

 本書『1968 [1]文化』には、新宿など様々な闘争現場の写真を収録しましたが、当時ぼくはそれらの現場にカメラは持っていくけれども、写真を撮るよりは石を投げるほうだった(笑)。別にどの組織に入っているわけでもないから、適当に腕章をつくって、取材だということで行くと、「その腕章はどこのものか」と私服警官にずっとつけられたこともありました(笑)。六九、七〇年にかけてはそんな感じでした。六九年には、一九七〇年に向かって写真家も何かしようということで、東松照明さんが一〇〇人集会というのを立ち上げました。ぼくも声をかけてもらって参加していましたが、七〇年に安保が自動延長になったときに、日本にいたくないと思って、イタリアに一年間行きました。七一年に帰国し、写真を続けようか、それとももうやめるしかないだろうかと考えていました。そのときに、嘉永・弘化年間の三閉伊通り百姓一揆のことを思い出し、その一揆についての森嘉兵衛さんの研究書を持って、その地域に何度も通いました。七二、三年頃です。その間にやっと、写真をもう一回きちんとやろうという気持ちになりました。

 四方田 ヴィクター・バーギンと大島さんは、お互いを知らないままにやっていた。世界的な同時性を知らずして体現していたのではないか。詩や映画においても、似たような断絶と当惑が起きている。福間さんはどうでしたか?

 福間 ぼくは高校のときに八ミリを撮っていて、映画をたくさん観ていました。大島渚、ゴダール、増村保造、鈴木清順、石井輝男、若松孝二にあこがれた。若松さんとは六六年、高校三年のときに新宿の京王名画座でたまたま会いました。若松さんと会ったからというわけではないですが、高校で普通に受験勉強して大学に行く、当時の言葉で「レールに乗っかっていく」ことに対する疑いというか、もっとふざけきってやろうという思いがつよかった。真面目な反抗というよりも、世の中のいろんなことをバカにしたくなっていた。六六年当時、若松さんは「作家」になっていき、若松プロも「運動体」になっていって人が集まっていた。若松さんに会い、足立正生に会い、大和屋竺に会い、そこに引きこまれていきました。若松プロは渋谷や原宿にあったんですが、しかし若松プロに関わるとは、新宿に毎日いるという感じでした。新宿で女の子や出来事を探して、それで映画を撮ってしまう。若松プロを動かしているもののなかに自分も巻き込まれていった。雑誌で言えば『映画評論』『映画芸術』『現代詩手帖』などを読み出して、そこからいろんな情報を得たけど、雑誌で知ったことが新宿でも起こっている、実際の動きになっていると感じた。なかでも足立さんに会ったことが大きかったかもしれません。足立さんは七一年にアラブに行くまでは、一面では左翼のそばにいて左翼をからかっているような人でした。そのからかう態度を「じゃあお前はどうなんだ」と問われ、議論に絶対に負けない人でもあるから「いや、俺こそが闘うんだ」と言い抜いて、アラブに行ったようなところがあると思います。大島さんは石を投げるほうだったとおっしゃいましたが、ぼくは足立さんと一緒に賢く動いて捕まらないようにしていた。あの時代、起こっていることに対して「何か」を引き受けなければいけないんだけど、自分は真面目に左翼なんかやる気がしなかった。それで理屈が通るわけでもないけど映画をつくっていくことになります。

 大学に入って小説を書いたら、印税が入ってきました。それをもとにして一六ミリ映画をつくり始めたんですが、なかなかうまくできない。思ったように行かず、お金も足りなくなる。映画を完成させなければならないということで、そのために六八、九年を生きたという面がある。若松さんのところで役者をやったり脚本を書いたりしたのは、お金がもらえたからでした。もちろん、面白かったからやっていたんでもあるけど。

