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「三つの革命」とは何か

――ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』、『千のプラトー』、『哲学とは何か』からそれぞれの革命論を取り出す
鼎談:佐藤嘉幸×廣瀬純×江川隆男

 ■佐藤嘉幸・廣瀬純著『三つの革命――ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』が講談社選書メチエより刊行された。これを機に、著者の佐藤・廣瀬両氏と、ゲストに哲学者の江川隆男氏を迎えたトークショーが、さる1月16日、東京・八重洲ブックセンターにて開催された。本稿はその採録である。(須藤巧・本紙編集)

 ■利害に従属しない自由な欲望を

 江川 本書のタイトルは「三つの革命」です。ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』、『千のプラトー』、『哲学とは何か』からそれぞれの革命論を取り出してくる。そこでまず思ったのは、この三つの革命論から何よりも「或る一つの革命」を形成すべきなのではないかということです。本書では、とくに『アンチ・オイディプス』からプロレタリアート革命を一つのモデルあるいは典型として抽出して、そこからさらに『千のプラトー』では、『哲学とは何か』では革命論はどうなっているのかと、革命論の適用の秩序の拡張を感じます。しかし、よく読んでみると、それらは実は一つの平面へと折り畳まれていきます。窮極的には「生成変化」とそのための「分裂分析」に収斂していくんだと思いますが、まずそのあたりからお聞きしたいと思います。

 佐藤 ドゥルーズ=ガタリ論が近年、世界的に非政治化し、バディウやジジェクに依拠して政治的なドゥルーズ=ガタリを貶めることがよしとされる、という傾向に抗して、私たちは二人で『三つの革命』という本を書きました。「一つの革命」でさえ人々は驚くのだから、「三つの革命」であればなおさら人々は驚嘆するか、必死になって私たちを貶めるだろう、というのがこのタイトルの狙いです。私たちは、その程度の「愚かさ」(ドゥルーズ)を積極的に引き受けることにしたのです。『三つの革命』と江川さんの著書『アンチ・モラリア』では、アプローチが違う部分もあるかもしれませんが、本質的には共通した部分があります。つまり「器官なき身体」を基底にしてその上に「欲望の哲学」を展開する、という『アンチ・オイディプス』の戦略から出発している点です。

 『アンチ・オイディプス』、『千のプラトー』、『哲学とは何か』はそれぞれ時代状況に合わせて別々の革命戦術を提示しており、「三つの革命」とはそれら「三つの革命戦術」のことです。それでは、「三つの革命戦術」に共通する「一つの革命戦略」とは何か。まず「利害」の闘争があり、プロレタリアートやマイノリティが自分たちの利害のために闘争を始めます。ところが、彼らは突然、利害闘争という形式は革命には結びつかない、と悟るのです。利害闘争の何が問題なのでしょうか。プロレタリアートが儲かるようになればそれでいいのか、マイノリティがマジョリティになればそれでいいのか、それではまた別のプロレタリアート、マイノリティが別の場所に発生してくるだけではないか、ということが問題なのです。だからこのやり方では結局、革命はうまくいかない。そこから出てくるのが、「革命とは何か」という問いです。革命とは、江川さんの言葉で言えば「人間本性の変形」(『アンチ・モラリア』)であり、私たちの言葉で言えば「新しい欲望のあり方を作り出すこと」あるいは「新たな主観性/主体性の生産」(ガタリ)です。「資本主義バンザイ」、「カネが儲かればいい」という利害に服従した欲望のあり方を放棄し、利害に服従しない自由な欲望によって水平的、横断的社会を構築することが重要なのです。利害にとどまっていることが問題なのは、それでは資本主義の外に出られないからです。これが『アンチ・オイディプス』、『千のプラトー』、『哲学とは何か』に共通した「一つの革命戦略」です。

 『アンチ・オイディプス』の言葉で言うと一番わかりやすいのですが、社会にはあらゆる場所に「服従集団」が形成されています。私たちは生まれたときから「服従集団を形成せよ」と言われ続けている。資本主義に服従しろ、父親に服従しろ、家族に、学校に、会社に服従しろ、と。欲望のあり方を変えることによって、その服従集団を、自由な欲望を中心とした、水平的で横断的な主体集団へと「生成変化」させる。そして、主体が主体として何ものにも服従することがない、水平的、横断的な社会を作り出す。そのためには自由な欲望という原理に忠実であることが必要であり、そうした欲望のあり方を示すのが「分裂分析」です。それが、「三つの革命戦術」に共通する「一つの革命戦略」なのです。

