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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

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デザインの「進化」を見る

――ここまで図版を中心にしたデザイン史に関する本はない
対談:柏木博×塚原史

 ■『図鑑デザイン全史』が東京書籍より刊行された。眺めているだけでも楽しい図鑑である。これを機に、同書監訳者の柏木博氏と、ダダやボードリヤール研究で著名な塚原史氏に対談していただいた。(対談日・2月28日、東京・高田馬場にて。須藤巧・本紙編集)

  ■ポータブルなデザインのミュージアムのような一冊

 塚原 本書出版のきっかけはどうだったのですか?

 柏木 私は本書邦訳版の監修者ですが、通史になっていて、これまで見たことがない図版がたくさん入っていて、ずいぶん贅沢な本だなと思いました。デザイン史に関する本でここまで図版を中心にした本はないと思います。訳文も、原書と同じレイアウトにするため、だいぶ苦労しました。

 塚原 本書は一種のモノの図鑑で、美しくて楽しい本です。この一冊が、ポータブルなデザインのミュージアムのようにもなっていると感じます。

 本書冒頭に「デザインとは何か?」とあります。この問いは、これまで意外ときちんと取り上げられていないと思います。「一般的に知られる概念としての「デザイン」は、産業革命によって日用品の大量生産が可能となった19世紀半ばに発祥する」(P15)と本書にあります。「日用品」ということでは、柏木さんの名著『日用品の文化誌』(岩波新書、一九九九年)では、日用品を消費社会の本質的な要素として取り上げ、日用品は外界に関わっていくための根源的なメディアだと言われています。メディアとしての日用品のデザインが、『図鑑デザイン全史』で扱われているわけです。

 柏木 私たちは、モノがなければ現実世界に関わっていけません。モダンデザインには不思議な傾向があって、例えば眼鏡にビスがあるとすると、それを除去するといったように、要素を減らしてミニマムにしていく。最終的には、バウハウスのように、物質を消し去ってしまって、非物質的な世界で私たちは充足できると主張するに至ります。そのとき、自己と、その対象になる世界が実際には消えてしまうので、ユートピアを語りながらユートピアではない、何もない世界に子どもたちが産み落とされるという、へんてこりんな世界になってしまいます。

 一九世紀以降、プロジェクトとしてモノがつくられるようになります。それ以前は、顧客に対してモノをデザインしていましたが、大衆の生活をどうするか、ライフスタイルをどう変えさせるか、そういうプロジェクトとして展開していくようになるわけです。心地よく、使いやすく、美しいものを提供していこうとしていました。けれども例えばアメリカの消費社会では、これが理想的な生活を送るためのものだと言いつつ、翌年にはそれを陳腐化させます。

 塚原 『図鑑デザイン全史』では「デザインとは何か?」に続いて「アーツ・アンド・クラフツ運動」が取り上げられます。ここで私が注目したのは「ガラスと鉄」(P30)です。一八五一年、ロンドンで万国博覧会が開催され、その展示館は「さながら鉄とガラスの大聖堂だった」と本書にあります。また、ヴァルター・ベンヤミンが『パサージュ論』で取り上げていますが、パサージュはまさに鉄とガラスでできています。

 『図鑑デザイン全史』の特徴は、「進化」という言葉が頻出することだと思います。「アーツ・アンド・クラフツ運動」の章では「椅子の進化」(P46)、「自転車の進化」(P52)、次の「アール・ヌーヴォー」では「照明器具の進化」(P100)、「カメラの進化」(P108)、「アール・デコ」では「鉄道車両の進化」(P130)、「時計の進化」(P140)、「モダニズム」では「オーディオの進化」(P198)、「タイプライターの進化」(P206)、「ミッドセンチュリー・モダン」では「真空掃除機の進化」(P236)、「自動車の進化」(P256)、「文化革命」では「テレビの進化」(P264)、「ギターの進化」(P308)といった具合です。マニアックな人たちはワクワクするでしょう(笑)。原著のこの「進化」という発想は、柏木さんのアイディアとも重なっているのではないでしょうか。『日用品の文化誌』でも、ギターのことなどがかなり詳しく書かれています。

