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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

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 ◆ 3350号(4月28日発売号掲載)

隠蔽と改竄の国家的氾濫

――異常が日常と化し、異常が異常と認識されない嵐の夜の中では、個々の抵抗の集積しかない
インタビュー:青木理氏

 ■安倍政権下での情報隠蔽が次々と明るみに出ている。森友学園問題をはじめ、加計学園問題、自衛隊の南スーダンPKO日報隠蔽やイラク戦争日報隠蔽等々、もはや枚挙にいとまがない。しかし政府は、政治家の関与はない、問題ないの一点張りで逃げ切るつもりだ。

 公文書の隠蔽や改竄は、憲法の柱である国民主権を無にする専横に他ならない。特定秘密保護法や安保法制、武器輸出三原則の骨抜きは、もう一つの柱である平和主義の無化でもある。さらに共謀罪は、憲法に保障された基本的人権を掘り崩すものである。これらはいずれも、情報隠蔽国家の然らしめる病理に他ならない。

 先ごろ、フリージャーナリストの青木理氏が『情報隠蔽国家』(河出書房新社)を刊行した。この国家の病理に切り込む青木氏に、本書をめぐって話をうかがった。(3月26日、東京・赤坂にて。聞き手・米田綱路〔本紙編集〕)

 ――いま安倍政権下で、メディアやジャーナリズムがあまねく拠って立つべき基本原則が、完全に抜け落ちたという実感をますます強めます。『ニュース女子』問題に見られる沖縄ヘイトの煽動、国際政治学者の三浦瑠麗氏がテレビ番組でスリーパーセルを持ち出して恐怖を煽るといった事件は、事実に拠って立つ根本が欠落した、顕著な例です。

 ジャーナリストや言論人の差別感情、政治権力との距離感のなさを象徴する事件が続出していますが、これらはとりわけ安倍政権下の問題なのか、それとも戦後日本の沖縄差別や朝鮮人差別、在日朝鮮人を犯罪者と見なす連綿たる意識がこういう形で噴出しているのか。青木さんはどうお考えですか。

 青木 事態は深刻なほど複合的です。僕たちの足場である出版などは、まさに悪しき時代の写し鏡と化していて、思想性の欠片もないタレント弁護士による『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』などという明確なヘイト本が、この国の最大手出版社から刊行され、ベストセラーになっている。まったくひどい惨状ですが、これを傍観するわけにはいかない。さほど遠からず、取り返しのつかない状況に陥るのは間違いないからです。

 『情報隠蔽国家』では、ウンベルト・エーコの『永遠のファシズム』(和田忠彦訳、岩波書店、一九九八年)を引きました。「どんな理論も、日々占領地域を拡大していく匍匐前進の不寛容のまえでは無効でしかない」「思考なき純粋な獣性を前にしたとき、思考は無力だ。だから、継続的な教育を通じ、野蛮な不寛容は、徹底的に打ちのめしておくべきなのだ」とエーコは言った。

 バカな国際政治学者が最近、スリーパーセルなどと言い出しましたが、大手のテレビや新聞、出版の世界にだって類似の言説は飛び交っている。「不寛容」という「思考なき獣性」をメディアが煽っている。エーコの言葉に従うなら、相当に危険な状態です。

 まず政治レベルで考えれば、現政権の跳躍台は北朝鮮でした。小泉政権時代の二〇〇二年と〇四年に日朝首脳会談があり、北朝鮮と拉致問題が最大関心事としてクローズアップされた。これを機に、それまでポッと出の若手にすぎなかった安倍晋三が一躍脚光を浴びた。歴史への自省も、アジアの平和と安定に関する外交的な役割も捨て去り、ひたすら北朝鮮に単純皮相な強硬姿勢を示すことを唯一最大の売り物にして、一気に政界の階段を駆け上って首相になったわけです。経験不足と健康問題で一度目の執権は無残な失敗に終わったけれど、二度目は周囲にも支えられて長期政権を成し遂げている。一貫した成功体験が北朝鮮問題です。昨年の総選挙の際も北朝鮮情勢を「国難」と言い放ちました。

 しかし、冷静になって俯瞰すれば、何一つ前進していない。拉致問題だって一ミリも動いていない。当たり前です。対話や交渉なくして問題が前進するはずもないのですが、そんなことすら顧みられることがない。