 廣瀬 『アンチ・オイディプス』の終章でドゥルーズ=ガタリは、資本主義はどんな利害の表出にも耐え得るが、反対に、欲望の表出はそれだけで資本主義公理系の歯車を吹き飛ばしてしまうと述べ、だからこそ自分たちは、欲望こそが革命を決定すると論じてきたのだと説明しています。この同じ姿勢は、「欲望」が「大地」と言い換えられ、「欲望」という語自体はもはや用いられない『哲学とは何か』に至るまで貫かれている。『哲学とは何か』の準備期に撮影されたテレビ作品『アベセデール』のなかでドゥルーズは、利害に従属しない欲望について、「地平」というタームで説明しています。左翼であるとは、地平を知覚するということ、そして、自分自身も含めたすべての事物を地平において知覚するということであり、これに対して、左翼ではないとは、自分を起点にするということだと。名前、番地、通り、都市、国といった順で住所を書く西洋人は、その限りでは左翼ではなく、反対に、地球、日本、東京、大田区、糀谷、三丁目、江川隆男といった順で住所を書く日本人は、その限りでは左翼であると言うわけです。ドゥルーズはまた、地平を知覚するとは、とりわけ民主主義や経済的豊かさを享受する「北」の住人にとっては、自分の暮らす地域に関わる問題よりも、搾取され支配されている「南」に関わる問題をいっそう身近に感じることだと説明してもいます。要するに、地平において知覚するとは、糀谷三丁目に米軍基地がないのはそれを琉球に押し付けているからだと直観することなのです。新たな主観性が生産されている。

 利害への欲望の従属を反転させることで「資本主義をその下部から掘り崩す」。そう論じるドゥルーズ=ガタリの三部作において、その「主役」は常に同じ人々です。「革命性への生成変化」(革命的になること)の「主体」は、『アンチ・オイディプス』では「ブルジョワ」、『千のプラトー』では「マジョリティ」、『哲学とは何か』では「人間」と呼ばれていますが、これらはすべて同じ人々、「市民」を指しています。要するに「市民」です。三著作で異なるのは「脇役」です。革命性への生成変化へと主役を導く「媒介」としてその登場が求められるのは、『アンチ・オイディプス』では「プロレタリア」、『千のプラトー』では「マイノリティ」です。プロレタリアやマイノリティといった脇役の開始する運動に巻き込まれることで、主役は生成変化の過程に入る。「人間」を主役とする『哲学とは何か』には、『千のプラトー』で「マイノリティ」と呼ばれていた同じ人々が新たに「動物」として登場しますが、動物の役割はそれまでの脇役のそれとは本質的に異なります。動物は、断末魔にあってただひたすら野垂れ死んでゆく存在、運動を開始する力が尽きてしまっている存在、「媒介」をもはや演じ得ない存在なのです。『哲学とは何か』では、人間は、もがき苦しみながら死んでゆく動物を眼前にして、自ら「人間であることの恥辱」を感じ、いっさいの媒介なしに革命性への生成変化に入らなければならないとされます。

 三著作を通じて主役が変わらないのは、端的に言って、資本主義が存続しているからです。ドゥルーズ=ガタリの思想は、特にここ日本では、頻繁に「ポストモダン」と形容されてきましたが、彼ら自身は自分たちのことをポストモダンだとはけっして思っていなかったでしょう。資本主義が終わっていないのに、いったいどうしたら「近代」が終わったなどと言えるのでしょうか。主役は、あくまでも、資本主義社会あるいは近代社会にあって他者を収奪し支配することで社会民主主義的諸権利を享受している人々に見出されなければなりません。これに対して、著作ごとに脇役が異なるのは、ドゥルーズ=ガタリが「情勢の下で思考すること」を知っていたからです。一九八〇年刊行の『千のプラトー』において、プロレタリアに代わってマイノリティが新たな脇役とされたのは、グローバル資本主義公理系の主たる軸が東西から南北へと転じられつつあった当時の情勢を踏まえてのことにほかなりません。同様にまた、一九九一年刊行の『哲学とは何か』において新たな脇役が「動物」とされたのも、様々なマイノリティの闘争のそのすべてが立脚していた一般的形象としてのプロレタリアが社会主義体制の解体とともに失われるという当時の情勢(「レーニン的切断」の失効)を踏まえてのことです。

 一つの戦略、三つの戦術という我々の本の構えは、したがって、一つの主役、三つの脇役とも言い換えることのできるものです。ドゥルーズ=ガタリ読解には全世界的に既に膨大な蓄積がありますが、それでもなお、我々の仕事が何か大きな貢献をなし得たとすれば、以上のように各書における主役と脇役とをはっきりと同定したという点にあると思います。宣伝めいたことを言っておけば、この点については、本書の内容をパリで発表した際、エリック・アリエズさんやマウリツィオ・ラッツァラートさんもとても高く評価して下さいました。より一般的に言えば、どんな哲学書であっても、それを政治的に分析する場合には、小説のように読み、登場人物を同定しなければならないということです。「いつ」そして「誰が」と問うことが求められるのです。