 柏木 ベルリンの壁が壊れたとき、西側でロックを流していた。ロックをやるにはギターが必要で、バイオリンではなかった。エレクトリック・ギターは象徴的なすごい楽器だと、私の頭には刷り込まれています。旧ソ連のモスクワの楽器店でエレクトリック・ギターを探してもほぼ見つからないんだけれど、電話のなかにあるピックアップを使うとエレクトリック・ギターになるということを誰かが当時書いたら、公衆電話が全部壊されたそうです(笑)。

 塚原 エレクトリック・ギターはプロテストの道具でもあるわけですが、モノそのものとしてそうした性格を持っているということですね。柏木さんは『日用品の文化誌』でギターは「不完全な楽器」だと書かれています。その不完全さゆえに、弦を歪ませる奏法が生み出され、それがギターの特性にもなっていると。『図鑑デザイン全史』では、ギターの歴史についても相当遡って扱っています。

 「タイプライターの進化」も面白いですね。ウィリアム・バロウズの『裸のランチ』ではないですが、現在のパソコンなどの電子機器とは違って、タイプライター自体が一つのモノとして独立した意志を持っているようです。ダダイズムやレトリスムは、文字の配列をランダムにしたりしますが、タイプライターを使えばそれは簡単にできることでもあったでしょう。

 また、柏木さんは、美術史や音楽史や文学史と同じように、デザイン史があってもいいんじゃないかとおっしゃっています。美術史は大きな体系としてあり、それと比べるとデザイン史はアカデミックな意味ではこれまでマイナーなものでした。しかし例えば掃除機は、現在の消費社会では誰もが日常的に使っているものですが、それも広い意味での美学の対象になっている。私は、デザインとは個性の表現であると思っています。追求された個性が時代をあらわしている。そのことが『図鑑デザイン全史』を読むとよくわかります。

 柏木 確かに本書はミュージアムのようですね。悲しいことに日本にはデザイン・ミュージアムがありません。

 塚原 例えばiPhoneは、絶えず更新されていきますよね。仮に「iPhoneミュージアム」があったとすると、そこには外見的にはほぼ変わらない商品がズラッと並ぶことになるでしょう。つまり個性というものが進化のなかで見えづらくなるというか、表現が変わってしまう。その意味で、昔のものを置いておかないと、忘れてしまう。新しいものの何が新しいのかと考えると、「まだない」ものが新しいという考えがあると同時に、「もうない」ものも実は新しいのではないか。

 柏木 ブロッホがそういうことを書いていましたね。

 タイプライターは便利な道具であると同時に、特に初期の段階では「活字」を手に入れることでもありました。タイプライターを打っているうちに自分のクセが出てくるし、活字が欠けたりもしてくるので、タイプライターをめぐる探偵小説が書かれたりもします。デヴィッド・クローネンバーグが撮った『裸のランチ』もそうですが、タイプライターが個人化していきます。ところが面白いことに、タイプライターがワープロやパソコンになってきても、キーボードのあのズレズレの文字の配列は変わらなかった。また、iPhoneについては、外見はあまり変わらずに中身(ソフト、アプリ)が変わっていく。目に見えないところのデザインが変わっていく。パソコンが出始めたころは、これ一台買えばずっと使えるものだと思っていましたが、まったくそうはならなかった(笑)。それと、ラップトップ型のパソコンをかつて買ったとき、押した感覚がないキーボードがセットされていて、あれは嫌でしたね。電子的なものですから、触れば文字が打ちこめるということで本当は構わないんですが、「押した」感覚が知覚に伝わってこないのはダメでしたね。