 大島さんの話を聞いて非常に共感するのは、ただ写真や映画が好きだということではいられなくなるような時代だったということです。六六年頃の『映画評論』を読むと、「アングラ」という言葉がアメリカから入ってきている。普通の商業映画、劇映画なんかやったってしょうがないんだという感じだったし、ゴダールが六八年に『中国女』を撮り、そこから変わっていく。ただ、その一方で映画が好きだ、普通に映画が撮りたいんだという思いがある。だからその間で引き裂かれていくような感じがありました。文学でもそうです。詩集をのんびり読んで、「この詩はいいねえ」なんて言っている場合ではなく、ここにあるものを壊していかなければいけないんだという感じだった。鈴木志郎康さんや天沢退二郎さんや吉増剛造さんらが、かなり突っ走った詩を書いていましたが、その先まで行かないといけないんだという意識がありました。表現の未知の領域、表現の彼方まで行かなければならない。だけど、どう行ったらいいかはわからない。六八年から七一年まで、自分なりに壊してはいたけれど、そう簡単には壊せないという焦りとの間で映画をつくり、詩を書いていて、「やりきってはいないだろう」という思いがやはり強くありました。

 写真で言えば同時代的に「ブレ・ボケ」がありますが、それは映画でも文学でもありました。しかし、それに思いっきりのめり込んでいった連中は潰れていきました。どこかに行っちゃうというか、消えていってしまう。ぼくは一人で取り残されて、でもやらなければいけないなと思っていたのが、七二、三年です。どうしていいかわからなかった。そうした時代の嵐、波に巻き込まれなかった人間が出てくるのが、文学では両村上以降ですね。時代との折り合いがうまくつかなくなる感じがありました。六八、九年は、冷静に言えば、うまくやれているのは、既に自分の表現をきちんと持っていた人が、新しい動きを取り入れてやっていった。それならそんなに難しくはないんだけれど、スタートした自分自身が壊していく動きのなかに入っていってしまうときに、本当に身動きがとれなくなる。でも、ぼくはしぶといので(笑)、なんとか潰れずに生き抜いた。

 時代が動いていく、それが面白いと言って拍手しているだけではダメだったんだよね。大きな機械が動いていて、自分もそのなかに飛び込んでいかなければならないけれど、本当のところでは自分もどうやったらいいかわからないという状態でしたね。

 四方田 わたしはお二人より年少で、六八年は高校一年でしたから、お二人のレベルで暴れまくるわけではなかった。しかし自分にとって決定的な意味があると思います。福間さんがおっしゃっていたことと重なると思いますが、焦燥感がすごくありました。何かしなければいけないんだけれど、何をしたらいいかわからないし、寺山修司は「三十歳以上は信用するな」と言っていた。『ハイスクール1968』にも書きましたが、高校時代にわたしがやったことはすべて挫折でした。寺山修司のオーディションを受けましたが、二回も落ちました。『ガロ』は投稿を拾ってくれましたが、『COM』はみごとに落ちました。高校でバリケード闘争をやるというので行ってみたら、一日で途絶えてしまう。文化祭でバンドを組んで、ビートルズの真似をしようなんて言っていたら、ビートルズはテープ音楽のようなことを始めてしまう。ビートルズもゴダールも、こっちが追いついたと思ったら既に先に行っている。あの当時のもので残っているのは、文化祭のときにガリ版で出した詩集だけです。七二年くらいまでは、無我夢中で悪戦苦闘しているという感じでした。