 江川 右派と左派の話が出ましたが、人間は自由意志によって文字通り自由に右や左へと自己を決定していると考えることそれ自体が、そもそも反動的な右派の発想です。この意味で自由意志を想定している左派は、間違いなく反動的な右派と変わりない。これに対して、どこまでも知覚あるいは感性のなかで決定の問題を捉えていくのがまさに生成する左派である。たとえば、スピノザは、一般的に何かの決定を控えている場合、それを意志による保留とは認めず、それを知覚が保留していると考えます。言い換えると、もっとも恥ずべきことは、人間のうちに自由意志を認めることです。

 また、誰が「主役」かという話ですが、『哲学とは何か』のなかの「概念的人物」は、明らかにある種の「主役」の考え方です。プラトンにとってのソクラテス、カントにとっての裁判官や市民、ハイデガーにとっての現存在、ドゥルーズ=ガタリにおけるマイノリティあるいは遊牧民……。

 廣瀬 人類一般が主役として立てられて論が進められているような本であっても、それが本当に人類一般のことなのかどうか、吟味してみる必要があります。著者も気づかないうちに、あるいは、まさに気づかないからこそ、内在が何事かへの内在になってしまっているということが往々にしてある。我々の本はドゥルーズ=ガタリ論ですが、この点では我々はデリダ主義者です。フッサールにおいて、ハイデガーにおいて、主役として立てられているのは誰なのか、現象学は「誰の」哲学なのかといったことを、脱構築の手法で問う必要があるということです。たとえば、イデアを立てることでアテナイの民主主義を調停しようとするプラトンの議論は、奴隷のことを一切考慮しないがゆえにその試みに失敗してしまう。『哲学とは何か』でも論じられていますが、「人間」を真に養っている者、人間の真の「友」は奴隷を措いてほかにないにもかかわらず、プラトンは、奴隷の存在を埒外におき、人間あるいは市民たちのうちで人間の真の友を決定しようとするために、その最終審級としてイデアを立てる必要に迫られる。すると今度は、「我こそがイデアの真の友である」と主張する人々が次々に名乗り出てきてしまう。民主主義を超出するはずのイデアが民主主義のなかに取り込まれてしまうわけです。ドゥルーズ=ガタリが「プラトン的演劇」と呼ぶこの転倒をプラトンが自分自身で招いてしまうことになるのは、内在をアテナイ市民社会への内在に還元してしまっているからにほかなりません。プラトンは井の中の蛙であり、その井戸を地平において知覚することができていないのです。

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 ■マイノリティは「数えられない」

 江川 本人たちは人間一般を語っていると思っているけれども、語れていないし、そもそも「人間一般」など存在しないということですよね。それどころか、そうした概念的人物は、むしろマジョリティへの意志を有したものの単なる代理ではないのか。主役と脇役に関する廣瀬さんの論、大変に興味深く、まさにそれでいいんだと思います。一般的には主役は、常に同一性の主体を前提としてしまいます。しかし、そんな主役なんていないわけです。アルトーがドゥルーズにとっての概念的人物であるとすれば、それは、単なる歴史的条件のなかの実際の人物ではなく、その言表作用のなかで把握された生成としての非人称的要素のことでしょう。マイノリティは生成変化の集合体であり、差異を肯定する言表を生み出す総体のことではないでしょうか。マイノリティは「数えられない」という言い方をドゥルーズ=ガタリはしている。佐藤さんと廣瀬さんもそう強調しています。本書でも、「万人によるマイノリティ性への生成変化」(209頁)という言葉が出てきます。「万人がマイノリティ的になること、万人が分子状過程の上に自らを再領土化すること、万人が無限創造の中で互いに接続し合い、一つの大いなる主体集団を形成すること」とあります。佐藤さんが最初に言った、「いかなる服従もない」ということは、互いの差異を肯定するという以外にその様相はありえない、と私は考えます(もちろん、それは、差異を否定するものに対する闘争を含みます)。それがまさに〈マイノリティ性〉ですね。この「万人」は、「人間一般」ではまったくない。というか、たとえマジョリティであっても、そこには必ず或るマイノリティ性があります。マイノリティから一切分離されたマジョリティなど絶対に存在しえないからです。こうした論点から主体集団の知覚をさらに考えたいと思います。主体集団の内部の知覚や思考が、それこそ分子状に論究されていたらもっと面白いものになったのではないでしょうか。

 本書の敵を〈資本主義公理系‐マジョリティ‐人間〉という巨大な三角回路として規定することかできる。このように考えると、これに対する唯一の戦略は、最小の或る三角回路を戦争機械論として形成することだと言えます。そこから、その破格の方法論なり、脱化の力能なり、非人称の主役なりがまさに生成するのではないでしょうか。〈マジョリティ/マイノリティ〉は、あまりに弁証法的な利害対立に依拠した考え方です。主体集団は、まさにこうした思考様式をやめなければいけない。人間は、きわめて厄介な動物です。つまり人間は、必ずより多くマイノリティであるときには、必ずより少なくマジョリティであるという〈度合の生成〉の動物である。こうした度合の生成こそが、先の「万人」の基底に存するように思われます。