 と同時に、非常に病的だと思うのは、そうした政権の空気が社会全体にじんわりと広がってしまった点です。メディアは特にそうですが、日朝首脳会談や拉致問題を契機とし、北朝鮮に対しては何を言おうが、いくら罵ろうが蔑もうが、なんら問題ないかのような状況に陥ってしまった。街角でヘイトスピーチをがなりたてるような真正の愚か者は論外としても、大手の新聞やテレビ、そして出版なども北朝鮮を平然と笑い物にしている。その対象は北朝鮮から中国、韓国にまで広がり、書店にはヘイト本が堂々と山積みにされている。メディアがそういうムードを作り出し、煽り、さらにはそういうムードにすっかり縛られてしまっている。

 先ごろは平昌五輪を契機とし、南北朝鮮の対話が急進展しました。朝鮮半島の危機局面をなんとしても対話局面に持っていこうと懸命の韓国は、文在寅政権が積極的に動き、史上初の米朝首脳会談が実現するかもしれない局面を作り出した。しかし、この韓国の努力と南北対話のムーブメントを日本のメディアは一貫して冷笑していましたね。ほとんどすべてのメディアのトーンはほぼ例外なく同じでした。北朝鮮は信用できない、時間稼ぎに利用されるだけだ、北朝鮮の思惑に踊らされてはならない、そんな主張ばかりが覆い尽くした。もちろん北朝鮮側にそういう思惑があることを否定しませんが、北朝鮮や朝鮮半島を眺める視線があまりに画一的で、複眼性や俯瞰性、歴史性がまったく抜け落ちている。意識的なのか無意識的なのかはともかく、これは政権の思惑にぴったりと重なり合っている。

 こうした視野狭窄に陥ると、現実外交の面でもマイナスは大きい。政策の幅が極端に狭まってしまうし、実際に南北から米朝の対話へと動きが進む中、日本の外交は案の定、すっかり取り残されてしまいました。

 また歴史的に考えても、日本は北朝鮮との間で戦後処理すら終わっていない。かつて植民地支配した朝鮮半島の分断の責務から逃れられるはずもないのに、そうした自省や歴史観を語る声などほとんど聞かれない。一見威勢のいい「圧力」論に隣国への罵声が加わり、自省や歴史観といったものが上書きされてしまったような惨状です。

 こうした日本社会の現状を醸成した要因はほかにもある。少し前までは日本がアジアでナンバーワンの経済大国だという妙な自信というか、余裕のようなものがあったけれど、国家レベルでは中国に追い抜かれ、日本の地位は相対的に低下した。国内では格差や貧困が広がり、財政赤字や少子高齢化などによって将来が見通せない。漠然とした不安や焦燥が広がる中、そのはけ口をどこに求めようかというとき、足下のマイノリティや隣国叩きにそれを求めてしまっている。日本社会にもともと埋め込まれていた差別心が公然と表に噴き出した面もあるでしょう。現政権はそうした日本社会の「不寛容」や「獣性」といった腐臭に拠って長期政権を維持しています。

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怒りを力にする知

――政治の創出を疎外することに無自覚な投票の呼びかけには、私はのらない
評者:阿部小涼

 ■ジュゴンが仲良しのウミガメと一緒に姿を見せると、ミナミコメツキガニが一斉に手を振って挨拶しました。イタジイがざわざわと枝葉を揺すりながらやってきます。根元にはまだヒトに命名されていないランの原種、ウラボシシジミやイボイモリの姿も見えます。困惑の色を隠せない岩ズリや赤土も、みな、手に手に一票を持っています。戦の死者たちも、投票所に足を運びました。アジアの風を乗せた大浦湾の波が寄せては返し、幾度となく無数の票を運びました。

 ラトゥールの「モノの議会」のことを考えているのだが、これではまだ、指輪物語の世界を脱しきれず、手や足の生えた近代人をモノに擬態させているに過ぎない。

 人々による決定を旨とする民主主義が、資本の力によって歪められている時代に、私たちは生きている。社会的なものを切り棄てるリベラル・ガヴァナンスを飲み込みつつ、高度な普遍性を偽装するネオリベの時代に、全的な生存権/圏は危機に瀕している。

 だが、いましばらくは、モノたちの投票も議会も、実現しそうにない。だから、現代日本の代行政治に信頼を置けない沖縄の私たちは、政治を、直接行動の空間において豊かに鍛え直しているところだ。

