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「三つの革命」とは何か

――ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』、『千のプラトー』、『哲学とは何か』からそれぞれの革命論を取り出す
鼎談:佐藤嘉幸×廣瀬純×江川隆男

 ■佐藤嘉幸・廣瀬純著『三つの革命――ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』が講談社選書メチエより刊行された。これを機に、著者の佐藤・廣瀬両氏と、ゲストに哲学者の江川隆男氏を迎えたトークショーが、さる1月16日、東京・八重洲ブックセンターにて開催された。本稿はその採録である。(須藤巧・本紙編集)

 ■利害に従属しない自由な欲望を

 江川 本書のタイトルは「三つの革命」です。ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』、『千のプラトー』、『哲学とは何か』からそれぞれの革命論を取り出してくる。そこでまず思ったのは、この三つの革命論から何よりも「或る一つの革命」を形成すべきなのではないかということです。本書では、とくに『アンチ・オイディプス』からプロレタリアート革命を一つのモデルあるいは典型として抽出して、そこからさらに『千のプラトー』では、『哲学とは何か』では革命論はどうなっているのかと、革命論の適用の秩序の拡張を感じます。しかし、よく読んでみると、それらは実は一つの平面へと折り畳まれていきます。窮極的には「生成変化」とそのための「分裂分析」に収斂していくんだと思いますが、まずそのあたりからお聞きしたいと思います。

 佐藤 ドゥルーズ=ガタリ論が近年、世界的に非政治化し、バディウやジジェクに依拠して政治的なドゥルーズ=ガタリを貶めることがよしとされる、という傾向に抗して、私たちは二人で『三つの革命』という本を書きました。「一つの革命」でさえ人々は驚くのだから、「三つの革命」であればなおさら人々は驚嘆するか、必死になって私たちを貶めるだろう、というのがこのタイトルの狙いです。私たちは、その程度の「愚かさ」(ドゥルーズ)を積極的に引き受けることにしたのです。『三つの革命』と江川さんの著書『アンチ・モラリア』では、アプローチが違う部分もあるかもしれませんが、本質的には共通した部分があります。つまり「器官なき身体」を基底にしてその上に「欲望の哲学」を展開する、という『アンチ・オイディプス』の戦略から出発している点です。

 『アンチ・オイディプス』、『千のプラトー』、『哲学とは何か』はそれぞれ時代状況に合わせて別々の革命戦術を提示しており、「三つの革命」とはそれら「三つの革命戦術」のことです。それでは、「三つの革命戦術」に共通する「一つの革命戦略」とは何か。まず「利害」の闘争があり、プロレタリアートやマイノリティが自分たちの利害のために闘争を始めます。ところが、彼らは突然、利害闘争という形式は革命には結びつかない、と悟るのです。利害闘争の何が問題なのでしょうか。プロレタリアートが儲かるようになればそれでいいのか、マイノリティがマジョリティになればそれでいいのか、それではまた別のプロレタリアート、マイノリティが別の場所に発生してくるだけではないか、ということが問題なのです。だからこのやり方では結局、革命はうまくいかない。そこから出てくるのが、「革命とは何か」という問いです。革命とは、江川さんの言葉で言えば「人間本性の変形」(『アンチ・モラリア』)であり、私たちの言葉で言えば「新しい欲望のあり方を作り出すこと」あるいは「新たな主観性/主体性の生産」(ガタリ)です。「資本主義バンザイ」、「カネが儲かればいい」という利害に服従した欲望のあり方を放棄し、利害に服従しない自由な欲望によって水平的、横断的社会を構築することが重要なのです。利害にとどまっていることが問題なのは、それでは資本主義の外に出られないからです。これが『アンチ・オイディプス』、『千のプラトー』、『哲学とは何か』に共通した「一つの革命戦略」です。