 一方で万人のなかのマイノリティの動きに接続するもの――副言の非論理――があり、他方で人間がほぼマジョリティに接続するもの――矛盾=対言の論理――に覆われてしまうこともたしかです。それらは、実際には人々の身体そのもののうちに〈実在性‐力〉として完全に流れ込んでいます。身体とその欲望は、その限りで必然的に「利害」へと包摂されてしまっている。しかし、これと同じ意味において身体を有する限り人間は、必然的にマイノリティでしかありえない。ということは、マジョリティの思考は、いつも身体を無視した主知主義や主意主義に陥ることになります。廣瀬さんも言っていましたが、プラトンには奴隷の身体性あるいは身体の奴隷性がまったくないですね。ただ精神性が強く出てくるだけです。これに反してマイノリティになればなるほど、今度は身体の問題が重要になります。この意味でマジョリティの精神にとって、マイノリティとしての身体はまさに和解不可能な〈外の存在〉でしょう。どんな場合であっても、在るのは、ただ「何をしているのか」(身体)と「何を言っているのか」(言表作用)だけです――一方の身体の機械状動的編成と他方の言表作用の集団的動的編成。これらを横軸にとると、縦軸には「脱領土化」と「領土化」が現われます。こうした一つの「地図」のなかに「三つの革命」を位置づけることができると思います(※右下図)。

 ところで、「社会的服従化」と「機械状隷属化」という考え方があり、本書にも出てきます(168頁)。それらは、まさに従属の二つの類型です。機械状隷属化とは、「人間自らが、上位の統一性による制御と指揮の下で、人間同士で、あるいは他のもの(動物や道具)と共に合成する機械の構成部品になっている場合に現れる」。それに対して社会的服従化とは、「上位の統一性が、動物であろうと道具であろうと機械であろうと、外部のものとなった対象に関わる主体として人間を構成する場合に現れる」。これは、実は人間が自然に内在する際の必然的な従属形態の二類型に由来しています。ここで詳しく述べることはできませんが、一点だけ、先の図で言えば、右側の言表作用の領土化に関してより多く社会的服従化が現われますが、これに対して左側の諸身体の組み合わせの領土化に関してより強く機械状隷属化が推進されると言えます。いずれにしても、本書では、『アンチ・オイディプス』ではとりわけ社会的服従化が、『千のプラトー』では機械状隷属化が考えられていたと言われます。これについて、次のように書かれています。「『アンチ・オイディプス』は社会的服従化が主たる権力形態をなす時代の書であり、『千のプラトー』は、パラダイムをなす権力形態が社会的服従化から機械状隷属化へと移行しつつあった時代の書である。権力形態のこの変化に応じて、ドゥルーズ=ガタリは革命のための戦術(タクティクス)も変更する」(177―178頁)。ここに私は、違和感があります。はたして変更したのかどうか。あるいはこれらの著作は、社会の権力形態の変化に応じて、あたかもそれを単に後追いするかのように対応していくだけの書物なのかどうかという点です。

 佐藤 二点述べたいと思います。第一に、主体集団の知覚についてです。主体集団とは、自らが服従する上位の審級を絶対に認めない、水平的で横断的な集団です。ですから、彼らの知覚構造は徹底して内在的であり、それを上位から支配するいかなる超越的、超越論的審級もありません。主体集団を形成する諸主体は、徹底的に内在的な知覚を通じて、相互に水平的、横断的、リゾーム的に接続されています。だからこそ、その内在的な知覚は、自分の属している国民や民族といった「ここ」を超えて、ダイレクトに第三世界の問題へと繋がっていくのです(ゴダール流に言えば、それこそ「こことよそ」がダイレクトに繋がるということであり、そのような認識は一九七〇年代から既にドゥルーズ=ガタリとゴダールに共有されていました)。それに対して、服従集団は常に資本主義、国家、国民、民族などの超越的審級に服従することで集団を形成している。だから、彼らの知覚構造には超越的審級を知覚内部で代理する超越論的審級があり、それを通じて彼らは自らを資本主義、国家、国民、民族へと服従化させている。ドゥルーズ=ガタリが重視したのは、こうした知覚構造内部の超越論的構造を解体し、純粋な内在的、横断的知覚を作り出すことです。