 最近その沖縄で「県民投票」の語がキャンペーン化しているのだが、これを直接行動と短絡する向きには注意が必要だ。県民・市民投票の経験や反省を超えて辺野古で直接行動する人々からは、「県民投票」キャンペーンは過去への適切な評価を欠いているのではないかと問われている。加えて未来への省察もない、と言うべきだろう。

 政治の創出を疎外することに無自覚な投票の呼びかけには、私はのらない。

 空から降り注ぐ危険と世界への攻撃がやまないなかで、極めて限定された「辺野古の米軍基地建設の是非」という選択肢は、果たしてわたしたちの問いなのか。SNSの世論操作性が明るみになるなか、制度化された投票を最終解決であるかのように盛り上げるのは、人々の決定に至るプロセスをブラックボックス、あるいはブラックホールに投げ込んで放棄してしまう行為ではないのか。キャンペーンそのものが直接行動によって織りなされる豊饒な政治を無駄な労苦に貶める効果を帯びているという意味で、普遍性の隠れ蓑を着たネオリベ的合理主義が忍び寄っていると言えまいか。体裁のよい員数に成型された市民の投票から出る結果であれば日米両政府や司法も受け容れると仮想することは、人びとの身体に直接加えられている暴力に政治が無関心を決め込んでいる現状を、結果的に肯定していないか。剥き出しの暴力が振るわれている片手を容認しつつ、もう一方の手で投票させるのは、民主主義ではない。その結果が長期に及ぶ悲惨を招くことを、すでに沖縄の人々は知っている。

 2016年10月高江。「土人」「シナ人」「黙れ」「触るな」。警察権力の発話にごうごうと批判が起こったが、責任者は意にも介さぬ風情で「職務を遂行した」と讃えた。このような憎悪による名付けは、敵を奇妙なもの、意味の分からないモノだと認識論的に整理して、無視、嘲笑、制裁を加えることを可能にする。人が人を殺戮できるよう人間性を剥奪する効果を持つから、許してはならないというのが歴史の教訓だ。ところが日本政府は差別とはいえないと閣議決定までして、憎悪の発話が持つ効果を正当化してしまった。日本が帝国主義支配した地域と人々への反省も損なわれた。

 そのようななかで、国境という地政学を甘受するかのように自衛隊という暴力装置の配備が進行し、沖縄以外なら米軍基地暴力を維持して構わないという代案があたかも合理的解決策のように喧伝され、裁判所は国際的に練り上げられてきた人権基準を判断に採り入れることを拒否している。虐殺を命令として遂行可能にする軍事主義は、共同でこれを遂行することを通して、日本人「同士」という安心感を脅迫的に再確認させる呼びかけになる。

 ロープで縛り上げてよいモノ、檻に閉じ込めてガスを吸わせてかまわないモノ、引き剥がし引き摺ってかまわないモノ、波間に沈めてよいモノ。職務の遂行を通じて、日本は沖縄に暮らし軍事主義とたたかう私たちを、そのようなモノにしている。土人でシナ人で有罪で例外的な、キミョウナカジツにしている。そのようなモノのひとりとして、私はモノたちの議会の創出に憧れている。

 さて、大学もまた、ネオリベの猛威による民主主義の危機が典型的に表れている場所のひとつである。そのような琉球大学の「平和論」講義から本を編むことになった。頁数を抑えた「教科書」的な体裁なら本もまだ売れるという学術出版の動向から逃れてはいない。しかし、タイトルを議論する際に、本書で平和憲法を論じる高良鉄美さんから「怒り」という語が推挙された。紙の上で暴力を論じるのみで満悦していた私は虚を突かれ、そして大いに賛同し、そのような温度のなかで本書は上梓されたことをお伝えしておきたいと思う。怒りを力にする知が、座り込みの路上や波間に、日々、創出されている。私たちの法が、そこから生まれている。

 (琉球大学教員)