 『アンチ・オイディプス』の言葉で言うと一番わかりやすいのですが、社会にはあらゆる場所に「服従集団」が形成されています。私たちは生まれたときから「服従集団を形成せよ」と言われ続けている。資本主義に服従しろ、父親に服従しろ、家族に、学校に、会社に服従しろ、と。欲望のあり方を変えることによって、その服従集団を、自由な欲望を中心とした、水平的で横断的な主体集団へと「生成変化」させる。そして、主体が主体として何ものにも服従することがない、水平的、横断的な社会を作り出す。そのためには自由な欲望という原理に忠実であることが必要であり、そうした欲望のあり方を示すのが「分裂分析」です。それが、「三つの革命戦術」に共通する「一つの革命戦略」なのです。

 廣瀬 『アンチ・オイディプス』の終章でドゥルーズ=ガタリは、資本主義はどんな利害の表出にも耐え得るが、反対に、欲望の表出はそれだけで資本主義公理系の歯車を吹き飛ばしてしまうと述べ、だからこそ自分たちは、欲望こそが革命を決定すると論じてきたのだと説明しています。この同じ姿勢は、「欲望」が「大地」と言い換えられ、「欲望」という語自体はもはや用いられない『哲学とは何か』に至るまで貫かれている。『哲学とは何か』の準備期に撮影されたテレビ作品『アベセデール』のなかでドゥルーズは、利害に従属しない欲望について、「地平」というタームで説明しています。左翼であるとは、地平を知覚するということ、そして、自分自身も含めたすべての事物を地平において知覚するということであり、これに対して、左翼ではないとは、自分を起点にするということだと。名前、番地、通り、都市、国といった順で住所を書く西洋人は、その限りでは左翼ではなく、反対に、地球、日本、東京、大田区、糀谷、三丁目、江川隆男といった順で住所を書く日本人は、その限りでは左翼であると言うわけです。ドゥルーズはまた、地平を知覚するとは、とりわけ民主主義や経済的豊かさを享受する「北」の住人にとっては、自分の暮らす地域に関わる問題よりも、搾取され支配されている「南」に関わる問題をいっそう身近に感じることだと説明してもいます。要するに、地平において知覚するとは、糀谷三丁目に米軍基地がないのはそれを琉球に押し付けているからだと直観することなのです。新たな主観性が生産されている。

 利害への欲望の従属を反転させることで「資本主義をその下部から掘り崩す」。そう論じるドゥルーズ=ガタリの三部作において、その「主役」は常に同じ人々です。「革命性への生成変化」(革命的になること)の「主体」は、『アンチ・オイディプス』では「ブルジョワ」、『千のプラトー』では「マジョリティ」、『哲学とは何か』では「人間」と呼ばれていますが、これらはすべて同じ人々、「市民」を指しています。要するに「市民」です。三著作で異なるのは「脇役」です。革命性への生成変化へと主役を導く「媒介」としてその登場が求められるのは、『アンチ・オイディプス』では「プロレタリア」、『千のプラトー』では「マイノリティ」です。プロレタリアやマイノリティといった脇役の開始する運動に巻き込まれることで、主役は生成変化の過程に入る。「人間」を主役とする『哲学とは何か』には、『千のプラトー』で「マイノリティ」と呼ばれていた同じ人々が新たに「動物」として登場しますが、動物の役割はそれまでの脇役のそれとは本質的に異なります。動物は、断末魔にあってただひたすら野垂れ死んでゆく存在、運動を開始する力が尽きてしまっている存在、「媒介」をもはや演じ得ない存在なのです。『哲学とは何か』では、人間は、もがき苦しみながら死んでゆく動物を眼前にして、自ら「人間であることの恥辱」を感じ、いっさいの媒介なしに革命性への生成変化に入らなければならないとされます。