 第二に、ドゥルーズ=ガタリは社会の変化に応じて、「後追い」で革命戦術を変更したのか、という点です。私たちの本では、服従集団から主体集団への「生成変化」、利害から欲望への移行、という唯一の革命戦略は一切変化していないと考えていますが、革命戦術は時代に応じて「後追い」で変化していると考えています。それが「情勢の下で思考すること」(アルチュセール)の意味なのです。第一に、『アンチ・オイディプス』では「概念的人物」あるいは革命戦術の「脇役」はプロレタリアート、労働者であるとされていました。これは、六八年五月が「労働者と学生」の革命であったという意味で、「レーニン的切断」というロシア革命のモデルがまだリアリティを持っていたことを示しています。『アンチ・オイディプス』は一九七二年に出版されますが、七〇年代が進むにつれて支配は厳しさと同時に柔軟さを増し、プロレタリアートを中心とした従来の革命戦術は袋小路に入っていく。一九八〇年に『千のプラトー』が出版されますが、そこでの概念的人物あるいは革命戦術の「脇役」は、マイノリティに変更されている。それは、一九六八年を契機として出現した「新たな社会運動」の担い手であるマイノリティが、一九七〇年代を通じて最も政治的可能性を持ったアクターだったからであり、また同時代に、オイディプスを通じた「社会的服従化」が情報技術を通じた「機械状隷属化」によって補完され、より洗練された統治技術が形成されつつあったからです(ただし、インターネットを含むその後の情報技術の加速度的な発達によって、今日では「機械状隷属化」はさらに強化されており、その意味で『千のプラトー』の記述は現代を「先取り」している部分もあります)。そして、ベルリンの壁と社会主義国家の崩壊後の一九九二年に出版された『哲学とは何か』では、概念的人物は既にプロレタリアートでもマイノリティでもなく、社会民主主義によるマイノリティの弾圧を眼前にして恥辱を感じるマジョリティに変更され、同時代のどこにいるのかもわからない「来たるべき人民」に革命のプログラムという投瓶通信を送り続けるしかない、という戦術にまで達しています(この変化が、地域紛争とNGOの時代に対応していると同時に、社会主義国家による民主化運動の弾圧、フランスのミッテラン社会党政権下における移民などマイノリティ統制強化への左翼の絶望に対応していることは明白です)。それらはやはり、時代の変化を意識して立てられた戦術なのではないかと思います。

 江川さんの哲学は基本的に存在論的で、世界の原理のような普遍的なものを探究されているのだと感じました。それに対して私たちは、存在論を一つの革命戦略として描き出すと同時に、社会の変化に伴って革命戦術――あるいは、それが袋小路に追い詰められていくのであれば抵抗戦術――を柔軟にアップデートする必要がある、と考えました。

 廣瀬 資本主義が存在しなければ、ドゥルーズ=ガタリの著作もありませんでした。この意味でも、彼らの議論は後追いにほかなりません。彼らの仕事は隅々まで歴史的に規定されたものであり、そうした規定を積極的に引き受けたものです。彼らにおいて六八年が「いつ」論じられたのか。六八年は、まさにその時代に準備された『アンチ・オイディプス』ではそれとしては話題にもされず、一九八四年発表のテクスト「六八年五月は起きなかった」で初めて論じられることになります。このテクストで彼らは六八年を「純粋な出来事」だったとしている。「出来事」とは、ドゥルーズ=ガタリにとって、利害に従属しない欲望の現出(新たな主観性の生産)のことですが、フランス革命やロシア革命では、利害が「原因」となって生起した闘争(階級闘争)のただなかにそうした欲望の現出が胚胎していたとされる。これに対して、六八年が「純粋な」出来事だったと言われるのは、六八年においては、利害と無関係に、したがって、一切の原因なしに、いきなり、利害に従属しない欲望が現出することになったからであり、搾取されても支配されてもいない人々、社会民主主義的諸権利(人権)を享受する人々、「北」の市民社会が、外部の闘争を媒介とすることすらなしに、革命的な欲望的生産に直に入ることになったからです。不在の原因に代わって市民社会それ自身が「準原因」となって生起した出来事だったと言ってもよいでしょう。ドゥルーズ=ガタリは実際、六八年は「一つの社会が突然、おのれのうちに耐え難いものを見出し、新たな可能性を見出したかのような現象だった」と論じています。問題は、しかし、彼らがなぜそうした純粋な出来事を八〇年代半ばになって初めて論じることになったのかという点にあります。それ以前までの情勢について、彼らが、搾取され支配されている人々に闘争の開始を期待できると判断していたからにほかなりません。『アンチ・オイディプス』執筆時はプロレタリアに、『千のプラトー』執筆時はマイノリティに期待し得る歴史状況にあった。しかし、所謂「グローバル市場」(八〇年代後半にガタリが「統合された世界資本主義」と呼ぶことになるもの)の形成が進んでいた八〇年代半ばにあって、彼らは情勢判断の変更を迫られ、それに応じて新たな革命戦術を提案せざるを得なくなったのです。「北」の住人が、「南」の人々の闘争を媒介とすることなしに突如として地平を知覚し、また、地平において自らを知覚する。NGO時代を睨んだ戦術であり、『哲学とは何か』でも継続されることになるものです。