 2ページ以降はこちら

生命というものの深遠さ

――多様な生き物たちの「顔」が映し出されていく
評者:黒川類

 ■Endangeredとは、「絶滅の危機にさらされた、絶滅寸前の」という形容詞であり、通例、わたしたちが知っている絶滅危惧種は、Endangered Speciesとなる。生態系という概念を背景に、生物多様性ということが語られるようになったのは、一九八〇年代の頃だった。そしてほぼ同時期の頃、高度消費社会、あるいは高度資本主義社会といったことが喧伝され、やがてインターネットの急速な発達とともに、グローバル社会の到来ということもいわれだしていった。だが、そのことによって環境問題というカテゴリーが人間社会と自然界という二項対立から、いまや微細に、そして不透明なかたちで病巣のようなものが人間社会のなかに潜在しながら瀰漫してきたといえる。だから、人間が自然とどう向き合っていくのかということよりも、人間自体、つまり人間社会の有り様自体を問い直さなければ、人間という存在自体が危うくなっているということを、わたし(たち)は気づくべきなのだ。本書に文章を寄せているナショナルジオグラフィック協会の主任研究員のジョナサン・ベイリーは、「私たちは、人類の祖先を何百万年間も育み、人類を形作ってきた環境から遠ざかり続けている」(「プロローグ」)と警告している。

 本書は、「肖像写真のような動物の写真と、動物のしぐさや特徴を捉える際の独創性で著名な写真家」であるティム・フラックによる絶滅危惧種の生物たちの写真集であり、ジョナサン・ベイリーと「環境保護に情熱を抱くライター」のサム・ウェルズの文章を織り込んで、「生物やその生息環境との心のつながりを育むため、画像がどう役立つのかを探究するという、ユニークな実験」(「同前」)であるという。

 ティム・フラックは、次のように述べている。

 「『異質なもの』との橋渡しをすることより、むしろ動物たちの個性を強調した肖像写真を撮影し、『同じもの』だという感覚を起こそうとしたのだ。また、一方で彼らの生態系の重要な側面を示す抽象的な写真や風景写真も取り入れている。」(「はじめに」)

 表紙カバーは、キツネザルの仲間だという、マダガスカルに生息するカンムリベローシファカが足を組んでじっと見つめている姿だ。表情といい佇まいといい、わたし(たち)と「同じ」だという感覚は確かに起きてくる。一転、見開きの頁には、裸殻翼足類という「体長5cm未満の半透明の体を持つナメクジや巻貝の仲間の軟体動物」の肖像写真だ。実際は海中なのだが、まるで宇宙を彷徨いながら飛行しているかのように捉えている。二頁には、キノボリセンザンコウの子どもが母親の尻尾に捉まっているらしい写真だ。一瞬、愛くるしいイメージを喚起されるが、よく見ていくと「異質」性が際立ってくる。カバやホッキョクグマ、サンゴ、チンパンジー、オランウータン、テングザル、レッサーパンダ、ジャイアントパンダ、ホタル、タンチョウ(釧路湿原国立公園の雪原で求愛ダンスを踊る二羽を活写)、アフリカゾウ、チーター、ライオン、サイ(なかでも、キタシロサイは、この後、一世代で絶滅するという)、サメ、ワニというよく知られたものから、目がないホライモリ、縫いぐるみのキャラクターのような顔のアホロートル(メキシコサンショウウオ)、まるで悟りを開いたような顔つきのフタイロタマリン、顔が奇妙な美しさを湛えているクロキンシコウ、暗い顔つきのキンシコウ(ゴールデンモンキー)といった異様な、異質な雰囲気をもつものまで、多様な生き物たちの「顔」が映し出されていく。ジョナサン・ベイリーは、「エピローグ」で、「本書は、人間が視覚的イメージを通して、なぜ、どのようにして他の生物に感情移入するのかを探究する最初の一歩となっている」と述べているが、確かにそうかもしれない。しかし、それぞれに顔があるということが認知できたからといって、距離感が縮まるわけではない。むしろ、明快な違いをあらためて了解することになるのだ。そのことをさらに敷衍して述べるならば、著者は「はじめに」の最後をまるで読者に問いかけるように「本書の題名は『Endangered』だが、問題はそれが何に当てはまるかだ」と締めくくっているが、わたしなら、こう答えてみたい。