 三著作を通じて主役が変わらないのは、端的に言って、資本主義が存続しているからです。ドゥルーズ=ガタリの思想は、特にここ日本では、頻繁に「ポストモダン」と形容されてきましたが、彼ら自身は自分たちのことをポストモダンだとはけっして思っていなかったでしょう。資本主義が終わっていないのに、いったいどうしたら「近代」が終わったなどと言えるのでしょうか。主役は、あくまでも、資本主義社会あるいは近代社会にあって他者を収奪し支配することで社会民主主義的諸権利を享受している人々に見出されなければなりません。これに対して、著作ごとに脇役が異なるのは、ドゥルーズ=ガタリが「情勢の下で思考すること」を知っていたからです。一九八〇年刊行の『千のプラトー』において、プロレタリアに代わってマイノリティが新たな脇役とされたのは、グローバル資本主義公理系の主たる軸が東西から南北へと転じられつつあった当時の情勢を踏まえてのことにほかなりません。同様にまた、一九九一年刊行の『哲学とは何か』において新たな脇役が「動物」とされたのも、様々なマイノリティの闘争のそのすべてが立脚していた一般的形象としてのプロレタリアが社会主義体制の解体とともに失われるという当時の情勢(「レーニン的切断」の失効)を踏まえてのことです。

 一つの戦略、三つの戦術という我々の本の構えは、したがって、一つの主役、三つの脇役とも言い換えることのできるものです。ドゥルーズ=ガタリ読解には全世界的に既に膨大な蓄積がありますが、それでもなお、我々の仕事が何か大きな貢献をなし得たとすれば、以上のように各書における主役と脇役とをはっきりと同定したという点にあると思います。宣伝めいたことを言っておけば、この点については、本書の内容をパリで発表した際、エリック・アリエズさんやマウリツィオ・ラッツァラートさんもとても高く評価して下さいました。より一般的に言えば、どんな哲学書であっても、それを政治的に分析する場合には、小説のように読み、登場人物を同定しなければならないということです。「いつ」そして「誰が」と問うことが求められるのです。

 江川 右派と左派の話が出ましたが、人間は自由意志によって文字通り自由に右や左へと自己を決定していると考えることそれ自体が、そもそも反動的な右派の発想です。この意味で自由意志を想定している左派は、間違いなく反動的な右派と変わりない。これに対して、どこまでも知覚あるいは感性のなかで決定の問題を捉えていくのがまさに生成する左派である。たとえば、スピノザは、一般的に何かの決定を控えている場合、それを意志による保留とは認めず、それを知覚が保留していると考えます。言い換えると、もっとも恥ずべきことは、人間のうちに自由意志を認めることです。

 また、誰が「主役」かという話ですが、『哲学とは何か』のなかの「概念的人物」は、明らかにある種の「主役」の考え方です。プラトンにとってのソクラテス、カントにとっての裁判官や市民、ハイデガーにとっての現存在、ドゥルーズ=ガタリにおけるマイノリティあるいは遊牧民……。

 廣瀬 人類一般が主役として立てられて論が進められているような本であっても、それが本当に人類一般のことなのかどうか、吟味してみる必要があります。著者も気づかないうちに、あるいは、まさに気づかないからこそ、内在が何事かへの内在になってしまっているということが往々にしてある。我々の本はドゥルーズ=ガタリ論ですが、この点では我々はデリダ主義者です。フッサールにおいて、ハイデガーにおいて、主役として立てられているのは誰なのか、現象学は「誰の」哲学なのかといったことを、脱構築の手法で問う必要があるということです。たとえば、イデアを立てることでアテナイの民主主義を調停しようとするプラトンの議論は、奴隷のことを一切考慮しないがゆえにその試みに失敗してしまう。『哲学とは何か』でも論じられていますが、「人間」を真に養っている者、人間の真の「友」は奴隷を措いてほかにないにもかかわらず、プラトンは、奴隷の存在を埒外におき、人間あるいは市民たちのうちで人間の真の友を決定しようとするために、その最終審級としてイデアを立てる必要に迫られる。すると今度は、「我こそがイデアの真の友である」と主張する人々が次々に名乗り出てきてしまう。民主主義を超出するはずのイデアが民主主義のなかに取り込まれてしまうわけです。ドゥルーズ=ガタリが「プラトン的演劇」と呼ぶこの転倒をプラトンが自分自身で招いてしまうことになるのは、内在をアテナイ市民社会への内在に還元してしまっているからにほかなりません。プラトンは井の中の蛙であり、その井戸を地平において知覚することができていないのです。

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自己と非自己の境界はどこに?