 『哲学とは何か』で示される情勢判断は、実際、たいへん厳しいものです。「貧民がその領土あるいはゲットーから外に出てこようとするときに、一体どの社会民主主義が発砲命令を下さなかったか」と彼らは書いている。このような論調は『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』にはなかったものです。発砲命令の有無にかかわらず、プロレタリアやマイノリティは搾取と支配とからの解放を求めて必然的に闘争を開始すると考えられていたからです。これに対して『哲学とは何か』では、そうした闘争の一切が不可能になってしまったとされている。搾取され支配された大衆はゲットーのなかで野垂れ死ぬか、さもなければ、ゲットーから出てこようとした途端に皆殺しにされるだけだとされているのです。

 後追いか先取りかという問題に関して言えば、いわば「哲学的自動機械」の営みとして展開されたドゥルーズの単著には、結果的に時代の先取りとなっているものがあるように思えます。『哲学とは何か』には、一九六九年刊行の『意味の論理学』の一部がほぼそのまま再利用されている箇所があります。『意味の論理学』の出来事論は、その一冊前の『スピノザと表現の問題』(一九六八年)で展開された共通観念論の延長をなすものです。共通観念論は、悲しみをもたらす「悪い出会い」を、喜びをもたらす「よい出会い」にそっくりそのまま転じる力能について論じるものですが、『スピノザと表現の問題』では、よい出会いの積み重ねのなかでそうした力能が形成されると論じられていました。これに対して『意味の論理学』では、よい出会いはもはや一切前提とはされません。『意味の論理学』は実際、強姦や共喰い、戦争、傷など、悪い出会いに満ちており、よい出会いの到来は一つも描かれません。悪い出会いしか到来しない世界において、それでもなお、そうした悪い出会いのすべてをよい出会いに転じるにはどうしたらよいか、そのための力能はいかにして獲得し得るのか。これを問うのが『意味の論理学』の出来事論なのです。たいへん悲観的な世界認識に基づいたこの同じ出来事論が『哲学とは何か』で再び召喚されている。野垂れ死につつある動物を眼前にして、人間であることの恥辱を感じ、これに押されて人間が動物性への生成変化に入るという『哲学とは何か』での議論は、ニーチェによるストア派解釈に立脚した『意味の論理学』の出来事論の再論なのです。

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 ■「人間であることの恥辱」とは何か

 江川 たとえば、スピノザは、すべてのものの存在の仕方を肯定する哲学です。それは、言い換えると、いかなる悲しみでも喜びに反転できるという考え方に端的に現われています。私は、これを批判的に捉えて、『死の哲学』という本を書きました――喜びにけっして反転しないような絶対的悲しみがあり、それはいったいどのように表現されるべきなのか、と。この発想は、たしかにスピノザにはありません。さて、廣瀬さんが悪い出来事の話をしましたが、人間は、基本的に痛みや苦悩、欠如や否定のもとではじめてその事柄を意識し始めるような、本質的に反動的ニヒリズムの様態だということです。一点だけ述べておくと、『意味の論理学』は、そうした意味で苦痛を出来事の認識根拠とした発生論であり、その限りで有機的な超越論以外の何ものでもないでしょう。

 主役という考え方が問題提起されましたが、私は或る特定の固定したモル的な人物を主役に据えて考えることはありません。そうではなく、例えば、人間の「欲望」や「感情」を常に中心にして考えたりはします。というのも、感情それ自体――被情動態――は特定の誰かではないからです。それは、それに触発される者をはみ出した対象性を有しているからです(ここから、或る人物や主体に還元されうるような感情とはいったい何かという問いが生まれる〔情緒、情感、気持ち、等々〕)。

 そこで、「恥辱」に関してですが、スピノザは、「それは、他者から非難されると我々の表象する我々のある行為の観念を伴った悲しみである」と定義しています。要するに、それは、悲しみの派生感情です。スピノザのこの「他者」は、人間だけを想定していますが、動物とか他の自然物とか、非人間的なものからの非難も含まれるという想像力もここでは必要でしょう。しかし、常にその反対感情を考える必要があります。恥辱の場合、それは「名誉」です。「それは、他者から賞賛されると我々の表象する我々のある行為の観念を伴った喜びである」。名誉と恥辱とがうまく機能して、マジョリティの内的世界をつくっていく。しかし、本書『三つの革命』で論じられている「恥辱」は、名誉との間に反転の関係、相関関係が成立するものであってはならないはずです。そもそもその際の「他者」が人間以外のものも含めて生起するような悲しみの感情、それが「人間であることの恥辱」である――〈名誉なき恥辱〉。それは、機械状隷属についての意識をともなっています。『千のプラトー』の「捕獲装置」の最後のところでもやはり機械状隷属についての言及があります。この恥辱という悲しみの感情は、相対的なものではなく、実は或る絶対性を含んだものではなければならないでしょう。そして、この意識をともなった欲望は、どのように作動するのか。欲望は、もっとも本質的な感情です。革命は、欲望の革命でしかありえない。そうであれば、それは、人間の本性をいかにして変形するのかという唯一の動物への生成変化が問題化されているのではないでしょか。