問題の「焔」は読後も長くわれわれの裡で燃えさかる

――SF的あるいは幻想的な手法が駆使されつつ物語の肉付けがされる
評者:伊藤氏貴

 ■日暮れどきに人びとが集まってくる。多くは子どもたちだ。火が焚かれ、そこを囲んで大人たちがかわるがわる語りだす。ウガンダ北部の町、グルでの光景だ。

 物語の内容は、現地のことばがわからない私にはちんぷんかんぷんだ。ただ、おそらく語りのプロではない、途中で何度も詰まってしまうその語り手の顔を子どもたちは熱心に見つめている。夜を徹して行われるこの集まりに、子どもたちの多くは途中で力尽き、眠りに落ちる。それでいい。これはそもそも彼らに安心な眠りを与えるための催しとしてはじまったものだ。村に古くから伝わる伝統のようなものではない。

 長くつづいた内戦で、ゲリラに狙われるこの町は、しばしば夜に子どもが攫われ、少年兵、少女兵にさせられた。それから身を守るためにみんなで集まって夜を過ごすようになった。大人たちが順に見張りをし、子どもたちに話を聞かせる。

 昔から言い伝えられた話もあるが、語り手自身の内戦での過酷な経験もあるとのことで、火を囲んでの語りという経験は、子どもたちにとって決してほのぼのした心温まるものではない。その安心は束の間のものだ。それでも、焔と語りとは、あまりに厳しい世界を生き抜くための休息と知恵とを彼らに与えるものだった。

 おそらく、内戦のウガンダだけでなく、人間にとって焔と語りとの関係はどの場所でも同様にしてはじまったに違いない。夜行性の敵たちから身を守り、明日を生き抜くための知恵を年長者から授かり、希望や絶望を語り合うための集い、その中心としての焔。それが囲炉裏を囲んでの和やかな昔語りになったのは人類史のごく最近のことだろう。

 長い前置きになってしまったが、本書の全体について語るには必要だった。連作というには各編同士の繋がりはなく、かたや短編集というには一つの大きな全体をかたちづくっている本書をなんと呼べばいいのか。各編を繋ぐのは、間に挟まれた短い語り、「焔」を中心に一人ひとりの語り手についてのエピソードであり、彼らは語り終えると順にその場を離れ、闇へと消え去ってゆく。それは決して団欒などではない。焔は身を守る温かいものであるというより、世界の厳しさを炙り出すものである。しかし、生き抜くためにはそこでなされる語りに耳を傾けることが必要なのだ。

 第一編「ピンク」では、九日連続で四十度越えの日がつづくほどに温暖化が進んだ世界が描かれる。その暑さの中、人は突然イスラムの旋回舞踊のような動きをはじめる。もちろん死者も出る。それでも人びとは回ることを止めず、寺の境内などに集まっては狂ったように回る。言うまでもなく、それは何かを忘れるため、何かから逃げるためだろう。

 炎暑は人の脳を溶かしはしても、国境を溶解させはしない。日本は周辺諸国と戦闘状態にあり、戦況芳しからず、敵はとうとう本州にまで及ばんとする。もちろん集団疎開ならぬ集団旋回は、竹槍ほどにも効果はない。必要なのはただ群れ集って根拠のない安心感を得ることでも、放心して現状から目を背けることでもなく、各自が己の物語をただしく語ることである。ここには全編に亘るモチーフが逆説的に示されている。

 第二編「木星」でも、戦争ができる国、を越えてほんとうに戦争をしてしまった国、日本が描かれる。問題は、戦争というものがあまり現実感を伴わずにはじまってしまうということだ。人にはあまりに辛いことを他人事のように感じる心の機制が具わっている。ましてやまだ自分に直接関係のないときにはなおさら他人事だ。われわれは七十年以上前に実際にあった戦争をすらもはや自分たちのものとしては捉えられない。とすれば、来るべき戦争などわがことと思えるはずがない。

 以下、戦争が必ずしもライトモチーフとなっているわけではないが、国境、民族、資本主義、介護など、われわれが今まさに抱えつつ目を背けがちな問題について、SF的あるいは幻想的な手法が駆使されつつ物語の肉付けがされる。

 もちろん、問題や主張を読み取らなければならないということではない。簡単明瞭な主張があるならば、なにも小説などという方法を用いる必要はなかっただろう。しかしたとえば、角力というスポーツの世界を描いて見せても、少なくともそこに渦巻く「問題」だけは見逃すことができない。

  語り手は物語の終了とともに去る。しかし彼がわれわれの胸に置いていった問題の「焔」は読後も長くわれわれの裡で燃えさかるだろう。ここに示されている「世界」について考えつづけることが生き抜くために必要だと、この焔はわれわれに迫るのだ。

 (文芸評論家)