――「自己とは何か」という「人間」にとっても根本的な問いに答えようとする
評者:山田修平

 ■「こころ」や「精神」、あるいは「脳」といった対象は、それについて語ることが「人間」について語ることになる、という奇妙な性質をもっている。それゆえ、それらの対象は、専門家のみならず一般読者をも大いに惹きつけてきた。『妻を帽子と間違えた男』をはじめとする数々のベストセラーで知られる故オリバー・サックスの作風を彷彿とさせる本書もまた、まさに「精神」の病を呈した症例を神経科学の知見をもとに語りながら「自己とは何か」という「人間」にとっても根本的な問いに答えようとするものであり、多くの読者を刺激するに違いない。

 さて、本書の出発点は、自己認識の定義にある。自己を認識するということは自己と非自己の境界を明確にすることであるが、この区別に必要なのは、自分の行動は紛れもなく自分の行動であるという自己主体感であり、さらにその感覚には、自分が宿っている身体は間違いなく自分のものであるという身体所有感覚が欠かせない。つまり自己認識には身体所有感覚が不可欠で、その感覚がどのようにして感じられているのかが、本書がもっとも注目する論点である。

 では、脳と身体のネットワークの中で、身体所有感覚はどのように感じられているのか。ここで提示されるのが脳の予測という考え方である。身体所有感覚が生じるかどうかは、身体の運動の結果を脳が正しく予測できたかどうかによるという。例えば、「腕を動かす」という動作について考えてみよう。腕を動かそうとすると、脳の運動皮質が腕の筋肉に指令を送るとともに、その指令をコピーして脳の別の領域に送る。受け取った領域はそのコピーをもとに腕の運動からくる感覚を予測する。実際に腕が動けばそこに感覚が生じるはずであり、その感覚が予測と一致すれば身体所有感覚が得られる。反対に、一致しない場合には、身体所有感覚は得られず、腕を動かすという行為は自己に帰属しないと判断される。こうして脳は、常に身体からのフィードバックに頼って自己を決定している。

 このプロセスに異常がみられる例としては、自閉症スペクトラム障害を挙げることができる。自閉症者には、感覚処理の障害、人付き合いができないなどの幅広い行動症状がみられる。こうした障害は、自分の身体の動きと身体がうけとる感覚刺激を正確に知覚できないことに原因があるとされる。それゆえ、脳の運動指令のコピーと実際の運動を比較する際に、脳の予測がうまくいかない(過去の行動をもとに将来を予測することができない)ため、刺激を毎回ゼロから受け止めなければならないのである。だからこそ、自閉症者にとって周囲の環境は予測不能なことだらけで驚きに満ちた世界に感じられるのだ。

 以上のように、自閉症スペクトラム障害のメカニズムが判明してもなお、次の疑問が残る。つまり、脳が予測できないことの原因はどこにあるのか、という疑問である。本書では、一貫して脳の器質的な原因が挙げられている。つまり、刺激や感覚を統合する役割を担う島皮質(外側溝の奥の部分)が身体所有感覚に関係しており、そこが損傷または、機能しない状態になると情報の統合がうまくいかず、様々な症状がうまれるというのである。ただし著者は、器質的原因と症状は相関関係にあるに過ぎない、つまりどちらが先なのかを決めることはできないことに注意を促している。

 最終章では、恍惚発作やてんかん発作が取り上げられる。こういった発作を経験した人々によると、発作中には「世界がくっきり鮮やかになる」、「これ以上ないほど完璧な人生が現れる」といった至上の幸福感がやってくるという。この恍惚感は、脳の島皮質(刺激信号を統合する部位)に反応があることが実験によって明らかにされている。つまり、発作中には自己認識が活発化し、自己の境界はより明確になっていく。

 しかしながら一方で、脳の予測としての「自己」を揺るがす証言も報告されている。てんかんを患っていたことで有名なドストエフスキーは発作中に、「自分自身及び宇宙全体と完璧に調和している」と語ったという。これは自己と宇宙全体の一体化と読むことができ、自己の境界の肥大化、そしてその消失を暗示しているとも解釈できる。すると、これは本書が検討してきた脳の予測モデルとは矛盾する、つまり自己認識が明確になればなるほど、自己と非自己の境界が曖昧になっていくということを示唆することになってしまうのである。