 廣瀬 『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』では「恥辱」という表現は一度も使われていません。プロレタリアが、資本主義社会で唯一の「階級」をなすブルジョワジーから割って出て新たな階級を構成した後に、さらに、階級外への生成変化の上へとおのれを再領土化してみせるとき、そこで問題になっていたのは恥辱、すなわち、利害

 (階級利害)に欲望を従属させることについての恥辱のはずですが、ドゥルーズ=ガタリは「恥辱」という語ではこれを説明していません。同様に『千のプラトー』においても、たとえば女性運動について彼らは、「私たち女性は……」と言うことからしか始まらないが、言表行為エイジェント(分子状の「私たち」)を一つの言表主体(モル状の「女性」)にそのように従属させることに孕まれる問題の女性たち自身による解決が、女性たちを女性性への生成変化の上へと再領土化させると論じており、ここでもまた、恥辱が問われているはずですが、彼らは「恥辱」という語をけっして用いません。ドゥルーズ=ガタリは、搾取され支配されている人々については「恥辱」をその語によって語ることを避け、この語を人間、マジョリティ、ブルジョワ、市民だけに確保していたのだと言えるかもしれません(ドゥルーズ=ガタリ流ポリティカル・コレクトネス)。

 先に琉球への在日米軍基地の集中について触れました。自分の住んでいる大田区に米軍基地が建設されるのは絶対にいやだと江川さんが感じているとしても、それは当たり前のことで、それ自体には何の問題もありません。原発についても同様です。誰もが自分の住んでいる地域に建設されるのはごめんだと思っており、そのことには何の問題もありません。江川さんのNIMBY(Not In My BackYard)の声は聞き届けられている、尊重されています。これが民主主義であり、市民社会です。しかし、民主主義はその成立のために必ず外部を必要としている。民主主義的手段で解決できないアポリアを押し付けることのできる先としての外部を必要としているのです。在日米軍基地の場合であれば琉球であり、原発の場合であれば福島を初めとした地方です。恥辱が問題になるのはここにおいてのことです。地平を知覚し、地平において(おのれを)知覚するとき、江川さんは、自分が市民であるのは外部に奴隷を作り出しているからだと直観し、市民であることの恥辱を感じるのであり、この恥辱に押されて奴隷性への生成変化に入るのです。本書でも取り上げましたが、市民による奴隷性へのこの生成変化こそ、高橋哲哉さんが在琉米軍基地の本土引き取り論あるいは東電原発の首都圏引き取り論を展開するときに期待されていることです。高橋さんは、我々がここで「恥辱」と呼んでいるものを、彼の着想源であるデリダに倣って「応答責任」と呼ばれるに違いありませんが、実のところ、『哲学とは何か』ではドゥルーズ=ガタリ自身、「恥辱」を「応答責任」と言い換えてもいます。フッサールを最大の敵に位置付け、アドルノとともに闘おうとする『哲学とは何か』は実際、ドゥルーズ=ガタリがデリダに最も接近した著作です。

 高橋さんの引き取り論、あるいは、その元になっている靖国についての「犠牲のシステム」論は、『哲学とは何か』で展開される「政治哲学」を理解するのに大いに役立つものです。『哲学とは何か』執筆期にネグリによって行われたインタヴューでドゥルーズは「恥辱は哲学の最大の動機の一つであり、恥辱を動機として哲学が開始されるとき、それは必然的に政治哲学になる」と語っていました。しかし、『三つの革命』で我々は、高橋さんの米軍基地本土引き取り論、原発首都圏引き取り論を批判してもいます。端的に言えば、高橋さんは「情勢の下で思考し」ていない。恥辱の感覚を準原因としたマジョリティによる革命性への生成変化は、原因とそれに導かれた闘争とが不在の場合に限られた戦術です。しかし、実際には、琉球には復国まで視野に収めた闘争があり、琉球人は日本人に米軍基地を返そうとしている。同様に、福島の人々も原発を首都圏に返そうと闘っている。彼らは、ただ野垂れ死ぬだけの動物、高橋さんの表現を借りれば「もの」などではなく、発砲命令の有無にかかわらず闘うことを知る「土人」、「インディアン」なのです。しかも、彼らは既にマイノリティ性への生成変化を生きてもいる。琉球人たちが言っているのは「我々は米軍基地を日本人に返すが、いかなる新たな“沖縄”の創出も許さない」ということであり、福島住民が言っているのも「我々は東電原発を首都圏に返すが、いかなる新たな“福島”の創出も許さない」ということです。現実に進みつつあるプロセスは、断末魔にある動物を眼前にして人間が恥辱や応答責任を感じ、米軍基地や原発を「引き取る」というものではなく、マイノリティの開始するマイノリティ性への生成変化のそのただなかにマジョリティが巻き込まれるというものなのです。政治哲学(長原豊さんならここに「デリダ」とルビを振るでしょう)が必要な局面も必ずあると思います。おそらく靖国はそうした局面だったのでしょう。しかし、我々は常に政治哲学を必要としているわけではないのです。この意味で、我々の本の副題「ドゥルーズ=ガタリの政治哲学」は、実のところ、精確ではありません。政治哲学が問題になっているのは『哲学とは何か』においてだけだからです(『アンチ・オイディプス』では分裂分析が「政治哲学」と呼ばれてもいましたが、この点については今日は深入りしません)。