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予定調和なき未決定の世界へ

――3・11以後の反原発運動が創り上げた新しい政治力学を継承し、新たな「正史」を紡ごうとしている
評者:木下ちがや

 ■1980年代、日本社会は「豊かな社会」を実現させた。「1968年」の機運は遠ざかり、ラディカリズムは拡大する消費文化のなかに包摂されていった。80年代後半から90年代初頭にかけてのソ連・東欧の崩壊と冷戦の終結は、「大きな物語」としてのマルクス主義の権威を失墜させた。「大きな物語」が失われたなかで、次々と「偽史」が生産されていく。「サブカルチャー」あるいは「オタク文化」とは、現実世界に物語を描けなくなった代償として、仮想世界に歴史像を投影する装置であり、大塚英志が述べるように「ガンダム」から「エヴァンゲリオン」に至るアニメーションの系譜がそれであり、本書で取り上げられている「共産趣味」なる現実逃避の左翼文化がそれである。そして、冷戦期に保守派林房雄が提唱した「大東亜戦争肯定論」のような歴史修正主義とはまったくことなる新しい「偽史」を掲げるネット右翼はこのサブカルチャーの領界から登場したのである。

 こうした仮想空間への代償行為的産物の「偽史」の生産は、それでも現実政治を土台としている。1993年の政界再編は、東欧における市民革命のインパクトを受け、ひとときの「地球市民」的市民政治の対抗軸を提示したかにみえた。著者が本書で述べているように、この時期は実に「リベラルな時間」であった。しかしながら「政治改革」は結果として政治への大衆参加を遮断し、これまで革新勢力の柱であった日本社会党は消滅し、ストライキやデモは公共空間から消えていった。こうした現実世界における政治的敵対性の消滅により生まれた空白こそが、かかるサブカルチャーが繁茂した領界に他ならなかったのである。そしてこの領界の産物たる「オタク」「共産趣味」「ネット右翼」のうち、「共産趣味」が自閉的な予定調和的世界に閉じこもるのをしり目に、現実政治の右傾化と節合し、仮想のラディカルな偽史を街頭へと投げ込んだのが、在特会をはじめとするレイシスト集団であった。

 本書『実録・レイシストをしばき隊』の前半部で描かれる、少人数によるしばき隊の結成から数々の抗争をへて、数千人の規模の大衆行動へと拡大していく展開が圧巻の魅力を発しているのは、この四半世紀にわたり展開された「偽史」を全否定し、新たなストーリーを提示しているからである(ちなみにこうしたストーリー展開は、毛沢東の長征やベトナム人民解放戦線や抗日パルチザンの軌跡といった、第三世界革命ナショナリズムをなぞっている。近代日本が羨望しつつもつくりあげられなかったストーリーである)。全否定されているのだから、この「しばき隊」の行動にたいして「オタク」「共産趣味」「ネット右翼」すべてから実存を賭けた悪罵が投げつけられるのはある意味当然だったのである。四半世紀にわたる現実世界における対抗的力学の衰退に対して、現実の世界から新たな変革のストーリーを打ち込んだこと、それを活写したことが本書の第一の意義である。

 では、こうした「しばき隊」の誕生と活動を可能にした政治的土台は何だったのか。著者は2012年暮れに『金曜官邸前抗議――デモの声が政治を変える』を上梓している。反原発金曜官邸前抗議に十数万人が結集するまでの軌跡を描いた本書の刊行のわずか二か月後にしばき隊が結成されている。したがって『実録・レイシストをしばき隊』はこの『金曜官邸前抗議』の続編であり、3・11以後の反原発運動が創り上げた新しい政治力学を継承し、新たな「正史」を紡ごうとしているのである。反原発運動は、1980年代の「豊かな社会」以前には存在していた、大規模な大衆的結集の「器」を新たに再現した。街頭での行動が、現実の政治過程に多大なる影響を与えることを証明した。この「器」は、直接抗議活動に参加する人々だけではなく、運動に直接参加していない人々の情念や怒り、不安や不満を包み込んだ。そしてこの「器」は、未定型であり、共通化されていく実践と経験のなかで常に変形している。つまりこの「器」は、主体的に構築され、再構築されるものであり、予定調和的なものではない。