 さて、こうして「自己」という概念が徹底的に解体される第1、2章、ついで主に神経科学の実験を根拠に新しい「自己」の概念が浮かび上がる第3~7章までの本書の議論は、最終章に至ると、再び批判的な検討を余儀なくされる。そして、著者も読者も「自己とは何か」という冒頭の問いを、「人間」にとっても根本的な、そしておそらくは答えることが不可能でもある問いとして反復することになるのである。

(精神分析)

「絶景」な居酒屋

――軽い気持ちで読んでみてほしい、けど、案外深いよ、この世界
評者:上村寿幸

 ■「居酒屋本」というべきか、このテの本にはなるべく目を通すようにしている。ものすごいざっくり分けてみると、このテの本には二種類あって、一つはお店の紹介に特化したもの、もう一つはもうちょっと広い(あるいは狭い)目線の、居酒屋(とその周辺)を扱ったエッセイと呼んでもいいもの、である。いきなり、そのカテゴリーをぶち破るが、本書はその二方向を非常にうまく架橋、総合、止揚している、ありそうでなかった一冊なのだ。キーワードは、「おじさん」だ。「おじさん」と「酒場」。何の変哲もない、不思議な組み合わせでもない、もっとはっきり言えば、面白くも何ともない組み合わせである――「酒場」に通う私のような「おじさん」にとっては。著者の山田真由美氏と、なかむらるみ画伯(このイラストが秀逸! 例えば、章としては触れられていない東京・十条の斎藤酒場の、さりげない見開きのイラストなど)は、女性である。居酒屋やバーで女性が一人ないし複数で飲んでいる光景は完全に「日常」と化し、むしろおじさんが後景に退いた感さえあるが、しかしまだまだ「おじさん」と「酒場」にはダークサイドというか、第三者、特に女性から見るとよくわからない面があるとは思う。「そんなこと、わかったところで何にもならないよ」と、おじさんたる私は思ってしまうが、本書を通読してわかった。全然、そうじゃないんだ。わかっていなかったのは、こちらだったのだ。「酒場」に通う「おじさん」たる私は、しみじみと、「ああ、いいなあ、酒場は」と、まるで小津安二郎の映画の登場人物のように、本書を片手に微笑、嘆息してしまった。

 いきなり「抱擁するおじさん」という、斜め上を行くタイトルの章から始まる本書は、例えば今年、閉店が決まっている(残念至極!)渋谷・富士屋本店などの具体的な居酒屋に著者が実際に足を運び、肝臓や胃を酷使(?)して、そこに集い憩うおじさんたちにフォーカスする。「こんなおじさん、本当にいるのかな?」と思うこともあるくらい、実に味わい深いおじさんたちが次から次へと登場する。著者の審美眼(おじさん眼?)の鋭さに畏れ入る。そして思うのだ、「こんなに豊かな場所だったのか、居酒屋は!」

 自宅にある鳴らない電話を処分しないおじさんの人生に思いを馳せたり、居酒屋における「絶景」を考察したりする。どんなに深刻な悩みがあっても、人は独りで居酒屋にいるとき、「ただボーっとしている人」になることができる。これは大きい。

 「夜更けに米を炊いた」の一文から始まる「海苔弁おじさん」の章はまるで小説であるが、「事実は小説より奇なり」なのだ。本書は「人生劇場」でもある。

 本書オビに「人生の大事なことは、お酒とおじさんが教えてくれる」とあって、お酒はいいとして、「幼稚園の砂場じゃないんだから」と思って読み進んだが、確かに、おじさんに教えられることが多々あった。何ということだ、私がいままで湯水のように時間(とおカネ)を浪費してきた居酒屋が、こんなにも自分の知らない世界であったとは! 軽い気持ちで読んでみてほしい、けど、案外深いよ、この世界。巻末の「おじさん酒場名店案内100」も秀逸。

 (ライター)