 後追いか先取りかという話にもう一度戻れば、ドゥルーズ=ガタリの共著にも、実のところ、先取りの要素を見出せると思います。『千のプラトー』の主たる議論は、マイノリティの闘争を媒介にした万人によるマイノリティ性への生成変化に、グローバル資本主義公理系(私自身はこれを「帝国主義」と呼んでもかまわないと思います)を破壊するための戦術を見出すというものですが、他方でまた、動物性への生成変化、子ども性への生成変化といったことも、芸術や文学に観取されるものとして語られています。これは、我々の観点からすれば、『哲学とは何か』での議論を先取りするものです。別様に言えば、ドゥルーズ=ガタリは芸術や文学に先取りを認めている。重要なのは、しかし、マイノリティそれ自体を動物と看做す『哲学とは何か』とは異なり、『千のプラトー』ではマイノリティと動物(及び子ども)とがあくまでも峻別されているという点です。最も簡潔に言えば、マイノリティは闘うことを知る存在であり、動物や子どもは闘うことを知らない存在だとされます。フーコーは実人生がそっくりそのまま芸術作品になる地点を模索しましたが、ドゥルーズ=ガタリは実人生と芸術とをあくまでも区別して考えています。『千のプラトー』において、社会野に直接関わる問題として扱われていたのはマイノリティ性への生成変化のほうであって、動物性への生成変化ではありませんでした。これに対して『哲学とは何か』では一転、新たな情勢認識の下で、動物性への生成変化が資本主義打倒の革命戦術として位置付け直されたのです。『千のプラトー』がもしも先取りの書としてこれまで読まれてきたのだとしたら、それは、人々が同書を芸術論あるいは文学論の側面から読んできたからでしょう。革命論としては、すべてのマルクス主義革命論がそうであるように、『千のプラトー』もまた後追いの書なのであり、歴史的に規定されていまここに既に存在する世界のそのただなかに革命の萌芽、革命への傾向をback to the futureの流儀で読み取る書なのです。

 佐藤 恥辱とはマジョリティが感じるものです。「こんなひどい出来事が起きた(あるいは起きている)のに、自分は何事もなかったかのようにのうのうと生きている」という感情が恥辱です。この観点から福島について付言すれば、福島でも脱原発運動や、土壌や食物の放射能を市民が測定する脱被曝運動、福島第一原発事故に対する国と東電の責任を問い、その被害を正しく賠償させようとする裁判闘争など、様々な抵抗運動が展開されています(自分たちの土地を強い放射能で汚染された飯舘村の人々は、「これは百姓一揆だ」とさえ言っていました)。そうしたマイノリティ(中央に対する周縁)の抵抗運動を眼前にして恥辱を感じるべきなのが、これまで福島その他の原発で生産された電気を無意識に使い続けてきたマジョリティ、すなわち大都市(中央)の住民です。それなのに何ですか、あの科学者たちの態度は。「熊取六人組」の小出裕章さん、今中哲二さんらのようなごくわずかな例外を除いて、福島に関わっているほとんどすべての科学者は、完全にマジョリティの代弁者です。「あの程度の被曝では健康に影響はない」、「甲状腺ガンは被曝のせいではない」、「あなたたちがここに住んでも何の問題もない」。しかし、何かが起こっていることが明確になった場合、彼らはどうするつもりなのでしょうか。もちろん、彼らは何の責任も取りません。「何も起きてほしくはないが、福島原発事故によってチェルノブイリの数分の一もの放射性物質が放出された以上、何かが起きる可能性は否定できないから、それには備えなければならない」というのが、予防原則に基づく賢明な科学的態度のはずです。それなのに、自分たちに都合のよい論理のみに依拠して「健康に影響はありません」と無責任に言い募るだけだとすれば、それは完全に非科学的な態度だと言わざるを得ない。現時点で、福島県における小児甲状腺ガンは既に全国平均の数十倍の多発となり、被曝線量に比例した地域差さえ明確になっています。それに加えて、データはまだ出揃っておらず、チェルノブイリでは小児甲状腺ガンへの被曝影響が否定しがたい形で証明されたのは、事故後一〇年以後のことでした(原発事故以後に生まれた子供世代に、事故時の子供世代に比べて、甲状腺ガンの明白な減少が見られたからです)。これらの事実を否認してマジョリティの代弁者であり続けるとすれば、科学とは一体何なのでしょうか。科学者とは権力の単なるエイジェントなのでしょうか。ですから私が言いたいのは、科学者たちにはもっと恥辱を知ってほしい、ということなのです。

 (了)