 ウミイグアナやタツノオトシゴの顔のアップと視線から感受するのは、生命というものの深遠さである。つまり、そこには確かに生命という表情があるのだ。では、わたし(たち)、ヒトの顔はどうだろうか。顔(表情)がなくなりつつあるのが、〈現在〉のわたし(たち)ではないのかと暗澹たる思いになる。だから、Endangeredは、ヒト科の明日を示していると、わたしならいいたい。

 (評論家)

「ライフヒストリー」と「聞き書き」の相互作用の重要性

――交差的かつ極めて人間的な読みの可能性に向けて開かれた好著
評者:中山弘明

■かつては文壇なるものが燦然と存在し、銀座やゴールデン街あたりの通称「文壇バー」には、夜な夜な飲んだくれた「文士」達が編集者ととぐろを巻いていたという。そこに行けば作家の謦咳に接することも容易だったろう。盛期には文士の「鹿しばい」やら「野球大会」「ゴルフコンペ」も日常であった。それが完全に解体した。そればかりではない。現代作家を解説する簡便なマニュアルや文学全集にさえ事欠くありさまである。本書を編集した飯田橋文学会のホームページを見ると、「文学者たちが、定期的に顔を合わせ、話をする」、そんな「機会さえありませんでした」とある。まさにこれが現代作家の置かれた近況であるだろう。ここにはむろん近年の人文知の置かれた危機的状況もある。

 当の飯田橋文学会に少しだけ言及しておけば、二〇一三年、作家の平野啓一郎を中核に気鋭の研究者が声をかけあい、「参加者の創作物や最新ニュース、朗読・対談その他の動画、ゲストの招待、イヴェントの告知」などを発信していく形ではじめられたという。それは、ひいては著名作家を「アーカイブ」として残すという動きに繋がり、本書に収められた作家の他にも小川洋子、宮本輝らのトークイベントの記録が一部無料で配信されている。平野の基本コンセプトによれば、自己の「創作活動」の代表三作品を選出してもらい、その「活動の通史を概説・詳説してもらうこと」、そしてその中には、自作の一部を朗読する時間もとっている。場所は一部を除いて、東京大学附属図書館で収録された。トークイベントの体裁から、参加者との交流、質疑も収録されているほか、作家の略年譜や著作目録のほか、発言には丁寧な注も付され、年季の入った読者から、はじめて作家に触れる若い学生にまで、配慮したものになっている。全三巻は、順をおって、高橋源一郎、古井由吉、瀬戸内寂聴、谷川俊太郎、横尾忠則、石牟礼道子、筒井康隆、島田雅彦、林京子、黒井千次といったラインナップで、どうして「文壇バー」をはるかに超えて、目下、格好の作家案内の意義も備えた待望の書と言って過言ではない。むしろ「国文学者」が、これまでこうした作業を怠ってきた責は大きい。同時に近年物故した石牟礼や林の肉声を記録したことの意義も計り知れないものであろう。