 著者が本書の後半でのべる「正義はだいたいでいい」というのはこの「器」に対応している。「形而上者謂之道、形而下者謂之器(形而上なるもの、これを道といい、形而下なるもの、これを器という)」(易経)という古代中国の教えに倣えば、3・11以前の左翼は、絶対真実の「道」(形而上)を説くことにのみ専念し、現実の民衆世界(形而下)の「器」をつくることを忌避してきた。「思想は実践のなかから生まれる」というごくごく当たり前のことを忘れた「ラディカル」なアカデミズムが、この3・11以後の実践過程についていけなかったのはある意味当然だったのである。本書のもうひとつの意義は、われわれはもはや予定調和なき未決定の世界に投げ込まれていること、自ら主体的に「正史」をつくりあげていかなければならないことを突き付けたことにある。著者が本書の後半で述べているように、正義はあくまで「だいたい」のものであり、それは絶え間ない実践によって検証されなければならない。そこに決定的な未来はなく、永久にストーリーは紡がれていかねばならない。これこそが、かつて鶴見俊輔が説き、小田実が実践したプラグマティズムの理念なのである。われわれはこの「正史」を、未来にむけて紡ぎながらもふたたび、過去にうずもれた歴史と出会えるだろうか。本書が活写した2013年の反レイシズム運動の台頭期に、関東大震災における朝鮮人虐殺がリアルに再現されたのは偶然事ではない(加藤直樹『九月、東京の路上で』)。時代の核心に投企した運動は、目前の課題を越えて新しい時間と空間をつくりだしていく。それは過去と未来をつなぐとともに、グローバル化のなかで変容し、「豊かな社会神話」と「単一民族神話」がまるごと仮想化しているこの国に、新しいアイデンティティを与えることになるかもしれない。未来は暗幕の向こうにあり、予定調和なき状況に耐えうる思想と理念がいま求められている。本書が示した「だいたい正しく、だいたい間違わない」という指針が、政治的想像力を喚起していくものになるかどうか。それは読む側に突き付けられた課題だろう。

 (政治学者)

書店主の覚悟

――書店で何が起きているのか。その解答を求めた全国書店ルポ
評者:大矢靖之

 ■私が生まれ育った池袋には、多くの書店があった。商店街には2件の書店があり、そこで『ドラえもん』を買い揃えていた古い記憶が蘇る。駅西口前の芳林堂書店では高校から大学までの受験本を買ってきた。駅東口側の新栄堂書店やリブロで大学の教科書を探したこともある。

 そうして通ってきた書店、全てが閉店した。もう全て記憶の中にしか残っていない。それらの中には新しく誕生した大型書店に客を奪われた店もあったろう。あるいは後継者がおらず消滅した街の書店もあったろう。それだけではない。出版市場全体が急激に縮小し書店の経営環境が悪化していることは、もはや周知の事実なのだ。

 書店で何が起きているのか。その解答を求めた全国書店ルポが本書となる。粗雑ながら本書の流れを要約してみよう。まずプロローグから第1章「しぼむ街の本屋」までで語られるのは、書店の試行と挑戦、苦闘の姿だ。町の書店も大型書店も、廃業や撤退が続いているのが現状だ。そして出版物の問屋たる取次も、倒産が相次いでいることも示される。ただし本書は多くの書店の閉店を伝えつつも、けしてノスタルジーで終わってはいない。冷静な筆致で出版業界の構造とその危機に触れながら、今なお商いを続け、地域に本を届ける書店主達の姿を描き出す。その描写は、書店を担うことが一つの生き方に他ならないことを示しているかの如くだ。

 第2章「地域と書店」は、インフラや文化拠点という側面を持つ書店の姿を、様々な地方の取材から映し出す。官民一体となって書店・行政・図書館が手を取り合い読書推進活動を進める山梨の事例や、都会との情報格差を埋める行政サービスとなっている八戸の市営書店。本以外の御用聞きも承り、地域コミュニティを促進するウィー東城店。あるいは、老人ホーム慰問や子供同士の絵本読み聞かせ会を主催し、地域と社会に奉仕する東京練馬区の書店。それぞれの事例から理解されるのは書店の地域貢献の可能性であり、全国チェーン書店では取り組むことが出来ないまでに属人的な営みではないか。