 ここでは近年話題の「オーラルヒストリー」の視点から、いくつかの問題点を抽出してみたい。八〇年代の所謂歴史学の「言語論的転回」以来、こうした「口述資料」の価値も急速に高まってきたことは言うまでもない。文学にあっても森崎和江、山崎朋子、澤地久枝らの「聞き書き」による調査が新たな視野を開いた事実は周知のところだ。女性抗夫からの聞き書き『まっくら』(一九六一)を書いた森崎は、「聞き書きの記憶の中を流れるもの」(一九九二)と題した論考で「伝承」の持つ「公的」側面以外に「私的」部分の重要性に触れ、聞き書きの魅力の一つとして言葉の「肌ざわりを感じとること」に言及する。『まっくら』のあとがきでは、それが「抵抗の集約」された力に転化することにもなる。これは石牟礼の「手仕事という手でする仕事。それを人間の感覚のなかで一番鋭敏なものとして描きたい」との言葉や、林の原爆から「生き残った罪」を問うために「その日付に何度でも戻っていく」との肉声とも呼応する。これはまさに肉体から発せられた身体の言葉であるところに深く読むものを撃つ力となるだろう。大門正克は近著『語る歴史、聞く歴史』(二〇一七)の中で、こうした歴史の中の身体性を見直していくことが、「オーラルヒストリー」の可能性であり、聞き取りのもつ対面性という「場」の力が、文字資料と口述資料を架橋する糸口になるとしてもいるのである。その意味で、各インタビュアーのポジショナリティは大きい。語りはインタビュアーとの対話によって成立するからには、当然、聴き手が異なり、場が変わることで、別種の語りが現出するところにこうした「聞き書き」の魅力もある。これも注目すべき近著の『わが記憶、わが記録 堤清二×辻井喬オーラルヒストリー』(二〇一五)や『舞台をまわす、舞台がまわる 山崎正和オーラルヒストリー』(二〇一七)をまとめた御厨貴は、芸術家、作家らの語りは、「芸談義」に終始しがちな、「危険性を孕んでいる」(『オーラル・ヒストリー』二〇〇二)と述べ、周到な事前準備と「質問表」の提示による「メソッド」の確立を強調している。本書でも、トークショーを意識してしゃべりすぎの感があるインタビューがいくつかあったことも事実だし、やや散漫な語りに終始している部分もあった。人文系の研究において、こうした「オーラルヒストリー」の成否を握る「メソッド」の必要性は急務と言うべきだろう。

 今一つ、「ライフヒストリー」と「聞き書き」の相互作用の重要性も感じられた。多くの作家に共通するテーマの一つが「死」の問題であるのは、彼等の経てきた時間の長さを考えるとき、自明とも言える。例えば横尾は、「死」が常に「肉体の細胞のなかに定着した形で入っている」として幼少期の空襲体験と近作の関連に触れる。谷川は「自分の死は怖くなくて、他人の死が怖い」とも述べる。自己の作品はすべて「場の文学」であり、その中には「死者たちも含まれる」と言う古井にしても同様である。過去を遡及的に振り返るとき、そこにある種の「修正」や「粉飾」が加えられ、一種の「物語世界」を形成するのは避けられない。我々は過去を語るとき、なにがしかの「モデルストリー」を一つの「ライフヒストリー」として参照するのではないだろうか。幼少期、戦争を体験した者にとってそれは大きな意味を持つ。こうした行為は歴史を語る多くの「ナラティヴ」の中で、言わば支配的に重層化されてきたと言ってよいだろう。だからといってそこで発せられた言葉を「嘘」と決めつけることはあまりに不毛である。むしろこうした「アーカイブ」の試みは、多様な世代に広げて、幾重にも積み重ねていく必要性が、今こそ求められている。「ライフヒストリー」は多様な形で、しかも文字資料と口述資料を往復する形で蓄積されていかねばならぬはずである。編集者や研究者もそこに参画することで文学史も書き換わる。こうしたブックガイドもその一つだが、冒頭で紹介した飯田橋文学会の試みのように、動画やSNSを駆使して多様な形で発信し、次代の文学の可能性をその中から模索することが可能な時代となった。本書を手にとったものには是非、公開されている動画から、作家の「肉声」、「表情」、「仕草」を目撃することを勧めたい。そうした交差的かつ極めて人間的な読みの可能性に向けて開かれた好著である。

(徳島文理大学教授)