 第3章「街の本屋の挑戦」は、県の経営革新計画を取り付けリニューアルして書籍の品揃えを特化させた店、顧客の趣味嗜好に合わせたお任せ選書を行う店、作家や研究者に直接依頼してイベントを開催する店など、あらゆる困難に対し意識的に抵抗を続ける本屋を紹介する。

 第4章「新しい本屋のかたち」は、出版不況顕在化以降、新しくオープンした書店に迫っている。分化し多様化する書店のあり方を紹介したこの章は、プロローグから第1章までのネガティヴな論旨と見比べておく必要もあるだろう。昭和から平成に移り、また次の元号を控えた2018年現在、顧客に受け入れられる書店とは何かを考えねばなるまい。

 最後の第5章「震災を超えて」は、東日本大震災、熊本地震で被災した書店を取材している。福島県生まれの著者による取材は2016年以降に行われており、東日本大震災後の現状と推移を振り返るのに適切な時期であったようにも思う。被災地の書店について、被災そのものの深刻な被害のみならず、被災者が街を離れて人口が減少し、売上も急減する、という厳しい現状が語られているからだ。震災直後に書店の被災を語るメディアは多かったが、その後の書店を語る仕事はそう多くない。被災による人口減少と書店の現状は、人口減少社会到来時の未来を先取りする面があるのではないか、という指摘は心に留めておくべきだろう。無論、熊本地震で被災した書店についても取材は怠らない。本章の取材から見えるものは、震災と業界不況の双方に抗いながら、生き残った者・生き残った店舗として、何らかの荷を背負い、責務を果たそうとする書店主達の姿であった。それぞれの貴い決意と生き方を読み取れる人は、おそらく自身に問いかけざるを得ない。「なぜこの業界にいるのか? 何を為せばいいのだろう?」と。

 本書の成果として、全国各地を飛び回りながら特色ある街場の書店の姿を伝えることで、都心偏重、大手チェーン偏重となりがちな書店への視点を多重化したことが挙げられるだろう。

 文化と商い、伝えたいものと食べていくこと、書店員としての理想と現実――双方を見据えるためには、チェーンではなく、個人書店への取材が好ましい。いま個人書店を続けている店主は、理想や使命に突き動かされるだけでなく、小売業事業主として極めて優れた資質を持っていることが取材で示されていることからも、著者の姿勢は明らかだ(ただし個人的な意見を差し挟むなら、他の小売業の盛衰と、書店とを比較する視点がこの種の業界論において絶対的に欠けていると考えている。だがこの書評は上記の主張を敷衍する場ではない)。

 そう、どこが素通りされているかは明らかだ。きっと可視化されにくいものを炙り出すためには、取材の取捨選択がなされねばならなかったのだと思う――書店を営む姿勢や書店員の生き方に迫るために、大手書店は総じて扱わない。それが本書の大きな主張とも看做せよう。もっとも比較軸として、もう少々大手チェーン書店への取材があってよいとも思えた。なぜなら、被災した書店は当然個人書店だけではなかったはずだから。大手書店側の言い分も、きっと相応のものがあるだろう。あるいは、書店員としての生き方、姿勢についても同様に。もっともこの指摘は本書の大きな成果を根本から損なうものではないのだが。

 いずれにせよ、本書の射程と示唆は広大なもので、書店の単なる風景描写に過ぎないものと判断してはならない。あえて文脈を拡張しよう。出版不況という名の決定論めいたものに抗う複数の主体に焦点をあて、彼らの活動を浮き彫りにすることで見出されるものがある。それは積極的な自由であり、調和であり、生そのものに他ならないとしか言いようがない。書店主達の覚悟を前にして、出版人は自らの主義主張と態度決定を試されているに違いないのだ。

 (書籍マーケッター)